大島堅一『原発のコスト』

最近でも、原発再稼働は、不可避という発言を、ときどき、見かける(とはいっても、大飯原発は、断層問題が、かまびすしく議論されている中でさえ、すでに、動いているわけだが)。その理屈は、意味不明の屁理屈にしか聞こえないが、いずれにしろ、

  • 原発を動かすということが、なにを意味しているのか

について、どれだけ考えているのか、については、どうも心もとない。その「意味」を問う前に、「やらざるをえない」が先に来ているようで、なにか「あせって」動かそうとしている印象を受けなくもない。
原発再稼働をやるにせよ、やらないにせよ、「あせって」動かそうとする姿は、そもそも、原子力発電所というものが、なんだったのか、という問いから逃げてる印象になっているように、見えるわけである。
原発問題とは、その徹底した、アカウンタビリティにしか、ありえないように思われる。どんな疑問や質問からも、逃げることは許されない。逃げるということは、隠したいことがある、ということを意味する。そして、なにかを隠すことが正当化された時点で、福島は繰り返される。
だとするなら、許される唯一の態度は、一切の疑問や質問から逃げずに、アカウンタビリティを続けることにしか、ありえないように思われる。答えたくない、と思った時点で負けなのだ。
今、福島第一原発の、一号基から四号基までは、一体、どのような状態になっているのか。今でも、当然、非常に高濃度の放射能が現地では、続いているという。
無人のロボットが、期待の星なのかと思っていたが、そういうものも、高線量にふれれば壊れるという。まあ、当たり前なのだろうが、ようするに、それだけ、原発は危険だということなわけで、危険ではあるが、

  • 次世代のエネルギー

として、広島長崎に落とされた核爆弾と同じように、20世紀の物理学の最新知識から生み出された、新しいエネルギーの発電方法であって、国が国家百年の計として、国策として、国の責任において、推進してきた、テクノロジーだった、ということなのだろう。
しかし、問題はここで「国」と呼ばれているものが、なんなのか、であって、私たち国民が、じゃあ、原発を、本当の意味で、一度として、選んだことがあるのか、と問われれば、かなりあやしい。国家と呼ばれる所のどこかで、国民となんの関係のないところで、日本国家は原発を推進していくことを決定していた。
ところが、こうして福島第一の事故が起きて、福島県内は、他県とは比べものにならない高線量の「マテリアル」が、現実の問題として、福島県「中」に、存在させられてしまった。除染という言葉が、さかんに語られるが、森の中から、福島県
あらゆる場所
で、「高線量」の物質が、稠密に分布してしまっているわけで、人間がそう簡単に「きれいにする」とか、できる分量じゃない、ということなんでしょうね。
原発が危険であることは、だれもが知っていた。しかし、国家は次世代のエネルギーとして、推進しようとした。そこで、
原子力賠償法
が作られた。ここが重要なポイントである。つまり、原発
例外
とされたわけである。他の民間が行うビジネスとは「違った」ルールによって、管理しようとされてきて、推進されてきた。

原賠法の第二の原則は、賠償責任の集中である。つまり、損害賠償責任を原子力事業者に集中させるというものである。原子力事業者は、例えば訴訟を起こすなどして、プラントメーカーなど他の主体に責任を求めることはできない。原賠法においては、プラントメーカーなどは製造物責任法の適用除外とされ、故意の場合を除いて原子力事業者から求償されることもない。事故があったときには、あくまで、原子力事業者だけが賠償責任を負う。
これがあるのもまた被害者保護のためである。この原則に基づけば、損害賠償の責任主体がはっきりするので損害賠償交渉が進めやすい。原子力事業には関係主体が複雑にからみあっているから、全ての主体を関係させれば、損害賠償が簡単には進まなくなってしまう。
しかし、関係主体に全く賠償責任を負わせないのは、奇妙な原則ではないだろうか。原子力事業者は多種多様ん企業と取引関係にある。特に原子炉の建設にあたっては、数多くの企業が参画する。最も代表的な企業はプラントメーカーである。日本では、三菱重工日立製作所東芝IHIなどが代表的企業である。ところが、それらのメーカーが作った機器に欠陥があったとしても、メーカーには製造物責任が及ばない。あくまで、原子力事業者が責任を負う。原子力産業はパーフェクトな製品を、パーフェクトな管理のもとで提供しているかのような原則である。
どうしてこのような原則があるのか。それは、原賠法第一条にあった目的の一つ、つまり「原子力事業の健全な発達」にある。原子力事故が起こった場合、巨大な被害が発生するのは目に見えている。この損害賠償にプラントメーカーやゼネコンなどの関連主体が関わるとすれば、そのようなリスクをともなう事業に企業が参入しなくなってしまうかもしれない。そうなっては、事業の「健全な発達」はありえないであろう。それゆえ、原子力損害賠償の責任を原子力事業者に集中させているのである。
加えて、この原則の歴史的背景には、日本の原子力産業が海外技術の輸入によって始まったという事情もある。原賠法を策定する際、原子炉等を輸出するアメリカ側が、メーカーの責任を免除するよう強くもとめていた。いわば、原子力の草創期の時代状況を強く反映した考え方である。

どう思われるだろうか?
私には、こういった制度が、近代法において存在しうるということ自体が、

  • トンデモ

にしか思われないのだが、みなさんは、どう思われるだろうか(科学論の専門家の人に尋ねてみたくなりますね)。
原子力関係の施設を建設する、ゼネコンやメーカーは、

を作って売っても、一切の責任を問われない。姉歯の建築の設計詐欺というのが、世間を騒がせ、姉歯は社会的制裁を受けたが、あの場合は、それでも、姉歯の行為が法律違反であることが、一定のモラルハザードの抑制として、その後働いたが、驚くべきことに、原発施設は、その「歯止め」が、

  • ない

のである。ゼネコンやメーカーは、(経済学者が言うように)いくらでも、お金を惜しんで、ガラクタを作って、口先で、国や東電をだまくらかして、ボンコツを買わせても、なんの、製造物責任を問われない。

  • 恐しいと思わないのだろうか?

こんな、殺人兵器を、国民につかませても、絶対に、作った人は、責任を問われない。だれも、彼らを責めてはならない、と、

  • 法律で決められている

というのだ! 私には、これは、驚くべき事態にしか、思われない。これが、

  • 法の支配

である。言わば、法律「が」、ゼネコンやメーカーに、「手抜き」を

  • 奨励

しているのである! だれも見ていないところで、いくらでも、手を抜けば、その分の製造コストを省けて、いくらでも、販売価格との差分から、マージンを増やせる。そして、それによって事故が起きた場合の

  • 一切

の責任から、国家が匿まってくれる、と最初から保証されているのですから、まるで、国家が、品質の悪いものを作れ、と、奨励しているみたいじゃないでしょうか。「功利主義者」の経済学者だったら、当然「手抜き」を奨励しますよね! 
例えば、年金照合問題のとき、驚くべきことに、厚生省の役人が、年金をネコババしていたんじゃないのか、という話があった。ところが、そうやって、厚生省の役人を追及していった場合に、もしも、「ほとんど」の厚生省の役人が、そのネコババに関与していた場合、

  • 全員逮捕して懲戒免職

にしたら、どうなるでしょう? 当然、厚生省の「仕事」が回らなくなりますよね。つまり、「エリート」というのは、どこか、「名誉職」のようなところがあって、最初から「高いモラル」が前提にされているようなところがあって、それだから、「信頼」によって、「まかされている」という感じの部分がある。だから、こういった役職のところで、モラルハザードが起きると、なかなか社会の秩序を回復できない。
(古代から、中国は、役人腐敗社会で、近年も、そういったところは、変わってないですよね。)
私はむしろ、その

  • 底無し

モラルハザードが、すえ恐しい。ゼネコンやメーカーは、原発に、どんなブービートラップをかけているのか。経費削減のために、どこまでの「手抜き」をしているのか。そういった「リスク」が、あまりに底が見えない、まるで、サブプライムローンが、どこまでものダメダメの「ゴミ屑」との「チャンポン」だったように、まるでその、

  • 物差し

が、検討もつかないだけに、せめて、原発に民間の保健会社が保健をかけて、メーカーに「普通のロボットを国民に売った場合の製造物責任と同じ」責任を法律で要求して、メーカーが

  • それでも売ってもいい

と、それなりに社内に保険金を内部留保するお金を積んでもらうことで、それなりの一般的な商品並みの「常識的」存在になってもらってから、動かすにして動かしてほしいと思うんですけど、どうでしょうかね orz。

原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)

原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)