ETV特集「永山則夫 100時間の告白」

NHK教育での、ETV特集についての、永山則夫のインタビューは、非常に興味深いものであった。
逮捕され、精神鑑定書を作ることになり、その医師の方は、当時としては、とても独特の手法を行う。つまり、「彼の言葉」によって、自らを語らせる中に、その真実をあぶりだそう、という。
100時間あまりに渡り、ひたすら、彼に自らを語らせ、それを、カセットテープに録音する。
しかし、それ以上に、驚くべきは、その内容ではないだろうか。なぜ、彼が、あのような連続殺人を犯すことになるのか。それは、そもそも、彼の生い立ちがどのようなものであったのかと、切っても切れない関係にある。
働かない父親、子供を捨てる母親、慕っていた姉の精神病院通い、兄弟たちからのいじめ。貧しさが、彼らを精神的に追い込み、永山は上京してから、他人への不信感から、何度も仕事を投げ出し、各地を転々とする。
当時の日本における、福祉政策の貧弱さを意味していたとも言えるのだろうが、じゃあ、現代において、その何が変わったと言えるのだろうか。特に、近年の重罰化の流れを見ても、それは、こういった「加害者の側」の、このような精神鑑定が、では、その後に、どれくらい行われているのか、と考えたときにも、あまり進歩しているようにも思えないわけである。
犯罪は結果であり、当時、19歳の永山則夫が犯した、横須賀基地から盗んだ拳銃による連続殺人という「結果」は、非常に大きな犯罪であることは間違いない。
しかし、そのことと、当人の人生が非常に過酷で厳しい環境でのまだ、事件当時、二十歳にも達していない半生であったことは、分けて考える必要があるわけであろう。
なにか、日本における、さまざまな言説が、こういった「貧困」や「虐待」に対しての想像力を欠いていて、そして、その状況は、永山が事件を起こした頃と、なにも変わっていないんじゃないのか、という印象を受けなくもない。なにか、言葉が伝わらないという、届かないというか。
国家の中心における、エリートたちの「国家語」的テーマを巡る饒舌ばかりが、どんどん増殖し、他方における、周縁的な各貧困家庭の中の言説への目差しが、日本社会において、今も、無視され続けているのではないか。つまり、こういったものが、そもそもの
文学
だという認識が、薄れているということなのだろう。
永山の死刑判決において、上記の鑑定書は否定される。それは、彼の兄弟たちは、彼のように、犯罪を犯すことなく、立派に働いているから、ということであった。しかし、永山の死刑が実行された今、兄弟それぞれも、あまり幸せな生涯を送ったとは思われないような死に方をしているわけで、いかに日本の裁判の「表層的」な、形だけのものでしかない、ことを意味していると言わざるをえないだろう。
永山は獄中で、母親も親に捨てられた経験があることを、彼女からの手紙で知り、少しずつ母親を理解するようになっていったようであるが(母親に手紙を何度も出すようになる)、こういった一人一人の人間の
視線
から考えることの実践のない限り、それが、倫理的な社会へとは向かっていかないのではないだろうか...。