コムニス・ゲーム

どうも世の中の議論というのは、「科学」という「普遍ゲーム」をやっている、という印象が強い。しかし、そういったものは、どこまで私たち「が」付き合うに耐えうるようなものなのだろうか。
最近読んだ、萱野さんの『ナショナリズムは悪なのか』という本も、典型的な「左翼」的言説という印象を受けた。それは、国家という、きわめて「右翼」的な対象について、話しているときでもそうなわけである。
たとえば、著者のこの、ナショナリズム論は、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』の延長で考えているのでしょうが、そもそも、国家とは何かを問う

に「既に」私は、日本人だということになっているわけで、だとするなら、その「自己言及性」の問題が、その問いに、
先行
しているんじゃないのか? という感覚が強くあるわけである。つまり、実存的な問い、ということになるだろう。
国家とは何か、という命題には、「すでに」各国家には「共通のなにか」が存在している、という前提がある。その「共通」が、国家なんだ、という
信念(信仰)
を主張している、ということになる。しかし、その信念は「自明」だろうか? いや。その信念は、「私が今、こうある」ことと、なにか関係があるだろうか?
少なくとも、私たちの「実存」から、導かれるなにか、とは思えない(つまり、ここが、著者の「左翼」としての「信仰告白」なのだ)。
たとえ、どこかのだれかが、世界中の国家の「最大公約数」をみつけてきて、「だから」あなたという日本人もそうなんだから、どうのこうの、と言い始めたとして、はたしてそれがなんだろう?
私が今「こうある」ということと、そういった最大公約数「ゲーム」と、はたして、なんの関係があるだろう?
私が今「こうある」ということは、まず、自分が、その土地で、どのように暮らしてきて、自分が住むこの土地での人々の暮らしが、どういった歴史的な変遷をたどって、今に至っていて、そういう環境の中で、自分が

  • どういった「歴史的」関係の中で今ここで自分がこう考えるようになっていることがいかに「必然」と思えているか

そういった、

  • 実感

の方が、

  • 先行

するわけであろう。その「実感」の強烈さを否定するような最大公約数ゲームが、果して、どんな理屈で相手を納得させる、なんていう話になるのか、ということである。
極論をすれば、自分が、この土地で生きてきて、この土地が「こうである」と実感していることと、著者が「でも、世界中の国家は、こうなんですよ」という主張が、まったく対立していたとしても、
それがどうした
ということであろう。なんで、自分の実感と、「そんなもの」とが「一致」しなければならない、という主張に説得されなければならないのか。そもそも、なんで、自分の環境は「例外」だと言ってはならないのか。世界なんて知らん。

  • 勝手に「定義」すればいい。

自分が、今の環境を「こう」実感しているんだから、そんな、どこにあるのかも「本当にあるのか」も知らない(実感していない)、どっかのだれかが遠い彼方にあると言っているだけの世界の話が、なんで自分に関係しているなんて言われなければならないのか、ということである。
つまり、どうも著者は「日本は特殊で、世界で国家と呼ばれているものとは、まったく違っているだけでなく、そもそも、そんなものとは関係ないものなんだ」と「言ってはいけない」と思っているんじゃないだろうか。
しかし、そもそも、「私」は日本しか知らないわけだ。べつに他の地域で暮らしていたわけでもない。だったら、知らないんだから「較べられない」で、どうして問題があるだろう。
そもそも、私には、この「共通」という
ドグマ
が気持ちわるい。

最近になって知って驚いたことであるが、「コミュニケーション(communication)」という言葉に”ex-”をつけると、「破門」という意味にある。驚いたというのは、コミュニケーションという単語が破門と関係があるとは思いもしなかったからである。

経済学の船出 ―創発の海へ

経済学の船出 ―創発の海へ

まず注目すべきは、communication という単語に、「聖体拝領」とか「聖餐」とかいった人々を結びつける宗教儀礼の香りが背後に漂っている点である。次に、こういった儀礼によって結びつけられた人々の集まりである communion という言葉も響いている。その類義語である community という言葉も、当然、感じられる。それゆえ、communication という言葉は、人々を結びつけ、社会の秩序を作り出す基本因という印象が、そこから滲み出ているのであり、それがこの言葉の力を背後で支えているものと考えられる。
経済学の船出 ―創発の海へ

さて、以上のようにざっと見ただけでも、「共通の何か」あるいは「何かの共有」を表わす「コムニス(communis)」という言葉が西欧思想、ひいては近代的思考に与えている影響の深さがわかるであろう。
経済学の船出 ―創発の海へ

(ちなみに、ここでの安冨さんの議論は、私は非常に秀逸だと思う。かなり本質的なことを考察されていると思っている。)
どうも近代西欧思想オタクたちの「話法」にはこの、「共通病」があるんじゃないか、という印象がぬぐえない。つまり、あらゆることに対して、「だれにでも同じ」という

  • 共通

があって、それを「見付ける」という「ゲーム」を無意識でやっちゃってる。そして、そう行っていることがもしかして、なんの根拠もないことなんじゃないかとは、少しも疑っていない。
しかし、もし「共通」なるものが、存在するなら、話は早いですよね。だって、「ある」というんですから。もし、そんなものがあるのなら、人々が、未来のいつかには、「分かりあえない」ということが起きえない日が来るということさえ、主張できるでしょう。だって、「共通」が「ある」んですから、まさに、ライプニッツ「窓」よろしく、そこを「通って」(まさに、宗教的儀礼)、神の御前で「結び付け」られればいい、ということなのですから。
しかし、そうだろうか。
そのような「仮定」は、まさに、キリスト教的作法が強いた、西欧文明の一つの特徴「でしかなく」、こちらの、東アジア地域の伝統とは、なんの関係もない、私たちに関係のない「やらせ」なんじゃないだろうか。
しかし、だとするなら、そのオールタナティブ、つまり、私たちが日々生きているに、なんとか「ごまかし」で、この「共通」というタームで説明せざるをえずにここまで来たような現象を、どのように考えればいいのか。

父親に宛てた手紙のなかでホイヘンスは次のように述べている。

部屋に数日間引きこもっていなければならなかったこともあって、新たにこしらえた二つの時計の観察に没頭していた時のことです。その時計に、これまでおそらく誰も想像しえなかったような、驚くべき効果が見られることに気づきました。約三〇から六〇センチしか離れていない場所に吊るされた二つの時計が、その二つの振り子が片時も歩調を乱すことのないほど正確な一致を保っていたのです。しばらくの間私は、その現象にあっけにとられていましたが、とうとうそれが、何らかの「共感」によって生じていることに気づきました。振り子の振り方をさまざまに変えてみてわかったことは、三〇分もすれば、振り子の振れは決まって元のように揃いはじめ、その後はいつまででもそのままの状態を取りつづけるという事実でした。

経済学の船出 ―創発の海へ

こういった「同期」現象というのは、私たちが考えている以上に、さまざまなことを説明しているように思う。
アニメ「とある科学の超電磁砲」の第7話において、ジャッジメントの女子中学生の初春(ういはる)とデパートで遊んでいた小学生の女の子は、爆弾魔から助けられた場面で、
初春「ごめんなさい。でも、御坂さんのお陰で、ほーら、この通り」
女の子「常盤台のおねえちゃんが助けてくれたの」
二人「ねー」
この二人の「ユニゾン」は、声の共鳴(同期)となっているわけだが、アイドルグループの振り付けにも、そういった同期があるのだろう。
つまり、私たちが共通なのではなくて、私たちが「分かれていない」ということが本質なのではないか。つまり、近接性が媒体を通して、お互いに影響を与える。
この場合に大事なのは、お互いを単独の環境にすれば、それぞれは、まったく無秩序であるものなのに、近接する環境とした場合には、相互に影響を及ばしあうことによって、お互いが
同じ
状態に遷移する、という現象だということである。そして、その相互作用は「近さ」が、その強さに比例しているわけで、そういった経験を重ねることが、それぞれの「自信」につながり、各自の世界イメージを決定していく。つまり、ナショナリズムは本質的に、その「近さ」を抜きには考えられない...。