大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』

福島第一の原発事故は、東日本大震災と同時に起きた。つまり、東日本大震災地震の揺れと津波の被害の中で、同時に起きた。つまり、人々はその事故を、
混乱
の中で受け止めたということになる。
それ以降の、被害の大きさは、今さら言うまでもないことだろう。近隣住民は、国家の政策により、避難を強いられ、今も戻れないだけでなく、原発近辺では、ほぼ恒久的な無人地帯にすることが、考えられているという。
福島第一の原発そのものは、一体、いつになったら、事故が起きる以前の状態に「戻せる」のだろうか。チェルノブイリでさえ、石棺を作って、しかしそれも老朽化し、再度その外に石棺で補強するという話で、まったくもって、回りの放射線レベルも下がっていないという話だそうだが、同じような状態が福島第一についても続くことが予想される。
そもそも、福島第一は海ぞいに存在し、4号機は、貯蔵プールにもなっていたわけで、こういった大量の放射性物質を、福島第一から、安全な場所に移すというのは、非現実的なのだろうか。あの状態をそのままにしておくなら、非常に危険なようにも思う。今の危険な状態を、ある程度、私たちが管理できるレベルの安全な状態に移すにはどうしたらよいのか。さて、どれくらいこのことについて、今、考えられているのだろうか。
私の思考は、いつも、3・11直後の「混乱」の中に戻ってしまう。
というのは、そこに、人の本質があるように思うからだ。
あのときの人々の振る舞いに「こそ」、人の本質があったように思う。
だから、どうしても、そこに戻ってしまう。
今。さまざまな人たちが、3・11を振り返り、何かを言っているのだろうが、それに興味はない。私の興味は、あくまでも、あのとき、人が、何を言っていたのか、にある。

同じ危険が、3・11という夢にも言える。この夢、この悪夢に対する中途半端で凡庸な解釈や説明は、この出来事に遭遇したときにわれわれが感じていた衝撃に対応するような真実を、むしろ覆い隠す幕のようなものになりうる。実際、3・11後に生み出されてきた言説のある部分は、あの凡庸な夢解釈のようなものではなかったか。「なんだ、そういうことに過ぎないのか」という表面的な安心を提供することで、夢の真実へと至る道を塞いではいなかったか。われわれに必要なのは、幕となっている中途半端な解釈を突き破るような知的洞察である。

私はこの
3・11直後の本質
は、
「安心」
という言葉のインフレーションにあったように思う。多くの人がこの「安心」という言葉を使った。
しかし、その安心とはなんなのだろうか。私がこだわるのは、人が「安心した」と「言う」ことである。なぜ、そう言うのだろうか。

加藤典洋は、最初に炉心溶融の事実を聞かされたときには震撼させられたが、やがて、内部被曝放射性物質に関して、秘匿されていた情報が明らかになっても、だんだんと驚愕もしなくなった、ということに関して、次のように(自己)診断している。「私は、そして私たちは、たぶん、いま集団的な「防衛」反応に陥っている。余りの衝撃が大きすぎて、それに適応できず、それをいわば「なかった」ことにしようとしているのである」(『3・11------死に神に突き飛ばされる』岩波書店、二〇一一年)

ハイデガーをふりかえるまでもなく、現代は「不安の時代」である。本質的に私たちは不安なのであり、この事実が変わることはない。しかし、3・11直後、人々は「安心」をつぶやき続けた。
人が安心したと言うとき、それは、その人が自らの「不安」を、なんとか抑え込もうと決意している、というふうに言えるのかもしれない(つまり、あらゆるパフォーマティブな言明は、その「否定」を欲望している、という否定神学を...)。それは、不安を「否定」する運動だ。不安だからこそ、その「否定」が重要となる。
しかし、私がこのようにリテラルに言うことと、実際に、それをリアリティの中で生きている人では、この意味は、「決定的」に違っていることを理解しなければならない。
もし人が不安「なら」、まず、大きなストレスが自らにふりかかっている。さまざまな体調不良、食欲の減退、睡眠不足、こういった心身の「不調」にみまわれる。
大事なことは、このことと、たんに不安と「言う」ことには、そのような「差異」が存在する、ということである。たんに、
パフォーマティブ
に不安と「言う」だけでは、ここまでの差異とはならない。
つまり、リアルに心身上の不調があらわれる。
だとするなら、この不安な「状態」から、安心の「状態」に遷移できるなら、こういった問題が自然と解決するわけで、それだけでも、私たちが生きていく上で、重要なことのように思える。
しかし、問題は同じことで、たとえ、自らが自分に向かって「安心」と唱えても、それがたんに、パフォーマティブな言葉だけのものなら、いつかはその
呪文
の効力は切れてしまう。
しかし、その批判の矛先を、自分に向けるわけにはいかない(なぜなら、不安による体調をさらに悪くする恐れがあるから)。そこで、その批判は「外部」に向かうことになる。世間で、自分の安心の根拠を否定する人のその主張に、感情的に反発する。だって、世間が間違っていれば、自分を
守れる
のだから。これは、大袈裟に言えば、自分が、この世界で生きられるかどうかの、サバイバルだとも言える。
しかし、このことは、原発を「利益相反」として生きている人たちが、脱原発が自分たちの生活に与える影響を考えるときにも、あらわれる、と言えないだろうか。

原発事故が起きないようにする最も確実な手段は、言うまでもなく、原発そのものを建設しないことである。そのとき原発事故が起きないのは、当たり前だ。しかし、次のような思いだ出てくるのは避けがたい。原発はもともとそうとうに安全に造られているのだから、一切の原発の建設を諦めるというような極端に走らなくても、事故を起こさずに済むのではないか、と。もしかすると十分に長い時間、たとえば何万年も事故を起こさない原発が建設可能なのに、「われわれ」が極端に用心深くなって、原発を放棄してしまえば、「われわれ」だけが損をしてしまうのではないか、と。要するに、原発の建設を一切禁止するという極端な予防策は無意味ではないか、と。こうした思いが出てくれば、結局は、原発の建設に踏み切ることになる。

もし、原発を廃止しないことによって、自分の専門性が売れ、仕事をもらえて、定年までの食いぶちにありつけると考えるなら、あとの問題は、悲惨なトラブルさえ起きなければいい、となるだろう。しかしそれは、

証明できない。それは、未来においてあらわれる「結果」にすぎない。
自分が損をするということを考えることは「悪夢」である。つまり、これは「当事者」としての自分にとって、
健康に悪い
のだ。だとするなら、自分という「当事者」の「立場」から、そのポジション・トークは、おのずと、事故を過小評価する形となる(ポジション・トークは「仮説」とは違う。仮説は、その違った仮説との並列関係が前提されていることで、いつでも、その思考をそこに戻すことを前提に考えられている態度であり、つまり、一つの思考の一部だと考えるところにあるが、ポジション・トークとは、それが、意識的であれ無意識的であれ、
当事者
が、その自分の「利益相反」から、自分の「健康」(安心)を守ろうとする、自衛行動に、その本質がある)。
3・11直後から、私の頭にずっとあったのは、カントであった。そこから、私はカントの哲学は、リスボン地震への「対応」として考えなければないのではないか、という仮説をずっと、考えている。
例えば、掲題の著者は以下のように言う。

たとえば、ちょっとした苦難に尻込みしたり、ささいな誘惑に屈しそうになった人に対して、「うろたえるな」「威厳を保て」「動揺するな」と忠告し、自分自身も上品でいることは難しいことではないし、またそうした忠告や態度こそ、自分自身の倫理性の表現にもなる。しかし、同じことをムーゼルマンに対して言う、ということを想像してみるとよい。強制収容所の過酷な環境の中で、生ける屍にまでなってしまった人に対して、「私のようにしゃんとしなさい」と言ったり、「俺のように威厳を保て」ということを態度で示したとすれば、これほどおぞましいことはほかにないだろう。誰であれ、ムーゼルマンのような状態にまで追い込まれれば、威厳など保てないことは明らかだからである。
ムーゼルマンの現前は、倫理の全体を停止させてしまう。言い換えれば、カントの定言命法に代表されるような倫理が維持されるためには、ムーゼルマンから目を背けるしかないことになる。

たとえば、今、嘘をつくと、私は何かとても大きな利益が得られるとする。嘘をつくことによって、大金が入ってくる等、私はとても幸せになる。そしてその嘘がばれる可能性は万に一つもない。しかし、定言命法は、他人に嘘をつくことを絶対的に禁じている。こういうときに誘惑に屈せずに、真実だけを語る人を、われわれは、立派な人物、倫理的に優れた人と見なしてきた。

倫理的な価値が偶有的な結果によって遡及的に決定されることがある、という事態は、このようなカントの道徳哲学へお根本的な挑戦になっている。言い換えれば、「理不尽な絶命」のような事態は、反カント的なものである。

こういったカント批判は、カント以降のドイツ観念論の上位に、現代哲学(特に、プラグマティズム)を置く発想の延長にあると思われる。
ここで言っていることは、近年の流行りの言葉で言えば、「当事者」主権ということである。
上野千鶴子はケアの現場において、いかに、ケアを受ける側が、主体的に自分から要求していくかが、重要だと主張した。そして、この3・11の被災者版として、佐々木俊尚さんの「当事者」に関する一連の主張があると考えられる。
しかし、上野さんのこの主張は、ある意味、反語的なところがある。
つまり、ここには、ケアを受ける側を「対象」から、「主体」へと反転させる意図があるが、それは、そもそも、彼らを「主体」として考えようとしてこなかった側への批判的視点を含んでいることが読み取れる(むしろ、当事者は当たり前の話で、その当たり前を理解しようとしなかった知識人の批判の方にこそ、重点がある)。
同じことは、佐々木さんの当事者にも言えて、彼は一方で、当事者を見出しながら、他方で、その「反照点」として、「ないものねだり者」や「マイノリティ憑依者」を、
発見
する。つまり、その主張は、相補的になっていて、つまり、主張の重心は、当事者ではなく、彼らの「批判対象」であることを示唆している。
つまり、どうしても、彼らの主張は、自分たちが批判「したい」事態の
だし
として、「当事者」が召喚されているんじゃないのか、という当事者が「手段」として使われているんじゃないか、という感想をもってしまう。
言うまでもなく、上記のムーゼルマンは、「当事者」である。つまり、上記の掲題の著者によるプラグマティックな指摘(カント批判)は、基本的に、こういった「当事者論」の延長にある議論だと言えるだろう。
しかし、先ほども私が言ったように、私は、カントを「地震を受けて考えた人」だと考える。そうだとするなら、上記の批判は、どこか合わないんじゃないか、という感想をもつ。
つまり、地震であれだけの多くの死者を目の前にした、カントが考えることが、それくらいのことを考えていないようには、どうしても、思えないわけである。
私はこの「矛盾」を、カントの有名な論文の一つの「啓蒙とは何か」を、補助線として考えることで説明できるのではないか、と考えている。
確かに、私たちは、ムーゼルマンや「理不尽な絶命」を前にして、定言命法(「嘘をつくな」など)のようなことを言うことは、その
当事者性
を前にして、非倫理的なように思うかもしれない。
しかし、地震により、目の前で、多くの人が死んでいるのである。そういった死者は、もしかしたら、私たちが「嘘をつかない」ことによって、生き延びられたかもしれない。
カントは「啓蒙とは何か」で、人々に「パブリック」になる契機(倫理的なアクティビティ)を求めます。しかし、ここで大事なことは、その反対の「プライベート」という意味が、一般に意味しているものと違っていることです。
カントの意味で「プライベート」とは、あらゆる「当事者」性を言います。それは、たとえば、どんなに公共的な機関で働いている仕事だととしても、それは、「プライベート」なのです。
例えば、上記の佐々木さんの「当事者の時代」という本の前半は、彼が若い頃、新聞社で働き、警察を取材していたことが書かれています。この著者の意図は、それが、彼自身の「当事者」性であることを、暗に、示唆しているわけです。
つまり、警察官だろうと、警察官を取材する大マスコミの記者だろうと、
当事者
だと言っているわけです。
近年、よく言われるようになった言葉に「利益相反」というものがある。この例だと、警察官を取材する大マスコミの記者は、警察官から給料をもらうわけではないが、お互いがなにかを
贈与
し合うことによって、お互いは「利益」を「結果」として獲得することになる。よって、当人たちが、その関係をドライだと思っていても、どこかで、相手に依存し、義理と人情で行動することになる。
そういう意味で、たとえそれが、国家の仕事だとしても、この警察官とマスコミ人の関係は
プライベート
だというのが、カントの考えだということです。
それに対して、カントが「パブリック」だというのは、つまり「学者」という言葉を使われている。つまり、こういったプライベートを生きながら、「学者」として発言することは「可能」だと、カントは言うのである。
例えば、上記の例でいえば、マスコミ人は、自分と警察官との関係を一つの
学説
として分析し、「学者」として発言することは、どんなに、そのプライベートな関係がズブズブだとしても、「可能」だと言うのである。

ところでこのような啓蒙を成就するに必要なものは、実に自由にほかならない、しかもおよそ自由と称せられる限りのもののうちで最も無害な自由------すなわち自分の理性をあらゆる点で公的に使用する自由である。ところが私は、諸方から「君達は議論するな!」と呼ばわる声を聞くのである。将校は言う、「君達は議論するな、教練せよ!」。財務官は言う、「君達は議論するな、納税せよ!」。聖職者は言う、「君達は議論するな、信ぜよ!」。(世界で、「君達は、いくらでもまた何ごとについても、意のままに議論せよ、しかし服従せよ!」と言うのは、ただ一人の君主だけである)。

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

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すると上官ら、何か或ることを為せ、と命じられた将校が、勤務中にも拘らずその命令が適切であるかどうか、或いは有効であるかどうかなどとあからさまに論議しようとするなら、それは甚だ有害であろう----彼はあくまで服従せねばならない。しかし彼が学者として、軍務における欠陥について所見を述べ、またこれらの所見を公衆一般の批判に供することを禁じるのは不当である。また公民は、課税の納付を拒否することはできない、まして納税の義務を果すべき場合に、賦課に関して差し出がましい批難を口にすることは、(全国的に反抗を誘発するおそれのある)不届きな行為として処罰されてよい。それにも拘らず彼が学者として、かかく賦課が適正と公平とを欠くことに反対する見解を公表することは、公民としての義務に背反するものでない。聖職者にしても、事情はこれとまったく同様である
啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

例えば、この3・11で話題になった、東大の中川恵一先生は、以下のようなことを言う。

ああ、それは今の若い医師のやり方と同じです。末期のがん患者さんに「あなたの五年生存率は五%です。治療の選択肢としては、これとこれがあります。どうするか、あなたが選んでください」という。私も若い頃はそうでした。でも、患者さんとの関係を考えると、これは非常に冷たいことだと思うようになった。
私は若い頃、「告知をしよう」という運動をしていました。昔は告知をしていなかったので、放射線治療は本当に大変だったのですよ。肺がんなら「肺にカビが生えていますから、光を当てて乾かしましょう」というようなウソをつかなければならない。告知をしないことの一番の問題は、患者に選択肢がなく、選べないということです。選ぶためには情報が要る。だから告知をして情報を提供し、患者さん自身に決めてもらうべきだ、と考えていました。ただ、今は逆に、言い過ぎの面が出てきている。責任の所在を全部、相手に渡してしまう。辛さを全部、患者さんに押し付けることになる。もちろん、昔のパターナリズムは非常に問題ですが、情報を提供して自分で選べ、と患者に言うアメリカ式は、日本人には厳しいかも、と今は感じています。
(中川恵一ほか「「原発本」はどう読まれたか」)

もちろん、医者が自分の患者を前にして、その人にどのように接すべきなのかは、ケースバイケースでしょう。もしかしたら、医者は患者に本当のことを言えない場合もあるのかもしれません。それは、現場の話で、この問題は、永遠の問題であり、結論はありません(一般化できません)。つまり、こちらは(カント流)「プライベート」の範疇です。
しかし、ここで言っていることの問題は、中川さんがそう患者に対して思われてきたことを、自分が3・11以降の放射性物質に関する啓蒙活動においても、
同様の手法
を実践してきたことを、暗に示唆していると読み取れるところです。
つまり、彼は、そういった、(カント流)「パブリック」の場所で、
嘘をつく(言うべきことを言わない)
ことを、自分はやっていた、ということをこういった形で正当化しているというふうに読み取れるわけです。
たしかに、中川先生の言っていることは、分からなくはないわけです。つまり、一人一人の患者さんを敷衍していけば、その地域の一人一人、と広がっていき、もちろん、そういった人たちも、さまざまな(カント流)「パブリック」な情報を、どう考えればいいのかに苦しんでいる様子が見えてくるのでしょう。だったら、そこにパブリックもプライベートも区別はないだろ、と言いたくなるのでしょう。
しかし、カントは、そういった態度を否定するわけです。といいますか、「あえて」そうであってはならない、という場所(地平)が
必要
なんだ、ということを言っているということなんですね。
温情主義(パターナリズム)の問題は、結局それが、文化人の「役割(需要)」とつながってしまい、彼らに「仕事」(存在意義)を与えることになるので、どうしても、不要な場面でも、そういったエリート主義を肯定しがちになるわけですよね。
エリートは大衆に嘘を言うことが、「仕事」になってしまい、彼らが「それ」によって、経済活動(お金儲け)を始めてしまうと、それが彼らの食いぶちとなってしまい、容易に止められなくなるわけですね。
その嘘を嘘として言えるということが、エリートの特権となり、彼らの存在意義となる。
しかし、もし、その嘘による、ポピュリズムの知識の過誤による暴走が、人類の未来を消滅させてしまうなら、そもそも、彼らがそれによって、お金儲けをしていること自体の
倫理性
が問われてしまう。
以前紹介した本で、荻上チキさんの『社会的な身体』という本に、「ノート 「情報思想」の更新のために」、という章がある。そこで、著者は、3・11以前に、ゼロ年代的な関心から、言われていた、「環境管理型」情報テクノロジーに対して、批判的な論旨を展開している。

「情報思想」について議論する場では、次のような「物語」が一定の効力を持っている。情報技術の発達等により、この社会は「規律訓練型」の(権力を求める)社会から、「環境管理型」の(権力を求める)社会に変化した。そうした「新しい社会」では、「アーキテクチャ」、すなわち社会的に埋め込まれた様々な「コード」の「設計」如何によって、人々を特定の仕方へとコントロールする匿名的な権力が肥大化しうる一方、「人間らしさ」の概念が変容し、コミュニケーション能力が要求される領域は縮減しつつある。そこでは人々が「人間らしく」振る舞わなくても、相応に社会が駆動することが期待されるようになり、実際人々は「思考」をシステムに委ね、ますますエコーチェンバー(社会認識の言説の棲み分けの徹底)に閉じこもるようになっている----。

社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム (講談社現代新書)

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しかし、こういった認識は、上記のカントの文脈からは、議論を「混同」させている印象をどうしても受ける。つまり、ここまでカントが、言うパブリックとは、結局のところ、なにを言おうとしていたのか、という、そのアイデア
確定
を目指して検討してきたわけだが、上記の引用部分の主張は、その問題に答えることなく、その定義を曖昧にしたままで(または、その定義を確定させず混乱させたままにすることによって)、「環境管理型」情報テクノロジーという、アイデアを推進しているように読めてしまう。

かかる後見人たちは、自分の牧している家畜をまず愚昧にし、よちよち歩きにふさわしいあんよ車の中に入れられたこの温和な動物どもが、それから一歩でも外へふみ出すような大それた行為をしないように周到な手配をととのえたうえで、さてその次は、もし彼等が独り歩きを企てでもすれば、すぐさま身にふりかかる危険を見せつけるのである。
啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

ところがここに奇妙なことがある、それは----後見人たちの手で最初この軛に繋がれたところの民衆が、およそ啓蒙される見込みのない若干の後見人たちにそそのかされると、こんどは自分達のほうから後見人に迫って、いつまでもこの軛に繋いでおけせる、ということである。
啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

ここで、カントが比喩として「動物」という言葉を選んでいることは、東浩紀さんの「動物化するポストモダン」以降の、一連の「環境管理型」情報テクノロジーと、対応しているように思われる。
つまり、東さんは「反語的に」ここでカントが「動物」であることからの「啓蒙」を主張しているのに対して、むしろ、このカントの分析が
現実として「正しい」
のであり、避けがたいのであって、それ以降に書いてある、カントの「啓蒙」幻想は、無理であり、意味不明だ、というヘーゲル的作法によって、現代(または、未来)を展望している、ということになるだろう。
全体の流れとして、「環境管理型」情報テクノロジーは、今後の歴史の方向として違和感はない。しかし、たとえそうだとしても、カントの「パブリック」の定義は、それとは別に残ると「考えなければならない」わけである。
つまり、東さんの情報テクノロジー論の問題は、カントの「パブリック」を無視することによって、人間という「動物」と、「環境管理型」情報テクノロジーの二元論で、全てを説明しようとしてしまったことにあると言えるだろう。
私たちの現代社会は、あらゆる場所に、「当事者」性が蔓延している。つまり、どんな場所でも、どんなに公共性の色彩の強い、国家行政システムの歯車の場所でも、そこはそこで、一人一人の公務員たちという「当事者」という「利益相反」の複雑にからみ合う網の目によって、がんじがらめに縛られている。
このテクノロジーによって、地下鉄サリン事件や、秋葉原ナイフ事件のようなものを起こすような若者を、環境によってコントロールしようというものだったとしても、そのエリートの温情主義的「善意」が、意図した方向に向かうかどうかは別であり、つまりは、「環境管理型」情報テクノロジーは、カント的な意味で、
プライベート
だということなのであるから、だったら、どうしても(そういったエリートの温情主義のレベルとは別に)、カントの視点での「パブリック」の層が現れることは避けられないわけである。
では、カントは、どんなことを考えていたと考えるべきなのか。
例えば、東日本大震災で、多くの人が、こういったプライベートな関係の中で、利益相反を考え、自分のポジション・トークだけで、人々に説明していたことに「よって」、つまり、

によって、適切な社会インフラが整備されなかっとしたら、より多くの死者となったのかもしれない。
つまり、カントはこういった「当事者」性より「優先」して、上記の定義の「パブリック」を位置付けるわけである。
しかし、一点、ここで注意がいる。上記で、「パブリック」であることとして「学者」や「論文」ということをカントは言っているのだが、大事なことは、カントはこれがなんなのかを定義しているわけではない、ということである。
もしこれを、プラグマティズムで考えるなら、以下のように定義されるのではないか。つまり、私たちが、ある主張を発言して、それが「結果として」、非常に多くの人の耳目を介し、その認識が多くの人の行動に影響を与えたなら、それを「パブリック」「だった」としよう、と。
それでは、こういった主張を、カントはどういった考えで、主張するのか。
私は、あらゆる人間に関する事象は、倫理的な価値に還元されると思っている。
というのは、それは、そもそも、人間には生きる価値があるのか? という問題に帰着するからである。
もしも、「当事者」として生きる私たち人間が、各自のエゴイズムを譲ることができず、このまま、原子爆弾の拡散を許し、その緊張の臨界点において、第三次世界大戦を核戦争として迎え、その結果として、人間がこの地球上から滅びたとしよう。
しかし、たとえそういった事態にたち至ったとしても、人間そのものに、生きる価値がないと、私たち人間自身が、考えているなら、そのことは「反省」の概念を呼び寄せないだろう。
もし、人々が、たんに「功利的」なら、そういった人間に、そもそも、価値があるのか、という難問を呼び出されざるをえない。
カントがリスボン地震を前にして、その多くの死者を前にして考えたように、もし、その事態が「あってはならない」と思えるとするなら、人間には「価値」がなければならないということになる。
そう考えることによって、始めて、こういった地震による、大量の死者をだしては、いけない、と言えるわけである。
もしこのように、カントのように、人間には価値があると考えたとき、私たちは、たんに「当事者」として、プライベートに生きるだけでなく、その価値を
体現
する生き方を自然と選ぶことになる、だろう。
なぜなら、価値があるのだから。
大事なことは、たとえこのことが、個々のその人の「実感」に反していたとしても、「当為」として要請される、ということである。

ところで、あるところで、カントは、一つの「不可解な謎」として、次のようなことを指摘している。人は、しばしば、その成果として得られる幸福を享受できるのがずっと後世の世代であって、自分自身ではないことがわかっているような骨の折れる仕事にも、堂々と従事する。これは不思議なことではないか、と。確かに、人は、まず自分自身の幸福のために生きているとすると、これは奇妙なことである。しかし、こういう仕事に取り組んでいるとき、人は、自分が生きている間には仕事は完成せず、その「果実」を楽しむのは、自分が死んだ後の者であろうことはよく理解しているが、かといって、自分の本性や自然な欲望に反して、無理やりそうしているわけではない。むしろ、多くの人は、自分がやりたいようにやっているのだが、結果として、専ら後の世代の幸福にしか役に立たないことにも熱心に従事するのである。

私が、SFという未来小説を、「反倫理的」と考えるとき、そういった小説は、
そんな未来に人間が生き残っている
ことを、あまりにナイーヴに前提しているから、にほかならない。つまり、本当に今の人間社会の倫理は、そんな未来になってまで、人間が生きることを許すような内容になっているのか、ということなわけである。
非常に興味深いことに、このように、カントの発想は、どこか、数学における「背理法」に似ている。
「もし人類が、はるか未来においても、生き残っているなら」、そのためには、どんな「条件」を満たしていなければならないか。
人間に生きる価値を見出しているカントが言っている倫理は、どこまでも、そういった、人間が「はるか未来に存在しているため」の条件だといえるだろう。
では、私たち人間が、倫理的であるとは、どういうことだろうか。多くの場合、それは「道徳的(規範的)」と混同されている。
たとえば、ある人が、プライベートな場面で、ある特定の相手に、「嘘」をついたとしよう。これは、一見すると、定言命法に反する。しかし、そう考えてはならない。
なぜなら、「当事者」としての私たちは、上記のムーゼルマンのように、どうしてもその個人的なコンテクストに依存して生きるしかないからだ。
そういう意味で、文学が長年描いてきた「悪」は、重要だと言える。
たとえば、ドストエフスキーは、明確に、カントを継承して、一連の小説を書いたことは間違いないだろう。
また、ゼロ年代西尾維新は、何度も何度も、非人間性人間性を描く。
また、桜庭一樹『私の男』も、どこか、非道徳的な作品であった。主人公の腐野花(くさのはな)は、子供の頃、自分の本当じゃない両親に育てられながら、津波の日に、彼女を除いたその家族の全員が津波にさらわれ、帰らぬ人となる。
しかし、それでも生きる腐野花(くさのはな)の生は、腐野淳悟(くさのじゅんご)との、なんとも、儀礼的で秘教的な営みとなる。
また、ラノベのおける、その代表は、成田良吾だろう。
バッカーノシリーズも、デュラララシリーズも、各個人は、どうしようもなく、社会の底辺にいながら、自らの「当事者」性を生きて、さまざまな、暴力行為に及ぶこともありながら、それでも彼らが一貫して主張するのは、

である(まさに、折原臨也の言う、人ラブ、だ)。大事なことは、その「愛」の定義が示されることはないことである。この偏執的なキャラの一人一人は、それぞれ、異様な愛の形を妄信していながら、ただ一つ、その愛という
言葉(という形式)
において、見事なまでに、それぞれのキャラの行動は、一致している。
こういった、人間の「悪」という「当事者」性は、私たちが人間である限り、避けることはできない。カントの関心は、たとえそうだとしても、そこに、
(カントの意味での)「パブリック」
が存在しうるのか、という問いだということになる。そして、文学は常に、その問いと戦い続けている、と考えることもできるのではないだろうか。
カントの主張は、空想的だ。しかし、それは「必要」だから要請される。その「正しさ」は、むしろ、私たちの行動において、実践において「証明」することを、未来の人間に「命令」し、「挑発」し続けるという形で存在するわけである...。

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)