平成のラジウムおじさん

この前、紹介した大澤さんの本に、大変に興味深い話が載っている。

一九五〇年代の後半、「ウラン爺」と呼ばれ、日本中全員の羨望の的となった人物がいた。その男の本名は東善作である。

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

東は、最終的には、通産省地震調査室のジープを密かに追跡する奇策を弄して、人形峠のウラン採掘権を獲得する。この採掘権をもつ東の会社と、原子燃料公社との間の契約が成立したのが、一九五七年一〇月である。これで、公社がウランを掘れば掘るほど、ただ待っているだけの東の手元に冨が蓄積される仕組みが成立した。
このようにして東には、日本中から羨望が集まった。東自身も、独特の仕方で、原子力放射能の魅力を演出した。たとえば、彼は、「健康にいい」と宣伝してウラン鉱が入った風呂につかり、「野菜がよく育つ」としてウラン鉱入りの肥料で育てた野菜を常食していた。今日のわれわれから見れば、驚くべき暴挙だが、武田徹がいくつもの事例を提示しながら述べているところによれば、一九五〇年代後半当時では、これらは東善作一人の暴挙ではなかった。たとえば、人形峠では、土産物として、「ウラン饅頭」やウラン粉末入りの陶器「ウラン焼き」等が売られていたという。
人形峠の周辺だけではない。たとえば苗木(岐阜県中津川市)のウラン鉱山の採掘権を所有していた、「日々美子」というおめでたい名前の女性は、「放射能酒」という酒を売って有名だったという。彼女は、ほかにラジウム入り護符や温泉用ラジウム鉱砂なども販売した。日々美子が放射能の魅力を自覚したきっかけは、離婚の理由となった結核が、ラジウム砂入りの風呂に入浴したことで直ったことにあるらしい。
夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

たとえば、アメリカでは、一九二〇年代に、ラジウム入り商品が大人気になっている。日本の放射能酒やウラン焼きと同じように、膣ゼリーやクリーム、キャンディ等にラジウムが混ぜて売られた。素人だけではなく、医者も、ラジウム処方箋を書いており、何千万人もの人が、一種の万能薬として、ラジウム溶剤を飲んだり、注射したりしただろうとウェルサムは推測している。
ピッツバーグの富豪エペン・パイヤーズは、アメリカの「ウラン爺」とも見なすべき人物で、「放射能=健康」説を普及させる広告塔の役割を演じた。彼は、ラジウム入り強壮剤「ラジトール」を愛飲し、彼のもとに集まってくるガールフレンドたちにも勧めていたという。
夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

この個所を読みながら、そーいえば、こんな人いるよなー、と思っていたら、なんのことはない、池田信夫さん、その人ではないですかー。まさに、彼には、
平成のラジウムおじさん
という称号を送ろうではないか。彼のブログやツイッターを一目見れば、
ホルムシス
という言葉が、次から次から、あらわれて、ホルムシス論者の池田さんは、師匠の中川さんの後方支援にさらに、心強く思われるのでしょう。

しかしそれに対しては、しきい値があるのではないかと考える専門家も多い。私も心の中ではしきい値がありうるのではないかと考えています。さきほど挙げたインドのケララの例ではありませんが、ゆっくりした、非常に少ない被曝線量ですと回復が起こる、修復が起こるからです。また、少量の被曝はがんを減らすと主張する人もいます。秋田の玉川温泉ラドン温泉)で治ると思う人は、この立場でしょう。
(中川恵一「がんと放射線」)

低線量被曝のモラル

低線量被曝のモラル

いやー、立場主義ですか。そういや、関西原発再稼働派とかいましたね。それも、立場主義なんですかね。いくらなんでも、関西は原発再稼働せざるをえんだろー、ですか。。なんですかね、その
文化系「印象批評」。
もう、こういう、まったく実証を伴うことなく、なにかとなにかの間をとって、バランスをとって語ってるかのような
「中庸」ごっこ
の時代じゃないと思うんですけどね。間で、両端をそれぞれ「バカ」にするスタンスって、ようするに、自分以外の全員をバカにできる立場ってわけで、さぞ、「気持ちいい」んでしょうね。世界中の全員は、両端だからバカで、どっちもバカにしている、自分だけが天才、ですか。
飯田哲也さんなりが、さまざまな場所で説明していることを、どうせ真面目に聞く気もないのでしょう。さすがは、立場主義者は、東大話法がお似合いのようです。
よく考えてみないか。
もし、しきい値があると考えた場合、一体、それは何を言っていることになるのか、を。しきい値が「ある」んですよ。だったら、まず、その、しきい値以下では、絶対に被害が出てはいけないですよね。しかし、被害が出ないとは、どういうことでしょう。

  • 平常通り、または、健康になる

この二択しかなくなっちゃいましたね。ということは、平常通りじゃ「なかった」人は「全員」、健康に「なった」ってことが、証明されちゃったじゃないですか!
つまり、しきい値がある限り、ホルムシスが成立しちゃうんです。
なんか、おかしいと思いません?
私は、ホルムシスの決定的な批判となっている発言としては、以下だと思っています。

児玉 その前提として、p3, p8 とか NF-kB(内皮細胞でのシグナル伝達にかかる転写因子)という、炎症や細胞増殖にかかわる、細胞内の情報伝達系の蛋白質が活性化される。そうすると、よくホルミシス効果と言われる、放射線を当てると細胞が増殖したり、元気になったりするという...。
児玉 はい。何かを活性化すると細胞が増えるのです。そうすると、「細胞が元気になった」という言い方をする方がいるのですが、その増殖がずっと続くと、一五年くらい経てば前がん状態になってしまう。要するに、ホルミシス論とは実に奇妙だと思うのですが、放射線の悪い影響はある水準でなくなって、そこから下の数値ではいい影響しか現れないという、聞くだけでおかしいと思われる理論なのですが、結局「ホルミシス」と言われている事実は、とにかく生物は低い線量であれ、放射線に反応するということ、これをみんなが認めているということなのです。
児玉龍彦ほか「討論2 なにをなすべきか」)
低線量被曝のモラル

根本的に間違っているのは、

  • 物理学を文化系スタンスで牽強付会な「分かったふり」をしてしまっている

ことなのではないだろうか。上記の引用から、まず、

  • 元気になる

って、一体、なんのことなのかを定義しているの? 細胞が活性化して、それは「健康」なの? 「病気」なの? というか、そんな簡単に、こんなことを二つに分けられるの?
ようするにさ。ちゃんと、

  • 生物を物理学しろよ

ということになりますね。

児玉 われわれから見れば、化学物質の体内への影響は物質ごとに異なります。水俣病の際に、無機水銀も有機水銀も同じだという議論がありました。けれども、水俣病の最大の教訓は、同じ水銀であっても無機水銀と有機水銀とでは生物学的な影響は全く違ったということなのです。
カリウムセシウムの導体(伝導する物質)は同じだと言う方がいるのですが、私から見れば、この見解は全く理解できません。例えば、カリウムのトランスポーター(輸送をつかさどる物質)は結晶構造がわかっていまして、このアミノ酸セシウムがどこにぶつかるのかがわかっているわけですから、自然科学の考え方を踏まえるかぎり、カリウムセシウムが同じだと言われたとたんに、それは生物学的に言えば違うということになるはずです。
児玉龍彦ほか「討論2 なにをなすべきか」)
低線量被曝のモラル

ようするに、文化系の人たちは(まともな科学的トレーニングを積んでいないのに)、「文献学」的に、
自分が
自分を「安心」させる情報を、見つけ出せる、と考えているということではないでしょうか(そして、そのたびに、間違い続ける)。
しかし、ハイデガーが言うように、絶対に、私たちが安心することは、もうないわけです。それが、テクノロジーの本質だったわけでしょう。それなのに、あいかわらず、そういった
安心「作法」
を、非実証的に、繰り返すのは、どうなんですかね。

環境リスクとは、「環境への危険性の程度」、「「できるだけ避けたい環境への影響」がそれでも起きてしまう確率」である。「できるだけ避けたいこと」、つまり「これを避けることこそが究極の目標だ」とされるようなこと、これをエンドポイント(環境判定点)と呼ぶ。
問題は、具体的には、何がエンドポイントなのか、ということである。誰もが納得する、普遍的な「避けたいこと」とは何か? 中西は、「人の死」「個人の死」をエンドポイントにしたら、普遍的な合意が得られるのではないか、と提案する。
夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

確かに、一人ひとりは、自分の余命が短くならないように、と望むだろう。しかし、原発によって寿命が短くなるのは、今、生きている人ではない。まだ生まれていない人の寿命が問題なのだ。
中西も、もちろん、そのことを心得ている。だから、地球環境保護に関連するような政策については、エンドポイント(避けたいこと)を「生物種の絶滅」にしたらどうか、と提案する。できるだけ、生物種を絶滅させない政策、生物種を減らすことで将来世代に不利益や不幸を与えない政策がよい、ということになる。
だが、ここに、われわれは環境リスク論の限界を見ないわけにはいかない。「(個人の)死を回避する」という目標であれば、民主的で普遍的な合意が得られるだろう。しかし、自分がたちが死んでしまった後に生物種がどのくらい残るのかということに関して、誰もが、同じように死活的な価値があると見なすだろうか。
夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

この中西準子の環境リスク論は、結局は、あらゆる環境汚染は認められなければならない、という、
チョー保守主義
の結論になると思うんですよね。だって、寿命まで生きたか死んだか、だけなんでしょ。例えば、石原都知事が行った、ディーゼル排ガス規制は、この中西リスク論では、絶対に実行できていなかったはずでしょう。
もし、その時点で、大量の死者が出ていれば、そもそもそれは、「刑事」事件だろう。当然、多くの逮捕者がでる。
ところが、放射性物質など、濃度の薄い汚染物質は、「ただちには影響しません」。ということは、何年も後には、分からない。しかし、その間に、死んじゃったら、
それが原因でなかった
かもしれない、ってことになりますよね。つまり、逃げきり世代は、絶対に
一人も死なない
ということにもなりかねないでしょう。ところが、じゃあ、そっから、百年の間を考えてみましょう。あい変わらず、放射性物質濃度が高く、人間はその影響にさらせれています。
さらに、千年の間を考えてみましょう。さらに、百万年の間を考えてみましょう。
まず、考えましょう。その間に生まれた子供たちの、汚染物質の影響は、どうでしょう。
つまり、この問題の本質は、「はるか未来を含めた」人間全員の「影響」を考えなければ、意味がないことが分かるでしょう。
しかし、ここに「パラドックス」があります。
それは、今、再稼働をするかどうかの判断は、「自分が寿命まで生きられるか」を生きている、今の世代の私たち「だけ」で決める、というところにあります。つまり、
本当に私たちだけで決められるのか
ということになります。もしかしたら、はるか未来になって、放射性物質の致命的な欠点が判明して(大事なポイントは、ホルミシスだろうとなんだろうと、「なんらかの影響を与えている」ことだけは、どんな「立場」の人も認めているんですよ!)、実は、けっこうな人がこの放射性物質の影響に「よって」死んでいたことが分かり、しかしその時にはもう手遅れで、人類の人口も減少し、今は風前の灯。そして、どこかの世代で人類が滅びた、としましょう。
しかし、そうなったとしても、

の私たちには、それを知ることはない。
しかし、逆に問うてみようじゃないか。もし、そうなる「確率」があったとして、私たちは、本当に、未来世代の生存のために、原発反対を言えるだろうか。
今の世代は、上記の「時限爆弾」の時間問題によって、全員セーフだったとする(たとえそうだったとしても、さまざまな体調不良が、いくらでもありうるように思わなくもないが)。だとすれば、たとえ、はるか未来に、なんらかの問題が起きたって、
今の自分たちには「関係」ない
ということなのではないか? つまり、現代の倫理というのは、本当に将来に人類が生きる「ため」の枠組みになっているのだろうか?
(興味深いのは、池田信夫のほかに、このホルミシスにご執心なのが、幸福の科学だということだろう。お互いはいつかはタッグを組み、「連携プレー」を始めるんでしょうね。どうしても分からないのは、ソーカル問題とか、学問の偽科学や、学問の「トンデモ」に造詣の深い人たちが、放射性物質ホルミシスという
トンデモ
には、妙な理解を示すって、なんなのでしょうね orz。国家の介入を嫌がる自由主義者が他方において、どんな民間の企業もその保険を嫌がる、原発にだけは「例外」で、電源三法のような、国家による
保護
を主張するというのも同じなにかなんですかね。)
それでは、ビルゲイツ放射性物質商売をたくらむ、池田信夫さんの今後を予想してみましょう。まず、彼は人類でただ一人、少量の放射性物質が「体に良い」ことを知ってしまったので、これを人々に売る商売を始めるでしょう。つまり、「あえて」少量放射性物質入り食品や「あえて」少量放射性物質入りペンダントは、「むしろ」体を健康にするんだから、つまりは、健康食品であり健康グッズなんだ、と。ここで、
少量の放射性物質
というところがポイントです(一定のボーダーを超えなければ「むしろ」健康なんでだそうです)。そして、次に彼が行うのが、その自らの実践です。「少量の」放射性物質は体にいいのですから、むしろ、放射性物質を毎日食べることを日課にしなかったら

ですね。彼は自分が言っていることの「論理性」の
強度
に耐えられず、それを実践せざるをえなくなるでしょう。そして最後が、彼のツイッターでのフォロワーに、自分の売る「あえて」少量放射性物質入り食品を買って、自分と同じように、それを毎日取り込む「日課」を、フォロワーに推奨するようになるだろう。だって、ツイッターのフォロワーって「友達」っていう「意味」なんでしょ。友達なら「寄進」してくれるでしょう。フォロワーさん大変ですね。