白井聡「永続敗戦論」

私たち日本人は、素朴に「戦後」という言葉を、使う。しかし、もしその言葉を使うことに違和感をもたないなら、じゃあ、どうなったら「戦後」が終わるのか、のアイデアがなければならないように思われる。
「戦後」でなくなる、とは、どうなることなのか。
それは、普通に考えるなら

  • 占領

が終わることであろう。占領状態がなくなり、自分たち「で」全てのことを決めるようになる、と。
つまり、これを逆に言えば、日本は今だに占領状態が終わっていない、つまり、「終わらない」のだ。だから、人々は今だに、今を「戦後」と呼ぶことに違和感をもっていない。
では、それは具体的には、どういうことか。言うまでもない。在日米軍の駐留である。もちろん、私は在日米軍が日本から出ていけば、日本は「普通の国」になるとか、そういう通俗的なことが言いたいわけではない。そうではなく、そもそも、なぜ在日米軍が日本に、「ずっと」いるのか。それが「自明」なのかは、大きく

  • 戦後処理

と関係していたことを理解しなければならない、と言いたいわけである。
だとするなら、日本が「敗戦」を受諾していく、その「戦略(タクティクス)」が、どういうものだったのか、が重要になってくるように思われる。
日本の敗戦へのプロセスで、明らかに、その主導権を握り、大きく発言していたのは、近衛文麿であるだろう。つまり、近衛が日本の敗戦時の、戦後処理を主導的にひっぱっていた。
しかし、そのことは、ある意味、おかしい。というのは、そんなふうに、頭の中で、戦後処理を思い描いてみたところで、自分がそれを「やれる」とは、限らないからだ。つまり、当時の日本の指導的な立場にあった人たちは、おしなべて、

  • 戦犯

にならないとは限らなかったからだ。よく考えてみると、それを逃れられると「思える」とは、どういうことだろうか? 別に、自らが戦犯として牢獄に放り込まれたからといって、戦後処理を考えてはいけない、ということではないが、そもそも、それを自らがひっぱるのでなければ、他人がそうするのだから、当然、「その人」の意向に沿ったものになるわけで、だとするなら、あまり「戦犯」として裁かれることが分かっている人が、そういった「構想」構築作業を先導しないのではないか、と思われるわけである。
事実、近衛はアメリカの尋問対象となり、巣鴨拘置所への出頭予定日の未明に、自宅で服毒自殺する。

近衛の死について、財界のトップ・リーダーで大蔵大臣や商工大臣の経歴をもつ池田成彬は、「あの人は、[中略]最初は自分が戦犯になるとは思っていなかったようだだからよく私を捉まえて、「池田さん、あなたは戦犯になるおそれがある。危ないぞ」などと言ってた」と回想している(『故人今人』)。おそらく近衛は、アメリカ側は対米開戦責任だけを追及してくるものと予想し、太平洋戦争に反対の立場をとった以上、自分の政治責任が追及されることはないと判断していたのだと思う。
ところが、日本の侵略戦争に対して厳しい態度をとる国際世論に押されるかたちでGHQの側も近衛の対アジア責任を問題にしたのである。ここにおいて、近衛の戦後構想は完全に破綻することになるが、保守勢力のなかで最もリアルな政治感覚をもっていた近衛でさえ、アジアに対する戦争責任の問題に関してはまったく無自覚であった事実は記憶されてよい。

昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

この部分は、「非常に」重要に思われる。どうも、日本の指導者たちは、対アメリカとの太平洋戦争について、「戦後責任」が発生することは自覚していたが、なぜか、日中戦争が、裁かれるとは、夢にも思っていなかったようなのだ。
つまり、日本が敗戦を受け入れ「よう」としたときに、中国や韓国や台湾から、戦争責任を追及され、それを日本が受け入れなければならない状態になる、と

  • 思っていなかった

ようなのだ。ということは、

  • だから

敗戦を受諾したんじゃないか、という疑惑がわいてくる。
近衛文麿が、自殺をした、ということは、「自分の罪が追及される」ということを、

  • その瞬間まで

考えていなかった、ということである。もし考えていて、その時まで生きていたなら、「それに対処するため」の「戦略」を考え、そなえたわけだから。
急に、自分が罪人になり、さまざまな弁論を行わなければならない場所に引き立てられることが分かったから、「そんな事態に耐えられない」として、「そこで」自殺を選ぶわけである。
近衛文麿は、その瞬間まで、さかんに日本の戦後処理について発言してきた。つまり、それ以降も生きる気満々だったし、日本の政治を自らが先導して、コントロールすることが「当たり前」だと思っていた。
もちろん、「もし近衛文麿の罪が問われない」なら、このことは、非常によく理解できる。実際において、戦前でも、ほとんど近衛文麿が日本の政治を先導してきたんじゃないのか、というのは事実として、そうなのだから。
それは、言うまでもなく、「天皇から見て」こそ、そうだったわけなのである。近衛文麿の家系、家柄を考えても、実際、天皇に気がねなく、指導的に振る舞えたのは、近衛くらいであろう。
ということは、である。
天皇も、基本的には、近衛の「戦後処理」案に、乗っかることになるだろう、とは、どこかで思っていたであろうし、その範囲では、今まで通りに「受け身」だったと予想できるように思われる。
当時の歴史において、天皇の発言を記した「独白録」を見ても、明らかな特徴として、かなり、昭和天皇自身が、思ったことを、どんどん、発言していることである。発言して、実際に、戦中の日本の選択に、どんどんと関係している。
つまり、昭和天皇は、「若かった」わけだ。
自分で、いろいろなことに関心をもって、心のおもむくままに、どんどん発言していた。
例えば、日本において、天皇機関説というのがある。立憲君主制において、君主とは、どういった立場の存在なのか。
天皇機関説とは、「君主」とは、あくまでも、その「役割」の範囲で、行動する、ということである。つまり、基本的な「政策」は、それを行う「役割」の機関(例えば、立法府の国会)が行うので、天皇は、そういった難しい政策に、関与しなくていい、ということになる。
しかし、こういった考えとは、まったく反対の考えもあった。
むしろ、天皇が全てを決める、というわけである。
実際に、明治憲法は、あらゆる権力が天皇に集中しているように見える。つまり、天皇だけが、あらゆることを決められるし、むしろ、「他の人が決めてはならない」ようにさえ見える。実際に、明治憲法そのものが、天皇を除いて、ドラッカーの言うマネージャーに「なれない」システムのように思われる。
そのように考えた場合、天皇自身が深く日本の政治の選択に関与し続けたのではないか、という仮説が成り立つ。
それは、特に、近衛文麿が自殺した後の、今後の方針が「空白」状態になった日本において、より、昭和天皇が、積極的に、日本政治に関与したのではないか、と。

木下道雄の『側近日記』によれば、四六年一月一日の「人間宣言」の案文作成の段階で、天皇は、天皇自身が「現御神(あきつみかみ)」であるとする観念を否定するという原案には賛成したが、天皇が「神の裔(すえ)」であることまで否定するこには反対の態度をとっている。つまり、天皇はみずからの統治の正統性を天孫降臨神話に求めるという、独特の国体観念を正面からは否定できていない。
また、「独白緑」をみても、天皇皇位の正統性の象徴としての「三種の神器」の保持に強く固執し、「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難し」という判断から、ポツダム宣言の受諾にふみきったことがわかる。
昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

ナチス・ドイツと日本の、第二次世界大戦での敗戦の「違い」を、あえて、2点に搾るなら、一つは、いわゆる、「文書の廃棄」ではないか、と思っている。

なぜなら日本の場合、ドイツと異なって、連合軍の日本本土への侵攻の直前に「終戦」が実現した。そのため、ポツダム宣言の受諾決定から、最初の米軍先遣隊が厚木飛行場に到着する八月二八日までの間に、ほぼ二週間の「空白期」があり、この期間を利用して軍関係文書を中心にした機密文書は徹底して焼却されたからである。
昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

国家とは、「政治文書(=アーカイブ)」のことだと考えるなら、このように文書を廃棄する行為は、大変に大きな国家の正統性の危機と考えられる。
つまり、もし国家が「政治文書」の破棄を「あえて」行う場合があるとするなら、それは、「それを行っても国体護持は保たれる」という判断があるからであろう。
つまり、その場合、なにをもって国家となすのか、の判断が、「政治文書(=アーカイブ)」とは別である、ということである。
それが、上記にある、天皇の「神」性であり、「三種の神器」であったわけであろう。
しかし、このことは、よく考えてみると、恐しい話である。
つまり、「あらゆる」政治文書が廃棄されたとしても、天皇の「神」性と「三種の神器」があれば、「国体」は護持される、というのだから。
なぜ、国家は、その「形態」を「認められている」のか。それは、普通に考えるなら、「そのようにあるということ(=過去のある時点で、どのように変えたのか)が、全て、つまびらかだから」と考えることが、普通のように思われる。つまり、「歴史文書があること」である。なぜなら、少なくとも、それらがあることで、一貫して「正しくあった」ことが、「検証」できるからだ。
ところが、国家の正統性を、そういったアーカイブとは別のところに、考えたとき、逆に、こういったアーカイブの「価値」について、過少評価される可能性を考えざるをえない。
敗戦を認めると同時に、日本が、あらゆる政治文書を廃棄したことは、つまり、アーカイブネスをあきらめても、日本が国家の体裁を保てるという、「自信」のようなものがあった、ということを意味するのかもしれない。
しかし、そのことは、日本のその後の敗戦処理の性質を、決定的に規定していく。

この結果、検察側は、裁判の準備と公判廷の両方の過程で、日本人関係者への尋問から得られた情報や関係者からの証言に大きく依存せざるをえなくなるが、そのことのもつ意味は、きわめて重大である。
なぜなら、こうした事情のために、日本側としては、尋問や検察側証人としての出廷に積極的に協力することによって、被告の選定や判決の行方にかなりの影響を及ぼすことが可能になったからだ。
昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

つまり、日本における戦後裁判は、著しく「供述」中心の審議となったために、実際においては、「供述を積極的にした」人たちの話した内容「そのもの」が、大きく全体の審議の方向を決定したところがある。
もちろん、こういった状況に「不満」をもった多くの戦犯者がいただろうが、そもそも、「アーカイブを廃棄」しているという「異常国家」状態が、こういった裁判の形態を強いた部分もあるわけで、敗戦処理の性格を考えたとき、そう簡単に「アーカイブの廃棄」という国家の「暴力」を、国民は認めない方向がなかったのか、というのは印象として、どうしても受ける。
さて。
もう一つの「違い」は言うまでもなく、天皇の「人間宣言」だ。
つまり、戦中において、天皇は国内の文脈では、「神」であった。ここで、「神」であったとは、どういうことなのかと問わなければならない。それは、「国民が」、生まれてから、義務教育を受ける頃から、

に向かって、「その御真影が神である」というポーズ(=拝礼)を、行う儀式を、ずっと繰り返してきた、ということである。
このことは、大変に大きなポイントだと考えている。つまり、確かに、昭和天皇は、終戦時に、人間宣言を行った。しかし、たとえ本人が「自分は人間だった」と言ったところで、相手を「神」として振る舞ってきた、国民にとって、そういった生まれてから、ずっと繰り返してきた「慣習」は、そう簡単に変わらない、ということだろう。
つまり、本人がどう「自分は神ではない」と言っても、国民はそう簡単に「昭和天皇は神ではない」とは受けとらない。そう簡単に、今まで、御真影に向かって行ってきた儀礼を、止めないのだ。皮膚に染みついているのだから、「感覚」がそれを受け付けないのだから。
では、ここで言う「神」とは、なんのことなのか、を考えてみよう。
その場合に、二つの意味を区別しなければならない。一つは、キリスト教におけるゴッドと同一視する観点である。
古くは、平田篤胤国学が、かなりの部分において、聖書を「導入」していたことが知られているし、平泉澄歴史学もクローチェのキリスト教歴史学に大きく影響されていたし、そもそも、日本の歴史は、織田信長の頃から、キリスト教宣教師の影響を無視して語ることはできない。
つまり、戦中において、教育の文脈でさかんに言われた、「天皇は神」という表現において、その「神」の意味に、多分に、「キリスト教的神」が、「分有」されていたことは、自明なわけである。
そして、もう一つが、日本の伝統的な神道における「神」、つまり、日本書紀における「神」の概念である。上記の引用で、天皇は自分は「神」でない、ということで、いわゆる「人間宣言」をしたが、「神の裔(すえ)」である、という部分については、捨てていない、ということがあるが、これは日本書紀を考えてみると、その意味がわかるのではないか。
以前に引用し考えたことがあるが、日本書紀において、ある天皇とは別の普通の日本人が、自分は、また「別の」神の末裔、みたいなことを言っている場面がある。つまり、天皇は「アマテラス」の「裔(すえ)」だとして、他に別の「神」の「裔(すえ)」の人間がいた、ということなのだ。
このことは、なにを意味しているか。つまり、日本神話における「神」は、ギリシア神話における神と同じように、多分に「多神教アニミズム」の色彩が強いということである。
では、こういった日本における「神」の二つの性質を、アメリカ占領軍は、「どちら」と捉えたのか。それは、間違いなく、前者であろう。
つまり、なぜ、昭和天皇の戦争責任は問われなかったのか。第二のイエス・キリストにしないためであろう。たしかに、アメリカは、昭和天皇の「人間宣言」を強いた。しかし、だからといって、これを「悲劇」にできなかった。なぜなら、これが、十字架の磔になるなら、もう一つの「(キリスト教的)新約聖書」を作ることを意味してしまうからだ。
つまり、昭和天皇への「判断」をしない、ことだけは最初に決めた、ということである。
ということは、どういうことになる?
上記の文脈から考えたとき、日本の戦後処理を「だれが決め先導するのか」は、ほぼ、フリーハンドとなった、昭和天皇「その人」が行うことが、ここで、決定的になっていた、ことを意味しないだろうか。
日本の政治的指導者で唯一、戦争責任が問われないことが決まっていたのが、昭和天皇であった。ということは、唯一、昭和天皇だけが、まっとうな戦後処理を考えられる立場にあったわけである。
では、実際には、どのような「フレーム」だったのかを考えていくのであるが、まず、私たちが考察しなければならないのが、この東アジア地域における、

  • 軍事バランス・スキーム

となります。

カミングスは、先に引いた言葉に隣接した箇所において、朝鮮戦争以後の東アジアの状況に関して次のように述べている。

朝鮮戦争が終わってみると、台湾と韓国は、それぞれ約六〇万人の兵員を擁し、軍人対民間人の比率では世界のトップクラスに位置するほど、途方もなく膨れ上がった軍事組織を抱えてしまっていた。いずれも、国家体制としては巨大な治安・諜報機関を抱える独裁国家であった。こうした大規模な軍事・治安組織は、主導権を握る「壮大な領域(grand area)を防衛するための外辺部防衛隊としての機能を担うとともに、その強大な治安維持能力を発揮して労働運動や左翼を鎮圧した。この意味で、台湾と韓国の高圧的弾圧装置は、暴力装置を欠き国家としては不完全な日本国家をして、アメリカの庇護の下で東北アジア地域という枠組みのなかで完全な国家たらしめる、という機能を担っていたのである。すなわち、日本の国家構造は、かたちの上ではかつてのような強力な軍事・国内治安装置を奪われたが、そうした装置はそれらがまさに必要とされた国外の近隣地域で再生され、アメリカの費用負担によって維持されたのである。

上記の指摘は、非常に重要です。
日本の敗戦による、アメリ進駐軍による占領政策は、まず、日本の非武装化を目指しました。それは、二度と日本に、侵略戦争を始めさせない、という意図があったことは、ドイツにおいても同様だったと考えられます。
しかし、その場合、この東アジアにおける、軍事バランスは、どのような形を構想されたのでしょうか。
当時から、観測されたこととして、明らかに、今後の世界秩序が、「冷戦」となっていくことは自明でした。つまり、アメリカとソ連が、太平洋をはさんで、対立していくことは、多くの人が考えていたことでした。
当時のアメリカの指導者になって、考えてみましょう。たしかに、日本を非武装にすることは、日本がアメリカの方を牙をむいて、向かってくることがない、という意味では、安全です。しかし、それはソ連に対峙する「軍事バランス」ということでは、不十分なのです。
そこで、「朝鮮半島」「台湾」です。日本が非武装化された「代償」として、この二つの地域は、上記の「軍事バランス」の上での、

  • 最前線

と位置付けられます。この二つの地域は、その後、あまりにも日本と対照的なまでに、軍事費増強化(=独裁政権化)が、徹底されていきます。
しかし、ここで疑問がわきます。
日本はどうしたのでしょうか? 日本の「軍事バランス」は、当時の日本の戦後指導者は、どう考えたのでしょうか? 天皇は自国の軍隊を解散させられた後、日本の「国体護持(=軍事防衛)」をどう考えたのでしょうか?

豊下が外務省および宮内庁による資料公開の不十分さ、秘密主義に苦慮しながらも十分な説得力をもって推論しているのは、当時の外務省が決して無能であったわけではなく、安保条約が極端に不平等なものとならないようにするための論理を用意していたにもかかわらず、結果として吉田外交が----通説に反して----稚劣なものとならざるを得なかった理由である。それはすなわち、ほかならぬ昭和天皇こそが、共産主義勢力の外からの侵入と内からの蜂起に対する怯えから、自ら米軍の駐留継続を切望し、具体的に行動した(ダレスとの接触など)形跡である。

しかし、この立場が結局放棄されるのは、昭和天皇がときに吉田やマッカーサーを飛び越してまで、米軍の日本駐留継続の「希望」を訴えかけたことによる。その結果、一九五一年の安保条約は、「ダレスの最大の獲得目標であった「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を、文字通り米側に、”保障”した条約」として結ばれることになる。また、これらの過程で、沖縄の要塞化、つまりかの地を再び捨石とすることも決定されて行った。「要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである。

戦後、天皇は自国の軍事防衛を、完全にアメリカに依存した、ということなのです。これは、どういうことだったのでしょうか。いや。そういった問い自体が間違っているのかもしれません。つまり、昭和天皇ほど、自国が「占領」されたということを、「その意味」において、真剣に向き合った人はいない、ということなのかもしれません。
占領されたのですから、日本には「主権」がなかった。だとするなら、この日本の軍事防衛は、「占領側」が考えることだった、と。
では、天皇が、アメリカ占領軍に頼まれた役割は、なんだったのか。それこそ、自国内の「治安維持」、つまり、自国軍人たちのレジスタンス化を防ぐ「国内向け平和政策」だったわけであろう。そして、実際にそれは、うまくいく。なぜなら、昭和天皇は彼らにとっては、

だったから。
アメリカが考えることは、日本のことというより、日本を含めた、アメリカと東アジアの軍事バランスの「配置」であったわけで、つまり、そもそも、国際関係を一国で考えることには、まったく、現実味がない。アメリカが、この東アジアにおいて、長期的にどういった「平和」関係を維持していこうとするかを考えるなら、それは、

  • アメリカ本土からの東アジア向けの軍事プレゼンス
  • 日本の外向けの(ほぼ非武装の)軍事プレゼンス
  • 日本国内の(旧帝国軍人の赤化、レジスタンス化を防ぐ)「非」軍事プレゼンス
  • 韓国、台湾の(最前線としての比較的強力な)軍事プレゼンス
  • アメリカの日本、韓国、台湾に配置する軍事プレゼンス

これらの
バランス
が、ソ連(ロシア)、北朝鮮、中国のそれらと、どうバランスするかが「冷戦」であったわけであり、現在の東アジア軍事バランスであるわけだ。
しかし、このように考えてくるなら、昭和天皇の(一見)極端な軍事力のアメリカ依存は、むしろ、それを「占領期の約束」の延長で考えるなら、当然にも思えるわけである。実際に、日本は完全に非武装化された。じゃあ、どこが日本本土の軍事的プレゼンスを威嚇的に配置するか。それは、アメリカしかなかった。ありえなかった、それが、「占領」ということの意味だったのだから...。

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