小杉泰『イスラーム銀行』

(長岡慎介との共著。)
アニメ「マギ」を見ていて、あの「千夜一夜物語」の世界、中東の世界が、大変に興味深く思われた。
特に、モルジアナという少女が代表している「奴隷」制度が、自民党憲法改正案における、基本的人権の後退が、近年、さかんに話されるようになり、それなりのリアリティをもって、理解できるようになってきているのではないか、という印象をもったからでもあるだろう。
例えば、人々はなぜ、古代ギリシア哲学に魅かれるのか、と考えたとき、そこには、現前とした「奴隷制」を生きていた人たちがいるからではないのか、という印象を受けるわけである。
彼らの回りには、当たり前のように、奴隷がいた。つまり、ああいった偉そうなことを言っている人たちは、幼少の頃から、奴隷のお世話になって生きていた。つまり、奴隷が身の回りのことをやってくれる、お坊ちゃんたちの
奴隷倫理学
なのである。ようするに、身も蓋もなく、奴隷を使うことによって、実現される「秩序」を彼らは生きていたのであって、そもそも、そこを離れて、なにかを考えられなかった、ということなのであろう。
しかし、その古代ギリシアも、時代と共に、衰退していき、神聖ローマ帝国に移っていく。つまり、あれほどの全盛を誇った古代ギリシア文明も、
滅びた
わけで、じゃあ、その前提とされた、奴隷制とは、なんだったのか、という疑問をもつわけである。
奴隷制は、つい最近まで、アメリカでは黒人奴隷を使っていたわけで、かなり、人類の骨身にしみついた、病気のようなものなのではないのか、とも言いたくなるわけである。
自民党改憲案にしても、基本的人権の条項を骨抜きにすることで、実質的な「奴隷」制を、憲法によって、保証していこう、という考えだといえるだろう。
そのように考えるなら、日本の歴史は、天皇とか将軍以外の、

  • 全員

は、なんらかの意味で、奴隷だった、とも言えなくもないだろう(一般にはそれを、身分と言うわけだが)。ただし、その場合に大事なことは、江戸時代の士農工商もそうだが、実質的な、被差別集団が、江戸時代においても、存在した、ということであろう。百姓は、そういった人たちを実質、奴隷的に使うことで、農業をしていたのかもしれない。詳しくは知らないが、いずれにしろ、明治の革命によって、そういった集団は、法的な根拠は失う。つまり、法的には、平等な扱いを勝ち取るようになるが、実質的な法的平等を獲得したのは、戦後憲法において、だと言えるであろう。そういう意味で、自民党改憲案は、戦前回帰を目指したもの、だと言わざるをえないだろう。
自民党は、おそらく、徴兵制をターゲットにしている。つまり、徴兵制を可能にする「人権」は、どこになるか、と考えている。つまり、自民党は、国民が傭兵的に国に「雇われる」自衛隊員ではなく、
赤紙
で、各地から集めるタイプの兵隊の「強制」を可能にする法的な根拠を憲法に書き込もうという野望がある、ということなのだろう。
アニメ「マギ」における、モルジアナという少女は、故郷のファナリスの出身で、子どもの頃に、奴隷として売られる。両足の足首のところを、鉄輪を付けられ、その鉄輪に、鉄の鎖が付けられ、各地を転々と売られる。
奴隷とはなにか? 奴隷の一つの特徴は、人間が「商品」として、売買されるところにある。つまり、その「商品」を買う側が、その買った人間の、労働を期待して買っている、というわけである。
なぜ、そうやって買われた人間が買った人間の意志に従って、行動するのか。それは、モルジアナの足首の鎖が象徴している。

  • 強制

である。暴力によって、その人間は、従わない態度を「矯正」される。従わなければ、苦痛や空腹などの人間の生理的な苦痛を与えることで、その人間の「不快」感情をコントロールしていく。
大事なことは、「国家」がそういった「暴力」を、国民が奴隷に与えることを、

  • 正当化

している、というところにある。
大事なことは、奴隷とは「経済行為」だった、というところにあるのではないのか、と思っている。奴隷とは「商品」であり、もっと言えば、

  • 資産

だったわけである。ここが、非常に重要に思われるわけである。例えば、新自由主義リバタリアニズムが、一切の、富の平等を否定したとき、どのような理屈によって、奴隷を否定できるのだろうか、といったようなことを考えるわけである。
一切の富がない人間が、自らが生きる「糧」を得ようとしたとき、

  • 自分を売る

という行為は、果して、どこまで否定できるのか? 最近でも、日本維新の会が、最低賃金制の廃止を訴えて、選挙戦に望もうとした。私には、これは恐しく思ったわけである。東南アジアのような小国で、そういった戦略が、日本における
特区
的なものとして、試されたのであれば、まだ分からなくはないが、それを日本全体で目指すというのは、一体何を考えていたのだろうか。恐らくは、自民党に「対抗」する彼らなりの、
奴隷制
を、こういう形で、自民党以上に先進的だと、その極右性を「競争」したのではないだろうか。
例えば、民主党政権で行われた、消費者金融の上限規制の強化は、新自由主義的経済学者によって批判されたが、こういった連中は、最低賃金制の廃止を同様に求めるのであろう。しかし、だとするなら、こういった連中は、

  • いくら

だったら、満足するのか? 私には、こういった連中が、究極的には、

を目指しているようにしか聞こえない。というのは、新自由主義とは、究極的には、奴隷売買を否定する根拠を、その中から、見つけ出せないロジックにしか聞こえないから、だ。一切の富の平等を否定するなら、
なにももたない
人間が生きるには、自分を売るしかない。しかし、生きるか死ぬかは、その

  • 一瞬

の行為であるはずだ。もしも、その一瞬に、必要な食糧が得られなければ、そこで、死ぬしかない。だとするなら、どんな

  • 不利

な条件も飲まなければならなくなるのではないのか? 私は、消費者金融規制や最低賃金制度をそう簡単に排除することを目指す、一部の極右勢力の政治意志に警戒するが、しかし、そもそもそこには、新自由主義が、すでに、最初から胚胎している、

  • 奴隷を使う自由

を人間の「本質」として、肯定しようとする動きと同期をとるものとして、感じられるわけである。
一般に知られているように、イスラム社会には、奴隷制が存在した。それは、イスラム教の創始者が、自ら奴隷を使っていたからであるが、その奴隷に対する扱いは、イスラムの戒律によって、一定の福祉を保障するものであったり、優しく奴隷と接することが戒律によって命令されていたり、奴隷を解放することが善行として奨励されていたり、解放された奴隷が一般の身分の存在になることが可能であったりと、アメリカにおける黒人奴隷のように、完全に「消費」物として消費されるものとは、違った、あくまで「身分」的なものであったことからも、相当に違っていた印象を受ける。
だから、アニメ「マギ」においても、ルイジアナは、奴隷から解放されたわけだが、そのように考えると、イスラム社会は、先進的に、そういった階層的身分を吸収していくような、社会システムを、早くから持っていた、とも言えるのかもしれない。
だれもが知っているように、キリスト教ユダヤ教は、そもそも、最初は、利子を禁止していた。それが、いつから、許されるようになったのであろうか? その場合、おそらく、利子がなければ、社会が大きくなれないという、なんらかの直観のようなものがあって、いつの頃からか、なし崩し的に認められるようになったのであろう。しかし、それで、キリスト教ユダヤ教は、どうして自らの教えの「堕落」を、言い訳しているのであろうか。
というのは、イスラム教は、ずっと、利子を禁止しているから、なのだ。こっちは、ずっと、その教えを「守って」生きてきた。それが、
イスラーム金融
である。もちろん、現代社会が利子なしで回るわけがないではないか、という意見にも、一理あるのだろうが、近年のサブプライムローンにおける、

  • 大きすぎて潰せない

という、あらゆる分野で起きている現象が、そもそも、なぜそれほどの、大き「すぎる」なにかしらが、存在できたのかが、

  • 利子

という制度を無批判に使った結果にすぎないのではないのか、と言いたくなるわけである。

商売が許されるということは、利益追及が許されることを意味する。キャラバン貿易に出資し、多額の利益を得てもまったく問題はない。ところが、貿易を営む人に資金を貸し、利子を取ることは許されない。二つのあいだの差は何であろうか。おおまかにいって、公平性、所有権、不労所得、等価交換という四つのことが問題となる。
まず公平性であるが、キャラバン貿易では、失敗したときのリスクを資金の提供者も実際に貿易に従事する者も負う。そして、利益があがれば、それを両者のあいだで配分する。リスク負担と利益の享受において、公平である。この公平性が、イスラームが重視する公正を実現するとされる。それに対して、貸与によって利子を得る場合、通常は元利保証される。事業が失敗した場合は、事業者が負債を負い、出資者はリスクを完全に回避することになる。これは不公平であり、したがって不公正であるという。
つぎに、所有権の問題である。イスラームでは、世界を創造した神が元来すべてを所有している。人間がそれを自分の所有物にできるのは、それを使うためである。イスラームでは私的財産権を重視するが、所有権の基礎は「財を用いる」ことである。その考え方からいえば、自分の資産を投資することは財を用いることであり、許された商売をすることになるが、自分では使わずに他人に貸与して利子の収入を得ることは、財を所有する根拠に反するものとみなされる。同じようにイスラーム経済では、退蔵、買占めなども「使わずに儲けを得る」不当な方法とみなされ、それが社会生活に害をなすこととあわせて、二重に禁止されている。
第三の点は所有権の問題と連動しているが、不労所得は許されないという問題である。資本を投資する場合は自分で働いたことになるので、資本が成長する(利益分が元本に加わってふえる)ことは妥当である。しかし、利子を取る場合は、自分の働きなしに資本に増加分を足す(これは元本の増殖とはみなされない)ことになり、不労所得となる。
第四は、等価交換の原則である。商品と代価、労働と賃金など、すべての経済行為は正当な等価交換でなければならない。商品や労働の場合、その価値をどうはかるかは当人の判断もあるが、納得し合意されているかぎり等価交換ということになる。しかし、金銭の場合は、個人の判断がはいる余地はない。一ディナールは一ディナールである。したがって利子を付けるならば、それは不等価交換となる。

利子がなぜ、問題なのか? そこには、上記を見てもらっても分かるように、非常に「倫理的」な問題意識があることが分かるのではないだろうか。確かに、利子行為を認めることで、金融は大きなダイナミズムを獲得できる。しかし、その早さ、規模の大きさは、逆に言えば、

システムの「暴走」と言えないこともない。大きなお金を動かすことで、なんらかの現代社会を成立させている、ITシステムの開発を行うことが可能になってるとしたところで、もしもその開発が失敗したとき、多くの

  • 泣き寝入りを強いられる「弱者」

を不可避とするような構造なら、そういったシステムは、「持続可能性がある」と言えるでしょうか?
事実、近年のサブプライムローンから、欧州危機から、さまざまな場面で、この、グローバル「利子」金融システムの、瑕疵がはっきりしてきているにもかかわらず、まともな、対策もできていない、というのが実態ではないでしょうか。

信仰行為の第一の義務は、唯一神預言者ムハンマドを認める「信仰告白」であるから、それを信ずることが「よい商売」であると説かれている点は別として、それ自体には経済性はない。しかし、第二の義務である礼拝は、モスクの建設と深くかかわっている。
モスクの建設はよき信徒の善行とされ、歴史のなかでは王権者も富裕な商人もモスクに資金を提供した。現代では、小口の寄付を広く集めてモスクを建設することも盛んである。建設後にモスクを維持するために、よくワクフ財産が設定された。ワクフ財産は「寄進財産」と訳されることが多いが、「所有権停止」を意味し、いったん寄進するとその後はその財産は売買や寄贈ができなくなる。だれのものでもない財産からの収益が、末永くモスクのために使われるという仕組みである。公共財をつくるシステムといえ、ワクフ財産の制度はモスクだけではなく、しばしばモスクの周りに建設される市場を建設・維持するためにも用いられた。金曜礼拝はモスクに行くだけではなく、その前後に市場の活動が活発となる機会である。ちなみに、イスラーム都市では、街路に水瓶が設置され、通行者の喉の渇きを癒す(現代では水道の蛇口が設けられている)。これも、寄進財産による公共財であることが多い。
第三の義務は、経済行為そのものである「喜捨」(ザカート)である。所有する財産の一部(貨幣に換算して二・五%)を貧しい人びとのために差し出す。かつてはイスラーム国家がこれを徴収したため、税と同様の意義をもっていた。「喜捨」には自ら進んで差し出す含意があるが、ザカートの場合は義務である。人間が財産を所有するさいには、その一部に「乞う者と困窮者の権利」[撒き散らす風章一九]が埋め込まれており、これは「神の取り分」とされる。それを支払わないと、財産の所有自体が合法にならないと考えられる。
イスラーム銀行では、その資産からこのザカート分を必ず支払う仕組みになっている。これ、無利子と並んで、イスラム銀行に正当性を与える条件となっている。ザカートの使い道はイスラーム法で細かく決められているため、慈善活動を公募する場合にしても、金融商品を監督しているのと同じ法学者たちがザカートの使い方が合法であるかどうか、判別する。
第四の信仰行為であるラマダーン月の断食は、日中に飲食・性行為を断つという身体的な行である。しかし、断食の目的の一つは、空腹をつうじて貧者の苦しみに対する共感を養うこととされ、社会福祉と相互扶助を推奨する仕組みになっている。日没になると飲食が許されるが、そのさいに貧しい人びとにも食べ物を供することが勧められている。ラマダーン月の終りにはあ、この月だけの特別の喜捨が課せられている。
第五の義務は、マッカ巡礼である。巡礼そのものは純粋な信仰行為にみえるが、巡礼の往復は長旅であり、前近代では商いをしながら旅するのが通例であった。全世界から信徒たちが集まる巡礼は、国際的な交易の機会でもあった。巡礼の終りには、イスラーム世界全体で犠牲祭を祝うが、これによって家畜の売買がさかんにおこなわれる。犠牲としてほふった動物は、貧しい人びとに喜捨され、彼らの貴重な蛋白源となる。

以前、「デューン 砂の惑星」というSFの原作を読んでいたとき、大変な長編なのですが、最後の方で、はるか未来の小説なのに、イスラム教典がでてくるんですね。そのときは、なんとなく、違和感を持ったんですけど、今、こうやって考えたときに、イスラム教が、あのSFにおいて、あれほどの未来においてさえ、残りうると考えられた理由がなんとなく、分かりますね。
というのは、ようするに、イスラム教徒だけなんじゃないでしょうか。厳しい戒律を守って、今だに、信仰活動を続けているのは。
キリスト教ユダヤ教も、実に、簡単に、利子を認めてしまいました。つまり、堕落してしまいました。今のアメリカにしても、キリスト教徒が、どこまで、真剣に信仰を貫いていらっしゃるのか、疑問ではないでしょうか。
同じことは、日本にも言えるように思われます。一体、日本で生きている人で、どれくらいの人が、毎年、一定額の

  • 貧しい人に向けての寄付

をしているでしょうか。それは、信仰とはなんの関係もないことです。だれにとっても、やる必要のあることであるから、やることであるはずなのに、だれもやらないのなら、そんな堕落した国民しかいない国には、存在しなければならない理由もない、ということでしょう。
私は上記で指摘されている、

というのは、この21世紀の後半には、非常に大きな意味をもっているように思われます。70年代に登場して、イスラム教徒が

  • 唯一「使える」

銀行として、普及した「イスラーム金融」システムが、なぜ、近年、注目されているのか。それは、むしろ、近年拡大してきた、

  • ITシステム

が、この「語義矛盾」とも思われる「イスラーム金融」(=利子の存在しない金融)を、

  • 可能にする

可能性が見えてきた、というところにあるんじゃないか、と思われます。
グラミン銀行のユヌスに代表される、マイクロ・ファイナンスが注目さていますが、これは非常にイスラーム金融と、切っても切れない関係にあると言えるでしょう(事実、そういったアイデアの中から、出てきたシステムと考えられる)。
(といっても、日本の経済学者で「イスラーム金融」の知識のある人っているのかな orz...。)

イスラーム銀行―金融と国際経済 (イスラームを知る)

イスラーム銀行―金融と国際経済 (イスラームを知る)