朝を繋ぐ

私たちが日々の生活で何を行っているのかは、ちょっと興味深くある。
子供の頃は、学校に行く。また、大人になると、多くの人は、サラリーマンとなり、会社に通勤する。
すると、ある疑問がわく。なぜ、多くの人は、学校や会社に行かなくならないのだろう。
もちろん、行かなくなる人がいることは知っている。しかし、ほとんど多くの人が行かなくならないことは、ちょっと変な気がする。
どういうことかと言うと、つまり、私たちは別に、奴隷ではない。どんなに自分が嫌でも、「強制」で連れて行か「される」というわけではないのだ。
だとするなら、行くということは、自分の意志で、行っているということになる。
つまり、「だれも」が、自分で「行こう」と思って行っている、ということである。
なんとなく、不思議な気がしてこないだろうか。
なぜ、「行こう」という気持ちがわくのか。

巧くいかない 日々が繋がって
いっそ 止めたくなって それも出来ない
そんなモンだって 割り切れた訳でもない
BUMP OF CHICKEN「ホリデイ」)

present from you

present from you

その人は「うまくいかない」に悩んでいるのである。それが「繰り返されている」のだ。この問題を最も簡単に解決する方法は、
行かない
ことだ。行かなければ、「うまくいかない」に「遭遇」すらしなくなるのだ。
もちろん、人によっては、この応答に、様々な反論をされるだろう。
わざわざ、学校や会社に入れたのだから、なるべく、通うことで、その実益を得ようとすることは、当然なんじゃないか。
もちろん、私だって、このことを分かっていないわけではない。
しかし、私が言いたいことは、ちょっと違うのだ。

買った花 色とりどり ちゃんと咲いたよ
いつまでも続けばいいな これは夢だって気付いている
(同上)

本人は、「うまくいかない」ことが「繰り返される」ことに悩んでいる。じゃあ、「うまくいかない」にならなければいい。だって、やらなければ、「うまくいかない」にならないのだ。
よく考えてみてほしい。
私が問うているのは、そういった「解決法」があるのに、なぜ、毎日、「あえて」そうやって、「通う」のか、ということである。
BUMP の、「ホリデイ」という曲の歌詞で、友達からもらった花を枯らせた、自分は、ちょっと落ちこんでたのだが、ある朝、蒲団の中で、その日見た夢の中では、その花が「ちゃんと咲いている」ことに気付く。
つまり、自分は、「うまくいく」世界が「ここ」にあることに気付く。つまり、
蒲団
の中に。彼は、朝。その蒲団の中から、出なければ、「うまくいかない」が「繰り返される」ことに悩む必要がない、ことに気付いたのだ。
私たちは、勘違いしている。
彼は、悩んでいるのだ。もし、その悩みが「こじれたら」どうなるだろう。もしかしたら、体調を壊し、本気で、自分がこれらか生きていくパワーを失ってしまうかもしれない。
そもそも、学校や会社は、そこまでして行かなければならない場所だろうか。学科によっては、日本の大学は、ほとんど大学に通わなくても、卒業はできたりもする。また、仕事なら、なおさら、日本には、さまざまな仕事がある。
そもそも、なんで、私たちは、そこまでして「社会と戦わなければならない」のか。なぜ、自分が「うまくいかない」ことと「直面」させられなければならないのか。
自分が、それに「直面」することが辛い事実なら、どうして、それを見なければならないのか。
嫌なことから、目を逸らして生きることを、なぜ批難されなければならないのか。
私たちは弱いのであって、でも、そんな弱い自分を「守らなければならない」のだ。
打たれ弱い自分。
セカイの真実に向き合えない自分。
だったら、無理矢理でも、自分に嘘をつけばいいんじゃないか。
他人がなんと言おうが、それがどうした。
自分が、その「事実」に向き合いたくないんだ。
だったら、「嘘」を信じさせてよ。
そうすれば、自分は「気持ちよく」なれるんだから。
ほっといてくれよ。
しかし、そんな他人のことなど「そもそも」気にする必要がないのだ。なぜなら、その蒲団の中に、「ずっと」いれば、そんな現実に向き合わなくてもいいのだから。

どうやらまた 朝に繋がった
遅刻かも 起きなくちゃ
いいや、ホリデイ 今日は起きないぞ
夢の続き 見るんだ
失敗しない 花も枯れない 人生がいいな
ざまぁみろ 僕は見つけたぜ まぶたの裏側で
(同上)

つまり、

  • 蒲団の中の目を閉じたセカイ
  • 起きて繰り返される「うまくいかない」毎日

の二つの「選択」となるわけだが、さて。
私の問いは「なぜ、人々はこのように、振る舞わないのか」であった。
なぜ、多くの人は、それでも、学校や会社に通うのか。

もしかしたら そろそろ玄関を
開けてなきゃ やばい頃
だけど ホリデイ 僕は起きないぞ
駄目だ 眠れない
巧くいかない 日々が繋がって
いっそ止めてみたら なおさら酷い
こんな僕だって 朝を繋いでる
失敗しない 雨も降らない人生なんて ない
遅刻でもいいから 行こうかな
そんで 帰る時覚えてたら
君に貰った花を 買って帰ろう 時計の電池も
(同上)

自分は、確かに、目を閉じ、蒲団の中にいれば、この困難な日々を避けることはできる。しかし、単純に言って、私たちは、そのようにできていないわけだ。
朝を繋ぐ。
それなりの時間、寝ていれば、私たちの体力は戻り、自然と、蒲団から出てくる。それは人間が、体力さえ戻れば、自然と体を動かし始めることを意味する。
また、失敗をしたということは、それについて「よく考えた」ということでもある。つまり、私たちの頭を、その近々に起きた出来事が、最もよく、占有し、存在するということでもある。
私たちは、そういったアイデアが頭にあれば、「自然」とそれについて、考え始める。
失敗して枯らした花は、失敗することによって、なぜ自分が枯らしたのかの原因に気付く。ということは、今度は自分がそれを買って、そこに気をつけて育てることによって、今度は失敗しないかもしれない(そういった、論証的「イメージ」が自然にわいてくる)。止まっている時計の電池を買ってくることだって、一つの思いついた
タスク
だろう。
つまり、私たちは、その日その日が「切れて」いないのだ。いや。切れていないのではない。私たちは、朝起きて、自然とパワーが戻ってくると共に、
勝手に考え始める
そのアイデアは、つまりは、昨日の出来事であり、つまり、

  • 自分で、昨日と今日を分かつ、朝を「繋げている」

ということを意味しているのだ。

たとえば、デカルトが『方法序説』で強調したのは、仮説の先行と、それを検証するための実験装置の考案である。たとえば、仮説がなければ、そしてそのために考案された実験装置がなければ、数万分の一秒しか存在しない素粒子を同定するということなどありえない。誰も肉眼や顕微鏡(これも実は実験装置であるが)で見たこともないような「対象」が存在する。それは、それまでの存在論が呼ぶ対象がせいぜい肉眼でとらえられるものであるのに対して、いわば、人間が自然のなかに形式を「投げ入れ」て構成したものだといわねばならない。事実上、それは数学的にのみ”存在する”のである。
柄谷行人「探究3」第3回、雑誌「群像」1993.5.1)

コペルニクスがもたらしたのは、それまでプトレマイオス以来の天動説で計算されてきた天体の回転運動のずれが、地球が太陽のまわりを回転すると見た場合に解消されるということである。問題は、完全に数学的な整合性にある。いいかえると、天体の「関係」だけが問題なのであり、それは、われわれが経験的に地球や太陽と呼んでいる対象とは別のものである。コペルニクスのいう「太陽」や「地球」は、プトレマイオスのそれが経験に対応しているのに対して、数学的な「関係」の項に対して名づけられたものである。コペルニクスの「転回」は、むしろそこにある。
(同上)

カントは、ライプニッツ・ヴォルフの合理論から出発している。彼がそうした「独断論のまどろみ」を破られたのは、ヒュームを読んだときである。しかし、彼はヒュームあるいは経験論に「転向」したのではない。つまり、立場を変えたのでもなく、上下の位階を逆転したのでもない。カントの転回は、それらとは別な形式的な「構造」を示すことにある。それは、何らかの立場や根拠をたんに斥けるのではなく、そのような仮象がいかにして存立してしまうかを示すことだ。
(同上)

その日、目覚めたとき、私たちが「想起」するのは、昨日の「何か」である。しかし、それは、昨日の
形式
とでも呼ぶべき、まったく違った何かであって、その一つ一つは、実際の昨日の経験的な「それぞれ」(対象)ではない、と考えるべきだ。
朝起きて、私たちは、その昨日という何かから、今日の行動、たとえば、

  • 花を買うことや、電池を買うこと

を「イメージ」し、その
形式
を、「投げ入れる」(実践する)。こういった活動は、私たちが「元気」である限り、やりたくなくても、勝手に頭が考え始めている。
じゃあ、だったら、学校や会社に行く、ということになるのだろうか。
そんなことはない。
しかし、頭は勝手に、いろいろなことを考え始める(そうやって、朝を繋ぐ)。
まだ、あまり動きたくないなら、もう少し、ごろごろしていればいい。いつまでも、気分が乗らないのなら、休むことも選択肢だ(それは、自分の体が告げているアラートかもしれないわけだし)。
自分が「自然に」やりたくなったら。
うん。そうなったらでいいんだ。
だって、それが、「やりたくなった」、ということなのだから。
(こういった、人を「元気」にさせるような、考察って、意外と世間にはないものですよね...。)