米澤穂信『愚者のエンドロール』

主人公の折木奉太郎(おれきほうたろう)は、なぜ古典部に入ったのか。あらゆることを自らの「省エネ」の視点で考える彼が、なぜ部活動をすることになるのか。
まず、この場合、二つを区別しなければならない。

  • 入部の手続きを行うこと。
  • 実際に部活動をすること。

前者の「原因」は、姉のお願いである。この学校の古典部のOBである彼の姉が、古典部を廃部にさせないでほしい、という依頼があり、この「やりとり」に労力を費すことを肯としない彼が、「名前だけ」部員として「なら」、ということで選択したわけだ。
ところが、この「動機」は、千反田える(ちたんだえる)がすでに、入部していたことにより、「不要」になる。つまり、この時点で、上記の後者だけでなく、前者も不要となる。
しかし、千反田は、上記の前者が成立していることを理由として、彼が後者も行うことを「当然」とする。つまり、千反田と一緒に折木が部活動をする、と。
このことに反論できない(反論することによる、千反田との軋轢を、面倒に思う)折木は、その「省エネ」のポリシーによって、逆に、この古典部の活動に深入りしていくことになる。
では、古典部とは、なにか。なにをするところなのか?
しかしそれは、千反田も知らなかったわけだ。というのは、千反田にとっても、古典部の「活動が入部の目的ではなかった」から、だ。つまり、彼女も古典部という「古典部のやるべきこと」がやりたいから入部したのではないからだ。
こうして、この「古典シリーズ」のフレームは完成する。

  • なぜ千反田は古典部で活動しているのか?

つまり、古典部がなにをやる部活かは、上記のフレームより、千反田が何が「気になる」かが、必要十分となったわけである。
千反田が、何かに気になり、折木に「質問」をしたとき、作品は動き始める。折木は、「省エネ」にしか興味がない。ほかに、なにも、やりたいことがない存在と考えればいい。その彼に、千反田が質問した(折木のいるところで、千反田が、「気になる」と言う)とするなら、折木としては、そこから生まれる「トラブル」を考えて、彼女に
答え
を提示しないわけにいかない。なぜなら、そうしないという選択が、そうした場合に比べ、「ストレス」となる可能性が高く思われるからだ。ようするに、彼女が「納得」をすればいい。そう考えた場合の、「お手頃の答え」を用意することが、「簡単」に行えれば、「もめない」という「省エネ」を実現できるからだ。
このように考えたとき、問題は、

  • なぜ、千反田は気に「なった」のか

ではないだろうか。つまり、彼女の「動機」はなんなのか、である。シリーズ一作目の『氷菓』では、それは、明確に示されていた。しかし、逆に言えば、なぜ、その後があるのだろう? つまり、彼女は、なぜ、一作目で自分が古典部に入部した「動機」が解決した後も古典部の「活動」をしているのだろう。
それは、そもそも、古典部の活動とはなんだと定義すべきなのか、に関係する。
1年生しかいない、古典部では、この部が、そもそも、なにをする部なのかが、非常に「曖昧」である。
ということは、どういうことだろう?
それは、そもそも、この部に「率先」して、入部した千反田が、「どう行動するか」に完全に依存していることになる。上記でも記述したように、彼女が
気になる
と言ったとき、「古典部システム」は発動する。その一言によって、折木は、なにか「答え」らしきものを用意して、彼女のその「気になる」を「満足」させなければならなくなる。
私たちは、「正しい」という「真理」という表現をよく使う。しかし、人間が真理を捕まえることはできない、というのが、プラグマティズム的な認識だと言えるだろう。つまり、あらゆることが、「仮説」なのである。
では、このことを、どのように考えればいいのか。科学における、反証可能性とは、なんにせよ、

  • 繰り返すことを「だれ」でも「いつ」でもできる

ということが、その普遍性を主張する。この場合、だれかが「うまくいかなかった」というケースに遭遇したら、それ(その否定の方)に対して同じように、
繰り返すことを「だれ」でも「いつ」でもできる
ことを確認されたとき、科学的事実は変更される、と考える。
では、一回だけの歴史はどうだろう。一年前の今日の今の時刻、自分がどこにいて、なにをしていたかは、一意であろう。しかし、それを証明する方法はあるだろうか。なんらかの、他者の証言を得られれば、そのアリバイは補強されるだろう。そうやっていくことで、より確からしくはなる。しかし、この場合、「本当」とはなんだろう? プラグマティズム的には、

  • そう言っている人がいる

を超えることはない。つまり、原理的にこの認識を一意にする方法がないのだ。
掲題の本において、折木は、二年F組制作途中のビデオ映画の前半を観賞して、その脚本の「後半」を
推理
する。ところが、この推理は「絶対」に成功しない。なぜなら、その「仮定」が間違っているからだ。つまり、制作途中の前半が「(脚本家の意図の通りの)脚本通りにできていない」からだ。つまり、脚本家の意図した後半通りの内容だと、完成している前半と
矛盾
する。だとするなら、完成している前半と整合的な内容にしようと「してはならない」ということになる。
つまり、やっていることが最初から間違っていた、ということになる。
ところが、それは「依頼した人」は知っているはず、のことである。つまり、依頼者がある「嘘」を言うことによって、成立していた依頼だということになる。
では聞こう。
折木は、なにをしていることになるのか?
なぜ折木は「間違った」のか?

信号が変わり、人の波が動き始めると、千反田はゆっくりと話し出した。
「折木さん、今回の一件で、わたしが気になっていたことが何か、わかりますか」
何をいまさら、と俺は率直な返事を返す。
「二年F組のビデオ映画が、どういう結末に終わるのか、だろう。そのためにやってきたんだ」
しかし千反田は、意外にも首を横に振った。
背にかかっていた長髪あふわりと揺れる。
「違います。わたし、本当は、映画の結末はどんなでも構わないと思っていました。だから折木さんの案も、とてもよかったと思います」
「じゃあ......」
「わたし本郷さんという方のことが気になっているんです」

折木が間違ったのは「自分が何をやらなければならないのか」を忘れたことにつきる。

  • ビデオ映画がどういう結末に終わるのか。

この問題設定が間違っていたなら、まず、その命題を分解するところから始めるしかない。

  • 脚本家の本郷が意図したストーリーは何か。
  • ビデオ映画の完成している前半は、そのストーリーと整合的か。

つまり、この二つが成立していなければならない限り、ビデオ映画の結末を完成している前半から推論することは、無意味な行為となるのだ。
なぜ、このような認識の相違が起きたのか。それは、折木に依頼した二年F組の「全員」が「ぐる」になって、嘘をついたから(ある事実を隠したから)だ。
(つまり、世界中の人が自分に隠れて「嘘」をつく場合を想定するなら、あらゆる他者の「アリバイ」は、プラグマティズム的に証拠になりえない、となる。)
ここが、本質的だろう。
では、折木が間違ったのは「しょうがない」のだろうか?
いや、違う。
彼は、むしろ「本来の彼自身の役割」を、逸脱したのだ。だから、彼は、ある意味、「必然的に」間違えた。
では、彼の本来の役割とはなにか。言うまでもない。
千反田の「気になる」を解決する、ことだろう。
つまり、それだけが、彼が部活動をしている「理由」なのだから、余計なことをやらなければよかったのだ。
千反田は、もともと、旧家の大きな家の子供で、社交的であり、やたらと人の名前を覚えている、他人にことごとく関心をもつ(他人の行動をなんとか理解したいと思う)奴なのだから、その「脚本家」の本郷の「真実」だけに注力していれば、こういった議論のミスリーディングにはならなかったわけだ。
そして、この千反田がもってきたこの話題は、それで「必要十分」だということである。ビデオ映画の後半が、どうなろうが、どうならなかろうが、

  • 彼には関係ない

わけだ。なぜなら、二年F組とは「よそのクラス」なのだから。折木と関係ない人たちのやっていることなのだから。

「わからない。努力は続ける。けど、未完成に終わることも覚悟はしているわ」
「それじゃあ困りますっ」
困ると言っても......。入須も困っている。千反田は入須に歩み寄る。
「さっきの入須さんのお話し通りなら、そのビデオが完成しないのはとても哀しいことです。わたし、そんなのはいやです」
いやと言っても......。入須だっていやだろう。
「それに、それに」
俺は眉根を揉んだ。これは駄目だ。もう始まっている。問題に巻きこむ相手に千反田を選んだ入須の選択は正しかった。
「脚本家、本郷真由さんはなぜ、信頼と体調を損ねてまで途中でやめなければいけなかったのか。......わたし、気になります
俺の隣で、里志が言う。
「ホータロー。『探偵役』云々はともかくとしてさ。あの事件が解決するにはちょっと情報が足りないと思わないかい」
「まあ、確かに」
「じゃあつまり、情報を集めれば解決に辿り着けるかもしれないよね?」
いや単純にそうはならないだろう。
しかしそれを聞いて、恐らくは里志の目論見通り、千反田は勢い込んで振り返る。
「折木さん、やりましょう。本郷さんの遺志を知るんです!」
「本郷は死んでいない」
冷静な入須の訂正は、お嬢様の耳に入っているかどうか。

これをドラッカー的に言うなら、折木は自分の「顧客」が、千反田であることを忘れたから、ということが分かるだろう。彼の顧客である千反田が何を求めているのかを考えることなく、明後日(あさって)のことをやっていた、となるだろうか。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。
私は、こういった例は、世の中に、ありふれているのではないかと思っている。
では、古典部システムを整理してみよう。

  • 千反田える(ちたんだえる):システムのイベントハンドラー。彼女が「気になる」と言った瞬間、このシステムは発動する。学業優秀。旧家のお嬢さんで、多少天然、性格は社交的。相手の心理を理解しよう(共感)というモチベーションが強く感じる。
  • 折木奉太郎(おれきほうたろう):システムのCPU。千反田の疑問を「できるだけ省エネ」に「彼女が満足する」ように、処理する。とにかく、「なにもやらずにいられる」ことだけが目標。
  • 福部里志(ふくべさとし):世間のマメ知識(データベース)収拾係。手芸部など幾つかかけもちしている。
  • 伊原摩耶花(いはらまやか):一般的な常識的な推理の担当。図書委員などかけもち。

こうやってみると、このシステムがそれぞれの役割分担にあることがわかる。学校の勉強ということでは、千反田は優秀であるが、それ以外の、世間のマメ知識の収集は、里志の役割となり、摩耶花は、もっと常識を担う役割となる。
これに対して、折木は、徹底的に「なにもしない」人である。つまり、自分のタスクを持たない。ようするに暇なのだが、
だから
いざとなったとき、なにかを「推理(アブダクション)」する「時間」を確保できる。彼は、まわりの三人の、それぞれが担う「知識」を利用して、
一直線
に推理(推論)の証明(建築物)を構築することだけに専念できる。
このシステムの基本構成は、千反田と折木で回る。千反田からイベントがキックされ、折木で処理され、千反田が「満足」した時点で、このイベントは、解決したということで、処理が終了する。
里志と摩耶花は、周辺的な補助的装置となる。千反田と折木の、あまり世間慣れしていない部分を、この二人が「繋ぐ」。常識部分を補完する役割として、存在するが、基本的に二人とも、別件で、いつも忙しい。
今回の、折木の「失敗」は、千反田の「動機」に関係のない「余計なこと」に熱中したことにあると言えるだろう。そもそも、この話が、脚本家の本郷のあまりにも
意味不明
な、脚本放棄にあることは、自明のはずだ。どう考えても、ここが変なのだ。つまり、
本郷さん。あんた、なに考えてんの?
これに尽きているはずで、実際、千反田は、ことあるごとに、そう主張しているのは、上記の引用を始め、そこらじゅうにある。
ところが、折木は、そういった「顧客」の意図と関係なく、
推理ごっこ(密室殺人ゲーム)
に、うち興じる。なぜなら、そこに彼の「計算機」としての本質がある。つまり、彼は早くこの問題を、つまびらかにしたいわけだ。それが「省エネ」だから。よって、明らかに、
不思議
な推理ゲームから入ってしまう。どっちみち、こういう謎が解決しないと、「最終的な」ゲームのクリアにならない、と「最短距離」を、自分で引いてしまう。
ところが、そういった「普遍ゲーム」は、プラグマティズム的には、無意味なのだ。なぜなら、上記で言ったように、彼のタスクは、別なのだから(つまり、千反田の満足)。
よって、この作品は、以下の二つによって、物語が動いていくことがわかるだろう。

  • 千反田の、突拍子もないことへの「気になります」
  • 折木の、「計算機」としての「余計な方向への暴走」

(こんな感じで、なんとも、ドラッカー的な「マネジメント」論から、分析できそうですね...。)
というわけで、この古典シリーズのさらなる続編も読んでみましょうかね...。

愚者のエンドロール (角川文庫)

愚者のエンドロール (角川文庫)