女性の「偶像視」への、ある疑問

私は、ときどき、男性の女性を、「偶像視」する姿勢に疑問をもつことがある。
もちろん、男と女から、次の世代が生まれるわけであるし、家族とは、そういうものなのだから、「そうであってほしい」と思うことは、普通なのだろう。
しかし、言うまでもなく、実際の女性たちは、たんに「リアル」な存在だ。現実に生きているなにかであって、醜いことを考えることもあるし、功利的に生きている。なぜ、日本の少子化が急激に進んでいるのかは、たんに、女性たちが男性を選んでいる、ということを意味しているにすぎない。それは、日本が「近代化」を進め「人権」感覚が浸透し、あらゆる女性の選択の
絶対性
が認められている、ということが、この結果に至っていると言えるだろう。
このように考えたとき、日本や、アメリカなどのキリスト教圏での、法律の「一夫一婦制」を緩め、「多夫多婦制」を認めて行く方向が考えられるのかもしれない。日曜の夜にNHKでやっている韓流ドラマ「イ・サン」では、普通に、側室制が描かれている(もちろん、日本でも徳川時代の大奥が描かれることはあるが)。結局、東アジアの王室制度は、子孫の継承を重要視している。つまり、建前上だとしても、血の繋がりを重要視している。
しかし、日本の伝統としては、他方において、養子が当たり前のように行われてきた。そこには、「家の維持」が重要視されてきた、と考えられる。
明らかに、日本の女性は「セレブ」生活にあこがれている。つまり、お金をもっている男と結婚したいのだ。それが「幸せ」の定義だから。だとするなら、一つの選択肢として、「一夫多婦制」は、普通にありうる。なぜなら、それだけの多くの「妻」を養える資産をもつ男性は、事実の問題として、存在するからであって、日本の出生率を上げることを考えても、女性の「目的達成の一手段の提供」という側面を考えても、ありうるとは言えるだろう。
しかし、こういったことを、たんに「女性にとっての目的達成」というところで考えるなら、実際は、過去においてだって、「重複婚」的な現象は、それなりに、あったのではないだろうか。つまり、「隠し子」的なものである。つまり、こういったものは、実際に存在はし続けてきたのではあろうが、いずれにしろ、法律的なバックアップがない、どこか、アナーキーな存在として、リスクのある存在としてであったわけで、つまり、隠された存在だった、ということなのだろう。
普通に考えるなら、現代の、キリスト教的倫理が浸透した、先進国において、「多夫多婦制」は、なかなか、難しいようにも思う。それは、日本の皇室制度においてさえ、そう簡単に側室を復活できないし、宮家を復活させることも難しいということを考えても、よく分かるように思われる。
それは、いずれにしろ、そういったイレギュラーな家族形態が、子供や両親に、大きなプレッシャーを与えることになるから、ではないだろうか。
今の男性向けのアニメを見ていると、女性への「幻想」にあふれている。つまり、女性を「理想」の存在として、偶像化している。それは、そもそも、宮崎駿の一連のアニメが、彼の母親へのマザコンが大きく影響していたわけで、長い伝統があると思われる。
そのように、女性を「信頼」できるというのは、子供の頃の、長期的な、育児という「贈与」への評価に関係しているように思わなくもない。
なぜ、そこまで女性を賛美できるのかは、自分に対して、例えば、専業主婦であれば、ずっと、自分の子育てに、10年近くの歳月の
全て
を注ぎ込んで育ててくれた、その「愛情」の「贈与」の「大きさ」への、債務感情が大きく影響しているように思われる。
(興味深いことは、新自由主義とか、現実主義とか、自己責任とか、普段は、リアルであることのサバイバルネスを強調しているような、成功者=エリートに限って、そういった、自分が母親から受けてきた「贈与」を、当たり前のように、無意識で受け入れていて、そのことを「矛盾」として、考えていないことであろう。)
しかし、言うまでもなく、女性であれば、だれもが、そういった「贈与」を与えてくれる、と考えるとしたら、どうかしている。
特に、近年は共働きの家庭も増えているわけであるし、永山則夫のように、ほとんど、両親から愛情を注がれた経験を持たない子供が、どうやって、女性を理想の存在として、イメージできるのか、と考えてみれば、あまり、女性を過剰に礼賛する、日本のアニメ文化には、どこか、日本の幼稚なナルシシズムを感じなくはないし、むしろ、こういった傾向が、さまざまな社会的な歪みを生んでいるんじゃないのか、とも言ってみたくなる。
いずれにしろ、一つ考えられることは、結婚していない男女の間に産まれる子供の「権利」を、もっと認めていこうという動きであろう。つまり、結婚とか家とか、そういった日本の昔からある慣習がどうあろうと、そういった形態をとらないで産まれてくる子供を
同等
の権利のある存在として、法律上は、認めていこう、というわけである。そうすることで、社会の側が、イレギュラーな家族形態で育った子供たちを、差別せずに扱うことで、彼らの精神的なストレスを軽減していくことが、可能になっていくのかもしれない...。