日本の憲法は改正が可能なのだろうか?

そもそも、日本の憲法は改正が可能なのだろうか?
第96条において、確かに、改正手続きの条項がある。ところが、第99条では、(公的な立場の人たちに、ではあるが)憲法尊重義務が課せられている。ということは、改正をやっていいのか、という話にならないだろうか?
もちろん、そういうと改正を行うために、改正手続きの条項があるのだから、改正が可能に決まっている、という返答が返ってくるのだろう。しかし、言いたいのは、そういうことではない。
ここで憲法改正できるのかと問うているときに考えているのは、憲法の最も基本的な理念の

  • 破棄

が、どこまで可能なのか、について言っているわけです。そして、そもそも、そういう基本的な理念の破棄をさせないために、「改正手続き」をかなりのレベルまで、難しくしているわけであろう。つまり、

  • どこまで改正「させない」のかのレベル

が、今の第96条「そのもの」のはずなのに、「そこ」をまずもって変えちゃう(=変えられちゃう)って、なんなのか? と言っているわけです。
もし、今の憲法が、「あらゆる」条文を破棄し、全然、別のものにできるとするなら、じゃあ、第99条の憲法尊重義務って、なんなのかな、となるでしょう。
確かに、憲法改正そのものに反対している日本人はいないであろう。問題は、今の憲法

  • 理念の破棄(=別物化)

を意味するような、根本的な条文の変更という憲法改正までを国民は求めているわけではない、ということで、考えているのは、

  • 時代の変化に対応しての新しい理念の補完的な意味での条文の追加
  • どうしても現代の社会システムに合わなくなった部分(例えば、IT技術などによる)と整合をとるための条文の修正

のようなことではないだろうか。
大事なことは、「なぜ改正しなければならないのか」であろう。一体、なぜ変えなければならないのか。
実際に考えて、変えなければならない、どんな問題が起きているのか。どんな時代状況の変化があるのか。変えなくてもできるのであるなら、それでいいであろう。
もちろん、そもそもにおいて今の憲法「そのもの」が気に入らない人たちが、いろいろな所を

  • いじりたい

と思うことは、普通であろう。しかし、私が言いたいのは、そういった「理念」そのものを変えるような、憲法の改正を、今の憲法は、そう簡単に認めないことを
法文自体
が、かなり強く主張しているんじゃないのか、というところであり、実際、国民自体にしても、そこまでの理念の破棄を意味するような、大改革を求めてまではいない、というところにあるのではないだろうか?
例えば、今回の自民党改憲案は、どうだろうか? これは、今までの戦後憲法の理念の「継承」と言えるだろうか? 非常に懸念されていることは、人権概念の「後退」であろう。明らかに、今回の自民党改憲案は、基本的人権の後退を目指すものであり、その後に待ちかまえている、
徴兵制
の実現を、それによって行うことを意図していると言えるであろう。そう考えたとき、この自民党改憲案が、戦後憲法の理念を保持し、継承することを意図して作られているのか、非常に疑問と言えるのであろう。
ということは、どういうことか?
つまり、自民党改憲案は、憲法第99条に違反した、

なのではないか? つまり、こういった改正が、たとえ、行われたとしても、その憲法違憲なのではないか?
しかし、である。
それほどの、違憲の疑いさえかかる、改正であったとしても、第96条の改正手続きの「改正」さえ、究極的に骨抜きにしてしまえば、あらゆる憲法の改正は行えてしまう。これこそ、

  • クーデター

と呼ばずして、なんと言うのだろう? そう考えたとき、第96条の改正は、そう簡単な話じゃない「無理筋」だと、私は考えたくなる。
最後に、正月に、東さんがつぶやいて、少し話題になっている以下を、検討しておこう。

自衛隊が必要なのは自明であり、そして自明なものを違憲化している憲法がバカげているのも自明である。これは戦前の歴史がどーとか日米同盟がどーとかいっさい関係ない。
hazuma 2013/01/01 14:49

(もし今の自衛隊違憲であるとするなら、合憲の範囲に自衛隊を変えればいい、とも言えるであろう。そう考えて、今の自衛隊は、侵略的兵器の保持を行わない、というような、自衛的な装備になっているわけであろう。それでも不十分だとするなら、さらなる「警察」的な装備に変形しなければならない、という主張になるのかもしれない。それは、自民党側についても言える。もし、なんらかの徴兵制を目指したいのであれば、少なくとも良心的徴兵制拒否を可能にすることを同時に条文化して、主張すれば、それなりに、穏健なものになるであろう。しかし、そのように考えるなら、本当に、9条の変更が不可避かには、議論があるのではないのか? しかし、もし、それで不満なら、話は別である。そもそも、警察が持っている拳銃以上の武器を持つ限り、9条違反だと考える。もっと重武装をしたい。もっと、国民の基本的人権を制限したい。強制的に徴兵をしたい。だって、そういったことを国際法は許しているはずなのだから。それなら、現憲法は破棄となるだろう。クーデターで、新憲法を国民に飲ませて、新しい国家を作る。そういうことになるであろう orz。)
ここで彼が言っているのは、

  • 今の憲法は「間違っている」

ということなのだ。では、彼は、

  • 何に対して

間違っていると言っているのだろう? どうも彼には、ある価値観を持っているようで、それは、だれにとっても等しく、通用する価値観だと思っているようで、それと比較して、今の憲法は、間違ったものであり、その間違った憲法で、戦後、日本の政治が行われてきたことは、

  • 間違っていた

と言っているわけである。
一般に「自明」という言葉は、どういった場合に使われているであろうか。数学の場合において、自明とは、

  • その文脈(今の自分の発言を聞くことになる人たち)において

その「証明」を書くことは、今までの議論から、容易であることが、一見して分かる場合、と言えるであろう。例えば、ある教科書に、その練習問題の解答が、自明と書いてあるなら、それまでの文脈を振り返れば、その証明が書けることは、ちゃんと読んできた人なら、ほぼ当然だろう(それが、分かっているということの意味なのだから)場合となる。
つまり、もし彼がそれを自明だと言うのなら、それを「説明」すればいいのだ。そうして説得すればいい。
しかし、もし今の憲法が間違っていた、信じてはいけないものだったと、この人が主張するとするなら、そのことは、何を意味しているのだろう?
つまり、彼が主張しているゲンロン改憲案なるものは、この間違った戦後憲法を、捨て、彼が考える

に取り変えることを目指す「クーデター」改憲であるという、自覚が彼自身にないんじゃないだろうか? それは、反政府的であれ、親政府的であれ、関係ない。
まったく新しい国を、自分が作る、と言えばいい。あとは、誰が彼の主張に賛同するかの問題でしかない。
どれだけの人が、今の日本を破棄して、新しい、彼の目指す国家建設に、力を貸したいと思うか。
どれだけ、そういう人を集められ、その人たちによるクーデターを成功させるのか。暴力的であれ、非暴力的であれ、それが、彼の考える「善」であり「正義」だと思うなら、どうぞ、それを目指して、がんばられたらいいのではないでしょうかw
つまりは、それだけのことでしかないのだろう...。