コモディティなスマホ

この前、スマホがのUSBの差し込み口が壊れて、修理を依頼に、ケータイショップに行ってきた。そこで、あらためて思ったのは、このスマホ

  • 家電化

であろう。というのは、スマホの代替機があったので、貸してくれたのだが、その場合の、自環境を移動する手続きが、非常に簡素にやれたということだ(機種交換も同じなのだろうが)。
というのは、大抵のデータは、マイクロSDカードに、入っているわけで、あとは、メールとかアドレス帳を、バックアップしたり、スイカの機種変更の手続きをするくらいだった。
そして、機種を代えた後も、マイクロSDカードは差すだけだし、使ってたアプリも、グーグルのサイトから入れるだけだったわけで、まあ、しいてやったことって、各アプリのオプションの設定くらいなんですよね(これだって、グーグルのアプリサイトへの登録認定に、設定のバックアップ機能を必須にするかどうか、くらいの話ですよね)。
それで、ほとんど「以前」と、差異なく「違和感」なく使っている。
ということは、なにを意味しているかというと、スマホそのものに対する

  • 「この」性

をまったく感じていない、ということなんですよね。つまり、自分が日々使っている「コンフィグ情報」や、「コンテンツ情報」は、クラウドとか、「個人情報」として、どこかに保存しておけば、「それ」さえあれば、あとは、具体的な、それぞれの機種が「どれ」っていうのは、ほとんど気にならない。
実際に、みんな同じように動くし、いつも使っていたアプリは、いつでも、上記のサイトに行けば、ダウンロードできる。
そんなふうに考えてみると、ケータイを、さまざまなギラギラしたもので、デコっていた、女子高生ギャルたちの気持ちが、なんとなく分かる気がしてきた。
スマホと言っても、これって、昔でいえば、PDAと呼ばれていたもので、つまり、中は linux なわけですよね。しかし、開発者以外は、基本的に、内部をターミナルから、シェルで操作するという行為を、ほとんどのものが許していない。というか、ようするに、

  • この「所有者」は自分なのに

ルート権限での操作を許していない。つまり、このマシンの「ルート」権限者は、開発メーカー側が握って離していない、ということなんですね。
それは、こういったことの始まりは、おそらく、電話回線へアクセス部分をユーザーに操作されたくなかった、というのが最初なのでしょう(その辺りは、お金の契約にからむ部分だから)。そして、その後は、さまざまな「セキュリティ」を理由として、あらゆる「ユーザー」が「動作」そのものをプログラムを書き換えることによって、変えていくような「作法」をやれないようにしている。
しかし、そうやって、あらゆるシェル操作を許さなくしたことで、完全に

  • 家電製品

になってしまいましたよね。実際、パソコンが普及するようになって、一般のユーザーが触るところといっても、インターネット上で、メールやったり、ネットサーフィンしたり、SNSをやったり、くらい「しか」やってないわけで、それってつまり、

  • 文房具

のことだったわけでしょう。つまり、本やノートや鉛筆の

  • 代わり

として、「比喩」として、こういったモバイルツールが発展してきた。
つまり、極力、「プログラミング」を行うことで、このスマホ上で、ユーザーが作ったコードを動かさない、私たちが、普通に「パソコン」において、考えていた「セキュリティ」上危険な、さまざまな操作をさせないように制限していったときに、それは「家電製品」と変わらなくなっている。
そもそも、スマホのGUI上の開発ライブラリが、結局はみんな似ているんで、どうやって作っても、その「操作」は、みんなほぼ同じになる。アップルとサムソンが特許紛争をしているが、ようするに、そんなに簡単にマネできるような「有用」さなら、みんな似てくる、ってだけなのでしょう。
そうなってくると、つまり、機種の違いって、ほとんど、意味がなくなってきているんじゃないのか、という印象を受ける。つまり、別に

  • レンタル

でいいんじゃないのか、と思わなくもない。だから、小学校に入るくらいから、ずっと持たせるというような、そんなものであってもいいのではないか、くらいにすら思った。
しかし、それと同時に、それぞれのスマホが、あまりにも「似て」しまったために(まるで、文革時代の「人民服」のように、どのスマホも同じ形、同じ操作性)、

  • なぜ「その」機種

なのか、のその意味が極端になくなってきている。
それは言ってしまえば、スティーブ・ジョブズを、世界中のあまりに多くの人たちが尊敬してしまっていて、今のアイフォンの「操作」性を、どこの機種もマネしたし、実際、それしかなくなってしまっている、ということなのではないかと思っている。
もちろんそれは、実際に、多くの人に使ってもらう(普及させる)という意味では、直感的に分かりやすいわけで、例えば、ツイッターのような、短かい文章を書くには、それほど、違和感はないわけだし、ぶっちゃけ、初心者に「分かりやすい」からこそ、これほど、世界中の人に使われるようになってきたわけだろう。
しかし、それって、どこか「たくさんの人」に使われるための、最大公約数のようなところがあって、もっと特殊な使い方をしたいような人たちには(例えば、開発者オリエンテッドな視点では)、物足りないところもあるのではないか、とは思わなくはない。
例えば、ブラックベリーというケータイがあるが、あのキーボードの特徴は、長く文章を入力し続けるのには、最適のキーの配列だったようには思われるし、つまり、そういった

  • 細かな差異

が失われているのが、今のスマホの現状なのではないか、とは思うのですが。
そして、そもそものプログラミングを、スマホはやらなくていいのか? というのは、実際のところの素朴な疑問ではある。
コンピュータの大衆化は、コンピュータの「非コンピュータ」化を帰結する。つまり、コンピュータにとって、プログラミングは必須であった。なぜなら、コンピュータはプログラムによって動くのだから。しかし、人々はコンピュータを「所有」していながら、プログラミングをしない。というか、

  • 最初からできないようになっている。

それは、このマシンの「改変」をユーザーにさせないことによって、ある種のコンピュータ製造側の「資産」を守るため、と考えられる。セキュリティとはそういうことで、つまり、セキュリティによって、なにを守っているのかは、さまざまある、ということなのだろう、と。
そこには、今のスマホの戦略が、一般向け「家電」の戦略なのだからだろう。つまり、これは、現代における、

なのだろう。つまり、三種の神器の「ユビキタス」化を意味しているのだろう。
もしもこれが「家電」であるなら、それは「大量販売」が必須になる。つまり、大量に売れることがペイする条件だと考えるなら、必然的にこういった、製品の「画一化」は避けられないように思われる。
しかし、素朴に、こういった「方向」を推奨してきた人たちって、どういう人なのかな、とは思うわけだ。
例えば、今のスマホをどんなにピコピコ使っても、WIFI のツールを「ここで」開発できない。例えば、子供がスマホを使っていて、「どうやって」別の器機と、WLANで通信しているのかな、って疑問に思っても、その底辺、TCP-IPのレベルから、ソケット通信の開発ができない。
そんな、

  • 非教育的

なものを若い、これからの未来を担っていってほしい、若者に推奨することって、どこか犯罪的なんじゃないのかな、とさえ思ってしまう。
私は、この問題を考えるときに、文系(芸術系)、と理系(業務設計系)の間の、

  • ロジック

についての考え方の、差異が対応しているんじゃないかと思ったりする。
よく、ネット上で、ブログやツイッターを見ていると、明らかに、この人たちは技術者のトレーニングを積んでいないな、という人の文章を見かける。そういった人の書く文章は、一言で言うと、

といったものを、「書こう」としているような、「非論理的な」ナイーブな記述を「俺、芸術してるぜ」的に書いている印象を受ける。つまり、

  • 他人に通じない

のだ。それは、ある分野の専門書をオタッキーに、たまたま読んでいると理解できる、みたいなものから、たんに、そいつの体験「だけ」から、導かれる「持論」を、まるで、一般法則のように、自信たっぷりに、説教するものまで、いろいろあるけど、ようするに、

  • 設計していない

んですよね。この違いは、例えば、

と言えるのかもしれない。前者は、ようするに、そいつが書いている「文体」そのものを売って儲けるわけで、つまりは、その文体が売れるかどうかしかない。だから、前者は、売れれば、この

  • 芸術は価値がある

というような「価値意識」になる。ところが、後者は、そういったクライテリアではない。それは、つまりは、

  • 顧客

が求めているものを提案できるかどうかに全てがかかっている(要件定義)。後者においては、何をおいても、求められるのは、

  • 顧客が「理解できる」文章で書く

ことである。よって、一切の「曖昧さ」は、顧客との「認識の齟齬」を起こす「ダメな例」なわけで、まったく、違った戦略となることが分かるだろう。
そこで、近年、大きく普及してきている考え方が、「UML」であろう。これは、コンピュータ・プログラミングの側からは、「オブジェクト志向プログラミング」の形で、示されるもので、一言で言えば、

  • プログラムの複雑さ

  • 設計書の複雑さ

で管理していこう、という考えだと言える。
私は、

  • 芸術系文系の書く、反実証的な「感性志向型エッセイ」

や、

  • 取材の裏付けのない、感性という名の「直観志向型エッセイ」

を、若い世代がいくら読んでも、この世の中を生きていく

  • 実践的能力

は育たないんじゃないかと思っている。むしろ、若い世代がやるべきは、

  • 企画書、要件定義、基本設計、詳細設計

こういった「設計書」を書くことなのではないか、と思っている。そう考えると、日本の教育には

  • 圧倒的

に、この「トレーニング」が欠けている。
まずやるべきは、

  • 人に伝えられる「文章」を書く

ことではないだろうか。よく考えてみてほしい。「だれか」に、あなたの提案するサービスを買ってほしい。じゃあ、まず、なにをしなければならないか。あなたが

  • 考えていること

を、「正しく」相手に伝えること、でしょう。そうでなければ、最終的に出来上がる商品が、相手の考えるものと、相違してしまい、契約を破棄されてしまう。
だとするなら、なにを行わなければならないか。
自分が考えていることを、

  • 構造化

することです。それが、「UML」です。この設計思想の特徴は、第一義的に、

  • 登場人物

  • その間の関係

を徹底して、モジュール化するための、「現在までに蓄積されてきた実践的な手法」が凝縮していることです。つまり、これは

  • 最先端

の設計技術だということなのです。そして、この設計手法の利点は、

  • UMLからオブジェクト志向型プログラミング

は、ほとんど必然的なまでに、

  • 一直線

に「マッピング可能」だということです。つまり、UMLを書いたら、それをプログラミングに落とすことは、ほとんど「機械的」なまでに、自然なこと、だということです。
ということは、どういうことでしょうか。
プログラミングとは、ほぼ「数学」と同値です。ということは、ここから、ある「可能性」が、暗示されていることに、気付かないでしょうか。つまり、

です。私たちは、上記で問題視した、

  • 感性志向型エッセイ
  • 直観志向型エッセイ

の「証明判定」が、上記の過程を辿ることで、可能になるかもしれない、ということなのです。
もちろん、私だって、吉本隆明の言う「第二の言語」を認めないわけではありません。もちろん、そういった「自分にだけ通じる言語」が必要な「芸術」の場面もあるのでしょう。
しかし、多くの場面において、必要とされる能力の、「ほとんど」が、上記にあるような、「コンサル」の能力なわけです。
私たち、お金もコネもない、田舎の貧乏人は、この体一つで、この「セカイ」に立ち向かっていかなければなりません。そうした場合、なによりも大切なものが、この

  • ロジック

なのです。論理的に「正しい」証明は、どんなお金持ちも、どんな身分の高い人も、

  • 認めないわけにはいかない

のです。彼らも、最後には「ロジック」に従います。彼らも認めざるをえなくなるのです。だからこそ、この

  • ロジック

を身につけることが、重要なのです。
私たち技術者が、パソコンに感じた「可能性」とは、若い、なにも知らない子供たちが、このコンピュータ一つで、

  • 世界に戦いを挑んでいくための「武器」

としての可能性でした。どんな田舎の何もない所でも、これ一つで、都会のビジネスマンを組み伏せるような、論理的な武器を提供してくれる、

  • グローバル

な「力(パワー)」をサポートしてくれるんじゃないか。
コンピュータとは、地上波のテレビじゃないんです。一方的に、芸術家が国民に、ありがたく、お恵みくださる、

  • 消費するため「だけ」

が目的の、「快楽」維持装置じゃないのです。私たちが、日頃思ったことを、企画書、要件定義書的に、メモしていき、それを膨らませ、具体的な基本設計に近づけ、確認したかったら、それを、詳細設計・プログラミングに落とし、シュミレーションして、

  • 実証

していく、こういった思考「反復」のための「ツール」なのです(つまり、言うまでもなく、「計算機」ですからね)。そういう意味で、今の、スマホの「一般消費者向け」に特化した「コモディティ」は、私には

  • つまらない

感じがする、ということでしょうか(私が知らないだけで、いろいろ、おもしろい話があるのかもしれませんが...)。
大西巨人という作家が書いた、戦争小説『神聖喜劇』の主人公、東堂太郎は、自らの

  • 記憶力「一つ」

で、戦中の「軍隊組織」の

  • 土着的な田舎将校たちの「因習的な抑圧構造」

に立ち向かっていきます。しかし、私たちには、彼のような特異な能力はありません。しかし、それに「相等」するものを、この手にもっているのです。
私たちは、東堂太郎にとっての軍隊組織がそうであったように、この現代社会に立ち向かっていく。それを握りしめて、立ち向かっていくのです...。