みなみけコスモロジーと「おかわり」問題

漫画「みなみけ」は、高2のハルカ、中2のカナ、小5のチアキの三姉妹を中心に描かれるギャグマンガだと思うのだが、まずもって、その作品世界には、幾つかの謎がある。
まず、三姉妹の両親が登場することはない。20代のイトコのタケルが、時々、現れるくらいで(遠出するときの足にクルマをだしたり)、炊事、洗濯、掃除は、ハルカが全て、やっているように見える(チアキが父親を知らないことだけは、はっきりしている)。
とりあえず、あまり家計に余裕がないことは見られる。
というか、彼らは、一体、どこに住んでいるのだろうか? アパート? マンション? 一軒家? 原作は、ほぼ、背景が描かれることがないので、この3人の間取りも、よく分からない。よく、お茶の間で、みんなが集まっているようで、そこで、チアキが勉強している、というくらいしか分からない。
あと、作品内では、トウマというチアキの女友達の、もう一つの南家が登場するのだが、そこも、両親が登場しない。高1のナツキが、炊事から家事全般をやっているように見える。
この両家において、どうやって収入を得ているのか。いずれにしろ、そういった部分が描かれることはない。
まず、そもそも、こういった未成年だけで、小学校の子どもまでいて、アパートなり、一軒家なりで、生活することは、生活補導的に可能なのだろうか? もし、彼らに、なんらかの月々の収入があるとしたら、親戚などからの仕送り的なもの、国からの生活保護、そんな感じになるのだろうか(アルバイトで、生計を立てているという話は、一切ない)。
以前、このブログでも書いたが、サブカル的子ども向けアニメにおいて、多くの作品では、両親が描かれない。なぜなら、親が描かれた時点で、その子どもの
個性
が「消失」するからである。なぜなら、子どもの個性は、親の仕事の「景気」に著しく左右されるから、である。セレブな趣味をもって、金のかかる私立に行こうとしているような家庭は、ようするに、親の仕事が
順調
だということを意味しているにすぎない。ひとたび、親の仕事の調子が狂い、夜逃げ同然で、各地を転々とするようになれば、子どもは、さっさと、金のかかる私立をあきらめ、勉学も早々に、親から自立しようとするだろう。
子どもの「個性」なるものとは、その程度の

  • 脆弱

な基盤の上にあるものにすぎない。性格だとか、「キャラ」だとか、しょせん、こういった社会的諸関係が導出する変数に過ぎないわけで、幼稚な、カテゴリーだということになるだろう。
しかし、それでは、子ども向けアニメは成立しない。
そこで、極力、親の「影」を背景に退ける、わけである。
言わば、この漫画も、そういった系統の物語の変種だと言えるであろう。
この三姉妹の関係を簡単に言うと、親代わりの長女、トラブルメーカーの次女、長女を慕い、次女に手をやく、しっかりものの三女、といった、よくある感じの

  • 三兄弟モデル

であって、まあ、これで、おもしろくないはずがないと言いたくなるところですが、その辺りが、なんとも、たんたんと平凡な毎日が続いていくだけ、というのが趣があって、いいんでしょう。
対して、アニメの方の「みなみけ」を、第一期から見ていくと、明らかに、第二期「みなみけ~おかわり~」だけが、他と違っている印象を受ける。
確かに、漫画にはない、オリジナルストーリーが、多いというのもあるが、その差異は、たんに、そのことだけから、派生しているようではない、感じがする。
そのことは、テレビ放映中から、視聴者の間で、話題になったようで、その経緯については、以下のサイトが詳しい。

screenshot

ようするに、第二期は「みなみけ」とは認めない。第二期で、漫画から使ったストーリーは、今期放映される、第四期で、再度、撮り直してほしい、ということらしい。
それにしても、この反応は、テレビ放映中、まだ、全話の放映が完了する前からだった、というのだから、ずいぶんと剣呑な話であろう。2ちゃんのスレが、記録的に伸び、祭り状態だったというのだから、穏やかではない。
では、なんで、そんなに視聴者が怒っているのかというと、ようするに、「イメージ」を壊された、というわけである。
原作があるものに、オリジナルストーリーを追加して作られる場合、常にこういった問題が、つきまとってきている印象を受けなくもない。別に、原作として使っているだけなのだから、どんな改変をされても、それが二次創作なんじゃないか、と言いたくならなくもないが、それをなんの事前情報もなしに見せられる方としては、下手に原作があるだけに

  • 期待

を通して見てしまうだけに、その期待が裏切られたように感じたときの、反発は大きいのだろう(毎週一話ずつの放送だけに、急に、裏切り展開が目の前で始まったときのショックが大きいのかもしれない)。これは、例えば、ヒロインを殺して、ヒーローが成長する、みたいな、コードギアス戦う司書のような、ふざけた話もあったが、こういったものとも似ている印象を受ける。
ようするに、しょせん、物語でしかないわけで、いくらでも、欝展開にやろうと思えばできる、ようするに、視聴者の原作ファンの側は、そういった原作のイメージ破壊を警戒しての、反応ということになるのであろう。
しかし、ある意味で、第二期の「作品構成」は、分かりやすい印象を受けなくもない。
おそらく、最初に決まったのが、最終話でクライマックスとなる、ハルカの交換留学の可能性だったはずで、これを、「フラグ」として、逆算すると、

  • ハルカが交換留学になんの気がねもなく行けるためには、二人の妹が、自分たちで、炊事、洗濯も、できるところをハルカに見せて、安心させてやらないといけない、と二人が考えるだろう、という予想が最初に来る。
  • そう考えると、このハルカを安心させよう、という行為が、より大きな「ギャップ」によって、おもしろくさせようとするなら、必然的に、二人の妹が、今まで「その逆だった」、つまり、ダメダメだったということが、伏線として描かれている必要がでてくる。
  • つまり、カナは原作以上に、「過激」な冒険を行い、チアキはそれを止めることができず、「過激」に「失敗」をして、二人が、ハルカに怒られ続けている、「いらだたせ続けている」必要がある。
  • この「コントラスト」をより、はっきりさせる目的で、三人の隣に、引っ越して来る、オリジナルキャラの冬木が、「必要」とされる。冬木は、チアキと同級生の男の子であるが、父親との二人暮しで、父親は遅くに帰ってくる。周りの大人からは、わがままを言わない、なんでも手伝ってくれる、しっかり者に見え、ハルカも周りの大人から、その評判を聞かされ、それと二人の妹を「比較」することによって、より妹たちの「幼さ」を意識する形になっている(しかし、チアキは冬木が「いい人」なのは、たんに、断れない自分の意志を他人に言えない性格の問題であるという、本質を見抜いているわけだが)。

確かに、第二期は、原作の「良さ」をぶちこわしてしまった印象を持たなくもない。しかし、そもそもなぜ、第二期がそのようなプロットになったのかは、最初の、ハルカの交換留学の問題があったはずである。ハルカが交換留学をなぜ、悩むことになるかといえば、言うまでもなく、それが「いい機会」であると考えられたからだ。つまり、家にお金のないハルカが、将来の道を開くのには、交換留学という、ハルカが優秀であるがゆえに回ってきた、願ってもない「チャンス」であると(つまり、そう思ったから、二人の妹は、なんとか、自分たちをここまで育ててくれた、姉の夢を叶えてやりたい、と努力するわけであろう)。
つまり、原作そのものが、最初から持っている「曖昧さ」、ぼかしてオブラートに包んでいる(包むことによって、あまり深刻な印象にならない)原作の「ぬるさ」が、こういった形で、顕在化してしまった、というのが、比較的穏当な分析のような気がする。
「3」という数字は、不思議な魔力がある。というのは、弁証法でもそうだが、そもそも、「2」でいいはずなのだ。肯定文があって、否定文がある。二項対立さえあれば、この世界は記述可能であろう。
それは、3人兄弟についても言える。
もし、この漫画が、ハルカとチアキだけであったら、おそらく、ほとんどのストーリーは成立していない。ハルカとチアキは、基本、おとなしく、他人をひっぱって行く性格じゃない。チアキはハルカねえさまを、心から、お慕い申していて、どう考えても、二人が、ガチでケンカをしている様子は想像できない(それだけ、二人の年齢も離れているが)。
しかし、ここに、次女のカナが、入ると、まったく違ってくる。
言わば、カナは「余計」である。不要なのだ。しかし、その不要さ、余剰さは、それが、過剰であり、

  • 運動

として、結果する。カナは、この三姉妹の関係において、必要ない。しかし、その必要ないものが、そこにあることで、そのエネルギーは、ただただ、向かう方向もなく、あちこちを、彷徨う(ランダムウォークだ)。
第二期は、ハルカの交換留学というフラグゆえに、上記の「構造」がより「過激」化していく方向に、作品のコスモロジーが純粋化してしまっている。
カナはより、冒険心に富み、ドジっ子属性が増し、よりミスを犯しやすい「あぶなっかしい」な存在となり、より「幼児」化を強くする。
しかし、他方において、カナは、そういった「負の属性」において「過激」化しただけでなく、反対の「正の属性」においても「過激」化が進んでいる印象を強く受ける。例えば、第二期のカナは、家に遊びに来た、姉や妹の友達を、どんどん友達となる。どんどん彼らを覚え、彼らと懇意になり、むしろ、

  • 自分の友達

になったも同然の「扱い」を彼らと日々営むようになる。「たまたま」二人の姉と妹が「一度」連れて来た友達を、カナは、すぐに知り合いになり、なにかの

  • イベント

をカナが企画するたびに、そういった彼らを、姉や妹を介すことなく、自分独自で彼らに電話をかけ、家に

  • 集合

させる。本質的に、引っ込み思案な姉と妹が、よくは誘えない友達も、

  • 一度家に来て自分と親しくなったというだけで

カナは、どんどん親しくなり、まるで彼女の「子分」のように、いつも、彼女の回りには、彼女の友達だけでなく、姉や妹の友達が、吸い寄せられるように、集まり、家を賑やかにしている。
とんねるずの石橋が人気があるのが、こんな雰囲気があるから、なんですかね)。
おそらく、製作者側にしても視聴者側にしても、この「みなみけ」というアニメには、多くの人が、大きな可能性を感じているのではないだろうか。それは、言ってしまえば、

  • カナ

の可能性だ、とも言えるだろう。おそらく、カナをもっと「クリエイティブ」に動かせば、もっともっと、おもしろい展開が、生まれる可能性を感じさせる(それは、私たちが経済の分野において、

と呼んでいるものと似ているようにも、私には思われる)。
カナが動く。すると、そこに「物語」が生まれる...。