和田司『吉本隆明『共同幻想論』を解体する』

私は別に、ここで、吉本隆明の社会理論を考えたいわけではない。つまり、もしそういうものがあるとしても、興味はない。
そもそも、吉本隆明は非常に長い間、日本の文脈において、発言し続けた。古くは、60年安保から、老眼のため文字が読めなくなっていたという、2000年代に至るまで、この長い間、ほとんど、常に発言し続けた、というだけで、特異な印象を受ける。
彼は文字が読めなくなってからも、講演や口述(インタビュー)の形で発言し続ける。しかし、これらはなんなのだろう?
私たちのような「実践家」、もっと言えば、吉本の言葉でいう

  • 大衆

にとって、その「接点」がよく分からないのである。例えば、吉本の晩年の多くの出版物にしても、確かに、「一般向け」になにかを語っているように思えるものもあるが、実際のところそれは、
だれ
に向けて語られているのだろう? これらを若い人たちが読むことには、実際にところ、なにか意味があるのだろうか? 正直、その「接点」がよく分からないのだ。
例えば、私たちが吉本に、もし「関心」をもちうる可能性のあったポイントとして、それは、オウム真理教の麻原への評価があったのではないかと思っている。この点について、私は、最近の以下の宗教学者大田俊寛さんと上祐さんの談話の部分を重要視してみたい。

大田 『虹の階梯』には、「グルと弟子はどういう関係にあるべきか」ということが繰り返し説かれています。そのなかでとりわけ有名なのは、「ティローパとナローパ」の物語です。ふたりが九層の高い塔の登ったときに、師匠であるティローパが「本当に法を学びたいと思うほどの者ならば、この塔のてっぺんから飛び降りることも平気なはずだ」と呟きます。それを弟子のナローパが、これは自分に向けたれた言葉だと思い込み、実際に塔から飛び降りて瀕死の状態になる。この話が典型ですが、師匠が弟子に難題を持ちかけ、それを弟子が真に受けて実行し、瀕死の状態になると、神秘的なパワーを授けて甦らせるという話が繰り返し欠かれている。
それと似た物語に、「マルパとミラレパ」というものがあります。師であるマルパは、弟子のミラレパを、きわめて過酷な労働に従事させるのですね。たとえばマルパは最初に、高い塔を建てろと命令し、ミラレパは不眠不休で働かせる。しかしそれが完成しそうな段階になると、それはもういいから今度は寺院を建てろ、と命令するわけです。理不尽な労働に、どこまでも弟子を駆り立てていく。こういった師と弟子の関係は、オウムの「ワーク」に通じるものがあります。
(「オウム真理教を超克する」)

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上祐 ただ、私が麻原信仰を脱却する上で理解したことは、こうしたグルイズムが健全に機能するには、重要な前提があるということです。それは、このチベット密教の教えは、あくまで精神的な修行のための手段であって、グルという存在が本当に絶対・完璧だと主張しているわけではないということです。他人に対して批判的であれば、自分の欠点が見えにくくなることがあるため、謙虚に自分のエゴを見つめるために、「仮に」グルを絶対と設定するのです。ダライ・ラマ法王の日本代表部事務所のホームページに、同じ主旨のことが書いてあったのを見たことがあります。
グルが指示しても、当然サリンを撒いてはいけませんし、法律の範囲内で、第三者を巻き込まずにやらないといけない。オウムの場合でいえば、麻原に「サリンを撒け」と命令されたときに、「それは、グルを(仮に)絶対と見なす教えの主旨から逸脱しています」といわなけれなならなかった。
(「オウム真理教を超克する」)
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上祐 そもそも、『虹の階梯』では、グルに関して大きな間違いが起こることは想定されえいなかったのでしょう。あの本は、中沢さんとチベットのラマの共著であり、グルの視点で書かれた本ですから、さらに、チベット仏教では、たくさんのグルがいて、あるグルが変ならば、ほかのグルに相談できるという状況がある。
しかし、その本が日本で紹介され、麻原にチベット仏教の権威づけが与えられる一方、麻原を諫める先輩のグルはいなかった。この点、中沢さんは、麻原と十分に付き合わなかったことを反省されていました。こうしてみると、グルの視点だけではなくて、外部の人間や弟子側からの視点が提示されないと、適切なバランスが取れないように思います。
(「オウム真理教を超克する」)
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この部分で言われているのは、いわゆる「諫言(かんげん)」の問題だと思うわけです。
私たちのような「実践者(=素人)」にとって、なにが「正しい」とか、なにが「正論か」とは、どうでもいいわけですよね。あるのは、師匠と弟子の関係「だけ」と言いますか。だから、宗教とか、なんとかの「区別」って、どうでもよくて、単純に、師匠が間違っていると思ったら、

  • 諫言する

という行動を行う、っていう、それだけなんだと思うわけです。
しかし、現代の資本主義社会においては、むしろ、こういった関係が「現象学的還元=カッコ入れ=デコンストラクション」できると考えた上で、成立している理論だというわけでしょう。
資本主義においては、あらゆる関係は、金銭関係となる。事実、上記の新新宗教においても、一見、この関係には「資本関係」が表面化していないように思えるけど、そもそも、入信するためには、全財産の寄進を要求されるわけであり、一種の極端な金銭関係の「後」に成立しているわけでしょう。
しかし、だからこそ、オウムの地下鉄サリン事件が、実行に移されてしまった、誰も「諫言」によって止められなかった。この「事実」こそが、上記で、まるで当たり前のように、上祐さんが語る原則が、うまく機能しなかった事実を、重く受け止めなければならないのであろう。
そのように考えたとき、吉本隆明にとっての麻原との関係は、なんだったのか。明らかに、「諫言」の関係ではなかった。私はその時点で、そもそも、この話題に、あまり興味がわかないのだが...。

そもそもこのインタビューで、吉本の関心は宗教者としての麻原の教義に集中し、オウムの犯罪がもたらした被害に向けられることが一切ないのである。宗教の超越性と「大衆の原像」との間に設けらた「二重性」という思弁的対立の中で、被害者たちの嘆きや苦しみはおろか、彼等が蒙った死、後遺症、半身不随、植物状態での闘病生活といった、否定しようのない不条理として立ち現れた赤裸々な現実さえ、彼の視界からはまったく消失しているように見える。

田村隆一や出口祐弘が袂を分かったのは、単に「気にくわない」からではなかったはずである。内村剛介は、彼自身も著名した「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に対する吉本の批判(『「反核」異論』)に業を煮やして彼と決別した(吉本はこれをきっかけに、奥野建男、清岡卓行島尾敏雄などとも絶縁している)。そして『「反核」異論』では吉本の肩を持った鮎川信夫も、三浦事件や『マス・イメージ論』に関して論争となり、吉本と縁を切ったのではなかったのだろうか。しかし吉本の了解の仕方は、「いちゃもんを付けられ」「気に食わない」と言われ、「生意気だ」と思われたという、あくまでも一方的で情緒的な、こう言ってよければ被害妄想的な水準に留まったまま、彼等の真意を忖度しようとすらしない。
自らの常識外れの発言が、被害者とその遺族をどれだけ傷つけ苛んだかということにも思い至らない共感の欠如。その欠如に安んじたまま「思想の問題」を弄んで怪しまない救いがたい鈍感さ。一方では「大衆の原像」という呪文を唱えながら、もう一方で「市民社会のあり方を超え」ることを発願し、その超越性への抑えがたい渇仰ゆえに、「大衆」に対する凶悪犯罪集団と成り果てた宗教教団を擁護することも辞さない論理的な朦朧性と倒錯性。あたかも世界と絶縁し、接続を断たれた閉回路のように、吉本の思考は外界に対する感受性を失ったまま、内的なパロールの軌道をただ際限なく循環しているだけのようにも見えてくる。「自分では分からないながらも、そうなってしまう」「どうしても原因が分からない」と呟きながら。しかも分かろうとする意志さえ放棄し、「二重性」という退避壕の中に引きこもったまま......

アパシーとは、外界からの刺激に対する反応の水準が低下する現象を言い、無感動、無関心、感情鈍磨などと訳される。鬱病精神分裂病に多く見られる症状だというが、程度の差はあるにせよ、いわゆる学生無気力症候群や引きこもりんども含まれるらしい。これらは今では社会現象化し、広く知られるようになっただけに抵抗感も希薄になっているように見えるが、耳慣れたからといって無視してよいということにもなるまい。吉本の言動に顕著な鈍感さや共感の欠如も、一種のアパシーと考えてよいのではないだろうか。

掲題の著者は、上記の吉本におけるオウム地下鉄事件の被害者への、「アパシー」を、重要視する。
しかし、他方において、そういった吉本における、さまざまな政治問題における「アパシー」は別にここに始まったことではない、とも言う。上記であげられているだけでも、田村隆一、出口祐弘、内村剛介、奥野建男、清岡卓行島尾敏雄鮎川信夫、と実に多くの人たちが彼から離反していったところに、むしろ、吉本その人の「アパシー」の深刻さがあるのではないか、と考える。
もちろん、吉本の側から、考えれば、この本での主張は、あまりに一方的だということになるだろう。実際、吉本は麻原とは、逮捕の前まで、「親しく」対談しているような間柄だったわけであろう。むしろ、そういった態度を急に変節させることの方が、異様だと言えないこともない。だからこそ、吉本は、その後、麻原が裁判の場で、まったく発言しなかったことを本気で予想外に思ったのではないだろうか。彼は麻原が今までのように「饒舌」に話すという
予測
があったから、あのような応答をしたのであろう。ところが、それ以来、ピタリと麻原は何も話さなくなる(私たちが今の時点で、吉本を異常だと思うのは、結果として麻原がまったく話さなかったからこそ、際だって思えるのだろう)。
そういう意味でなら、吉本の言うことは、むしろ、逆に重要性をもってしまった。つまり、このオウム事件

  • 事実関係

が、このように何十年とたっても、さっぱり解明されなかった、ということの「事実」の大きさを、あらためて、意識されられるわけです。
それは、日本の敗戦に至る一連の過程から、北朝鮮拉致被害者の救済から、はたまた光市母子殺害事件に至るまで、多くの事件が、なによりも「被害者の感情」を優先するがゆえに、
事実
が実際には、どうだったのかが、なにか重要視されない、事実よりも、被害者遺族の「応報行為」を早くすませることが、優先される。そしてそのために、後から振り返っても、これが結局なんだったのかが、少しも解明されている印象を受けない、ということになっているのではないか、と。
しかし、むしろ、そういったことを分かった上で、掲題の著者の主眼は、「じゃあ、どうして吉本隆明は、バランスよく、主張できないのか」という所にあるわけですよね。
つまり、なぜ吉本隆明は、上記のように、被害者感情をさかなでするような言い方をしたまま、それをうまく、フォローしていけないのか。むしろ、掲題の著者にとって、実際のオウム事件がどうなっいるのか、という方に関心の重心はなく、

  • そういう発言

をして「平気」でい続ける(アパシーであり続けている)吉本さん自身の、その心的状態に興味がある、ということなのでしょう...。

つまりは自分を責める代わりに他者を責めることで、責められるべき自分自身を防衛していたにすぎないということなのだ。そしてこううそぶく。「人間どんなことをしたってだれから文句をつけられる筋合はないのだという原理を体得した」、と。彼の言う造悪論なるものが、この小さな源から流れ出た水脈にすぎないこと、「やっぱりいいんだ。悪いことをしてもいいんだ」という、数十年後のオウム発言における呟きが、敗戦後の混乱の中で会得したこの「原理」のリフレインであることは火を見るよりも明らかである。もちろんこの呟きが、我々の心に届くことはない。なぜなら、彼が選んだ「自分だけに通じればいい言語」とは交換不可能な言葉だからであり、交換不可能な言葉だけが木霊する「原生的疎外」の領域に退避することを決めたのは、ほかならぬ吉本自身だからである。晩年の『ひきこもれ』が教えているのは、こういう姿勢を戦後数十年間、彼が少しも変えようとしなかったということであり、それ以上でも以下でもない。

それにしても、「上部構造といってもいい」ものが、なぜ《幻想》と呼ばれなければならないのだろうか。そしてなぜ、「すべて基本的には幻想領域」でなければならないのか。多くの読者は、おそらく訝りつつ、いずれは著者が正確な定義を示してくれることを期待して読み進め、そして結局は裏切られる。もちろんそれが読者の責任であるはずはなく、曖昧な用語を曖昧なままで使う書き手の責任なのだが、それなら曖昧なままにしておくのはなぜなのか。
もちろん我々にとって曖昧なものが、吉本にとって曖昧とは感じられていなかったからだと考えるほかはあるまい。あるいは曖昧であることが、思考における不徹底とは考えられていなかったからである。「わたしはわたしという統一体であるという確信」に執着し、それを表わすために「第二の言語」を偏愛する彼にとって、「わたしはわたし」という確信は、観念や上部構造などという中性的で無機質的な、いわば乾いたシニフィアンによっては言い尽せない、いわく言いがたい、なにかしら特殊で秘儀性を帯び、意味深く重みのある実感として感得されていたに違いない。

しかし注意しなければならない。何物にも換えがたいシニフィカシオン(意味作用)を実感している当人が、必ずしもそれを理解しているとはかぎらないからだ。理解するとは説明できるということである。説明できないことがらについて議論することはできない。議論とは対話であり、自分が理解したことを共通の土俵の上で説明することだが、説明もできないことを共通の土俵に上すことはできない。説明できないまま了解できるとすれば、そこに働いているのは快感原則であって理性ではなく、つまりはフロイトの言う《思考の全能》が機能しているのである。吉本はどうだったか。彼自身が了解していたはずのことがら、つまり一般には観念と呼ばれているものを《幻想》と言い換えることが、常識的に見ていかなる妥当性を持ち、いかなる意味を持つかということ、またそのように言い換えることで何が明らかになり、議論がどのように緻密になるかということを、彼は明晰に説明できただろうか。むしろまったく逆ではなかったか。

掲題の著者は、ここにおいて、吉本隆明の「理論」は「理論になっていない」という観点から分析する。それは、吉本における、最も、重要なキーワードとなる「幻想」や「大衆の原像」という用語が

  • 未定義熟語

となっていることを問題視する。また、逆に言えば、それらの言葉が「あらゆることと同値」であるために、それらの言葉を使うことが、なにも言っていないことと変わらないんじゃないのか、というわけである。
さらに、掲題の著者は、吉本隆明の使う「大衆」が、本当に彼を含む概念なのかが疑わしい、という視点から考える。
「大衆」とは誰なのか? そこに吉本隆明自身は含まれていたのか? もし吉本隆明自身がそこに含まれていなかったとするなら、彼が長年、発言してきた「大衆」と共に考えるスタイルの「普遍性」が疑われる、ということなのであろう。
しかし、吉本隆明が「大衆」の側で考えられたかどうかは、吉本隆明の父親が「大衆」の側と呼べたのか、とも言い換えられる。つまり、
吉本隆明の批評活動
にとって、彼の父親の位置付けは、非常に重要だったのではないのか、という視点になる...。

自分は「学生大衆」だったという弁明がまず第一の欺瞞である。大戦中に東京工業大学に進学できた人間が、「普通のごく一般の学生」だったという見え透いた詭弁を、一体誰信ずると思っているのだろうか。そもそも「学生大衆」などという浮ついた言葉を、吉本は一体いつから、違和感を覚えずに使えるようになったのか。

彼は敗戦直後、天皇玉音放送に安堵の表情で聞き入る人々や、「背中にありったけの軍食糧や衣料をつめこんだ荷造りをかついで」、嬉しそうに帰郷する復員兵の姿を見た。彼等は「暴動によって支配層をうちのめして、みずからの力で立つ」こともせず、運命を享受することで「日本的な『無為』」の姿を曝していた(『丸山真男論』)。それは彼自身の、「徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考え」(『高村光太郎』)を嘲笑っていうようにも見えただろう。そういう人々を、彼は「絶望的な大衆」と呼んでいる。「日本の大衆は、ここにどんな本質をしめしたのだろうか?/わたしたちは、このとき絶望的な大衆のイメージをみたのであり、そのイメージをどう理解するかは、戦後のすべてにかかわりをもったはずである」「わたしたちは、敗戦時の大衆の絶望的なイメージのなかに、日本的な『無為』のなんであるかをみたはずである」(『丸山真男論』)。

掲題の著者は、このようにして、『高村光太郎』を重要視する。ここにおいて、高村光太郎は、吉本隆明にとっての(エディプス・コンプレックス的な意味での)「父親」として、彼の
大衆
イメージが、ここから起源しているのだろう、と。だとするなら、この「父親」こそが、なによりも彼を無意識に動機付けていたということになるわけだ、と。
吉本隆明を若い世代が読みうるかどうかは、ひとえに、彼の言う「大衆」を、私たちが「大衆」だと思えるのか、に関係している、ということなのだろうが、掲題の著者は、それがうまくいっていないという主張なのだろう(むしろ、吉本にとって重要なのは、「大衆」ではなく「父親」だった、と...)。
それは、古くは、文学者の反戦活動の評価から、「反核」異論から、オウム麻原の評価まで、一貫して続けられてきた彼の「作法」への評価なのだろうが、正直、その問題に、私がまったく関心がない...。

吉本隆明『共同幻想論』を解体する―穴倉の中の欲望―

吉本隆明『共同幻想論』を解体する―穴倉の中の欲望―