「悪」の経済学

原発推進派と反原発派の議論がなぜ、かみあわないのかと考えたとき、そもそも

  • 「ごみ」の経済学

の考え方が違っているんじゃないか、という印象を受ける。
そもそも、経済学において「ごみ」の問題は「なぜか」顕在化してこない。「ごみ」とはなにか。「ごみ」とは、

  • 所有者のいない「商品(だったもの)」

と言えるだろう。ある商品を「所有」するということは、その

  • 便益

だけでなく、それを所有することから、もたらされる

  • 不利益

も「所有」する、ということである。一般に、売買とは、

  • あるモノと別のモノとの交換

のことにすぎない。多くの場合、一方は「金銭」であるが、だからといって、その交換された「他方のモノ」が、金銭のように「有用なだけのモノ」とは限らない。多くのモノは、利便性と不利益の
天秤
にかけても「なおそれでも」、所有したいから買うのだから。では、なぜ「ごみ」には所有者がいないのか。

  • だれにとっても

上記の天秤が利益の方に傾かないからだ。だから、「所有」していることが、すなわち、「不利益」だから、今度は逆に、

  • お金を払ってでも

自分が所有していたくない、というとになる。
ここに「もう一つの」経済学が始まる。それが、

  • 「非所有」の経済学

だ。ある商品を所有していたとしよう。もし、その商品を自分が所有していながら、「それによって」他者に障害(暴力)を与えたとしよう。その場合、その商品の所有者の

  • 適切な管理

が問題とされる。例えば、ある人がスポーツをやろうと思って、野球のバットとボールを買ったとする。ところが、ちょうどいいところに、自分の気に入らない人が目の前を通ったとする。これ幸いと、その今買った、バットとボールで、その気に入らない人を、殴ったら、その人は自らが買った「商品」の

  • 適切な管理

を行わなかったということになり、社会的な問題となる。
しかし、この場合は、ボールを人に向けて投げる、とか、バットを人に向けて振り回すという、具体的な「行為(=身体運動)」と、一対一に対応しているわけで、直感的に、この問題性が理解されやすい。
他方において、原発から生まれる放射性物質についてはどうか。
原発の現在における「特徴」は、たんに、燃料を買って、そこから、「なにも考えず」に、エネルギーを取り出すだけなら、「石油」や「天然ガス」より安い、ということなのだろう(本当かどうかは知らない)。
ところが、原発の燃料となる物質は、ひとたび、エネルギーを取り出すという、

  • 加工(=化学変化)

を起こさせただけで、「ただそうあるだけ」で有害な物質(人体を破壊する波長の短かいエネルギー波が空間を伝播するだけでなく、その細かな粒子は風で飛ばされ、空気や水や食糧に取り込まれ、人体内へと吸収される)へと変化する。
ここでやっかいなのは、

  • 人間の感情

なのではないか、と思っている。放射性物質の方は、バットやボールのように、所有者が具体的な他者に向かって「暴力」を振るって「いない」。それなのに、「そこにある」という「だけ」で、周辺の人々を

  • バットで殴る行為をしているのと同じような作用

を与える。ところが、ここで「重要」なポイントがある。なぜ、放射性物質は「危険」になったのか。それは、その所有者「が」その物質を変化させる「行為」をしたからだ。つまり、その物質は、その所有者に買われる前までは、まあ「安全」だったのだ。つまり、その物質を安全から危険に変えたのは、その「所有者」だ、ということなのである。
一般に、こういった所有物の変化を、

  • 消費

と呼ばれる。ある商品は、「消費」されることによって、その商品所有者に、なんらかの便益を与える。しかし、どうだろう。

  • その後

って、なに?
ここで、商品には、2種類あることが分かるだろう。

  • 消費によって(比較的に)「物理的」に変化しないもの
  • 消費によって(比較的に)「物理的」に変化するもの

前者の例としては、書籍やパソコンなどがあるだろう。こういったものは、少し使ったからといって、もう使えなくなるということはない。だから、リサイクルショップのようなものがある。
後者の例としては、食糧があるだろう。この場合、それを「消費」した後に残るものが「ごみ」である。

  • 消費:商品A --> モノB

ここで問題は、「モノBとは、なんなのか」である。モノBは、商品Aが「消費行為」の過程を経て、残された「残余物」である。では、ここでこの「モノB」は、以下の三つの価値に分けられる。

  • 有益
  • 価値なし
  • 有害

前者であれば、所有していることには一定の合理性があると考えられる。また、手放すにしても、有益性がはっきりしているのだから、他者に「売る」ことによって、他の有益なモノ(お金など)に代えることが可能だ。
しかし、真ん中と後者は、もうどうしようもない。今度は「逆」の商品交換が行われる。

  • 一般の商品交換:お金 --> 商品
  • 「ごみ」の商品交換:「ごみ」+お金 --> nothing

一般の商品交換においては、代金の支払いの後、買った「商品」が手元に残る。ところが、「ごみ」の商品交換においては、逆の動きをする。手元にあった「ごみ」が、代金を支払うことで、「手元からなくなる」。
これこそが、言わゆる、

  • 「悪」の経済学

である。今後、人類は

  • 大量の「悪」

に悩まされることになる。人間の生命活動によって、次々と「人々が目の前に存在するだけで迷惑を被る」

  • 悪物質

を「消費=生産」していくことになる。つまり、人間活動そのものが「悪」になるのだ。人間が生きて利便性を追及することは、そのトレードオフとして、
悪物質
の「生産」活動と変わらなくなる。
もちろん、放射性物質も、何百万年の未来においては、半減期も過ぎ、その毒性もなくなる。しかし、ということは、その「間」においては、ずっと「悪」だというのだから、本質的に悪物質と命名しないわけにはいかない。
では、ここで、なぜ

  • 「悪」の経済学=「ごみ」の経済学=マイナスの経済学

が一般には注目されないのか、について考えてみたい。この経済学の特徴は、

  • 「ごみ」を所有している人に、その「所有状態」を、維持することのモチベーションがない

ところにある。つまり、一般には、「不法投棄」の危険性が著しくある、ということである。
このポイントは、非常に重要である。
なぜ、原発推進派は、「原発は安い」イデオロギーを、あきらめないのか。
それは、

  • 原発の「ごみ」の経済学

が、「存在しない」からである。存在しない。つまり、この「経済学」は、まだ、生まれていないのだ。つまり、存在しないのだから、考えなくてもいい、ということになり、「原発は安い」を、いっぱしの経済学者がマジ顔で吹聴する、ということになる。
まず、第一に、日本は今だに、原発「ごみ」の、最終処分場を決められていない。つまり、「ごみ」の持って行く場所が決まっていない。
つまり、どういうことか。
今、日本にある原発から排出される「ごみ」は、「捨てていない」のだ。みんな、だれかが、「捨てるまでの間」、管理してくれている、ということなのだ。
よく考えてみよう。
今も日本の上で動いている、原発から排出される「ごみ」。どんどん増え続けている「ごみ」。ところが、捨てる場所がない。捨てられないのに、「ごみ」を次々と増やし続けている。
言うまでもなく、原発は、いずれは、耐用年数が過ぎ、廃炉にしなければななくなる。ところが、そうなったときの、廃炉「ごみ」も
捨てられない
のだ。だって、捨てる場所がないのだから。捨てる場所も決めていないのに、ここまで、次々と原発を作ったわけだ。
しかし、ここで考えてみよう。
原発「ごみ」を捨てるとは、どういうことなのか、を。
捨てたとしよう。
さて。
その「ごみ」は、その捨てた場所にあって、人間活動に「被害」を及ぼさないだろうか? 来年はどうだろう? 100年後は? だれも、そこになにがあるのかを忘れてしまった、未来においては、どうでしょうか?
そもそも、放射性物質は、今の世界秩序においては、絶対に拡散させてはならない、となっています。つまり、「国家」が管理しなければならないことが、決まっている。それは、テロに使われないためであるが、そもそも、「だれも欲しくない」こんな「ごみ」を、だれが大事に管理するだろうか?
上記の
「悪」の経済学
を思い出してほしい。原発「ごみ」は、だれも欲しくない。しかし、国家はこれが、たくさんありすぎて困っている。これからも少しも減らないどころか、原発を動かせば、どんどん増える。
じゃあ、どうするか。
貧乏人に「売ればいい」、と思うだろう。貧乏人に福祉を提供する「トレードオフ」に、「ごみ」を引き取らせる。貧乏人が生まれてから死ぬまで、それが、お金持ちの、迷惑にならないように、「ごみ」を外に漏れないようにやってもらう、というわけだ。
しかし、これは、うまくいくのか。貧乏人は、「いらない」んだったら、「捨てる」だろう。こっそり、ゴミ箱に捨てれば、だれも気付かない。こっそり、夜中に、山の奥に捨てれば、だれにも気付かれない。
ということは、どういうことか。まさに、不法投棄という
不法行為
によって、「錬金術」が成立する、ということである。
ここには、非常におもしろい「経済学」が成立している。つまり、「信頼」できない人に「ごみ」を引き取ってもらう(売る)行為によって、その「ごみ」が、他人に迷惑をかけることになるのかの、「責任」を免れることになる。だとするなら、どういうことになるか。
原発「ごみ」を、次々と増やしていって、その「ごみ」を、他人に引き取ってもらう(お金で買ってもらう)ことが、その「ごみ」を排出した人にとって、最も、「合理的」ということになるわけだ。
この世に、「悪」を大量に排出しながら、その「悪」物質を、どんどんと他人に譲る。そうすることで、自分がその「悪」物質を「管理」する「責任」を免れられる。つまり、このシステムさえ「完成」させれば、究極の「錬金術」となっていることが分かるだろう。
さて。
じゃあ、「誰」に売りますかね。最もこの「ごみ」を「欲しがる」人は誰だろう。言うまでもない、最も「貧乏」な人だ。だって、その「ごみ」を引き取ると「約束」することで、お金をくれると言うんだから。
ということは、どういうことだろう。
最も貧しい国家ほど、こういった「ごみ」を引き取る可能性がある、ということである。日本が「モンゴル」に、「ごみ」を押し付けようとした、その悪質さが分かるであろう。
しかし、往々にして、最も貧しい国家とは、

  • 最もモラルのない国

であることを理解する必要がある。北朝鮮に、もし、日本の放射性物質を売ったらどうなるか。この

  • 戦争の道具

を、一体、なにに使い始めるかわかったものではないだろう。
私はここに、

  • 経済学の欺瞞

があるように思われる。つまり、実は、経済学には一点の「瑕疵」がある。それは、

  • モラルの低い人は経済活動の一翼を担う相手と「認定できない」

ということである。つまり、経済学とは、一種の、「お金持ち」たちの、遊び道具のようなところがあるわけだ。
じゃあ、当面において、どういうことになるだろうか。
まず、現状として、現れていることが、

  • お金持ちたちが、原発「ごみ」を「保管」している

ということである。彼らは「善人」だから、それを不法投棄はできない。なぜなら、彼らの「善人」性が、その行為を妨げるからだ。
しかし、そういった「モラル」は、一体、いつまで持ちこたえるだろう。
彼らお金持ちは、いい加減、こんな「お荷物」を安全に保管しなければならない「リスク」に嫌気がさす。じゃあ、彼らは、なにを始めるだろう?
彼らお金持ちたちが、

になるのだ。ということは、どういうことか。原発「ごみ」を、お金持ちたちが安全に暮らしている

  • 都会

から、できるだけ遠い所に「隔離」することによって、彼らお金持ちは、この「負」の「所有」を、実態において、所有しなくなる。
つまり、国内において、以下の「南北問題」を作りあげる。

  • 国内お金持ち「都会」国家 ... 原発の「電気」を「所有」する
  • 国内貧乏人「田舎」国家 ... 原発原発「ごみ」を「所有」する

こうして、国内において、一国二制度の、二つの国家に分裂する。
なぜ、これが「植民地」主義なのか。
上記までで、検討してきた「悪の経済学」を、よく考えてほしい。
なぜなら、原発原発「ごみ」の「国家法的な意味」での所有者は、「お金持ち国家」の方だから、だ。なぜなら、そこから生まれる「エネルギー」を使って便益にあずかっているのは、都会の方だからだ。
しかし、原発原発「ごみ」が、田舎から、都会に運ばれることはない。

  • ずっと「そこ」にある

ということは、どういうことか。実質において、原発原発「ごみ」を

  • 所有「させられている」

のは、田舎の貧乏人たちだ、ということである。キャリコットの環境倫理学を考えれば、土地こそが、ある意味における「主体」である。ということは、田舎に生き、代々、子孫を残していく人たちにとって、その「土地」と、自らの「主体」は区別できない。その「土地」に、刻みつけられて、何百万年と「管理」することを宿命付けられた「悪」は、そういった田舎に暮らす貧乏人たちにとっての

  • 血肉

そのものなのだ。都会のセレブたちよ。原発のエネルギーがどうしても欲しいのなら、都会の高級住宅街の中に原発を作れ。そして、その原発「ごみ」を、高級住宅街の下に埋め、「外」に、未来永劫出すな。それができないなら、偉そうに、原発を動かす「べき」などと、説教をしないことだ...。