若者の仕事

日曜は、映画館で「レ・ミゼラブル」を見た。ぱらぱらと、ご高齢者がいたが、ほとんどが、若者であった。こういった古典で、ほぼ全席が埋まっていたことは、意外なのかもしれない。
全編がオペラ風の歌声によって構成されている。映画の内容は、よく知られたストーリーであるが、そのキリスト教道徳的な作品世界は、今の人には、なかなか分かりにくい印象を受けた。
そもそも、ジャン・バルジャンは、最初はバンの盗みをしたにすぎない。その後、逃亡をくわだてたとか、いろいろあるようだが、実質の罪に対応する行為は、それだけ。それで、脱獄してからも、ずっと、警官に追いかけられるとか、よく分からない。
しかし、ようするに、これをキリスト教道徳的な物語と考えると、比較的、理解しやすいのかもしれない。ジャン・バルジャンをずっと追っていた警官は、年老いて最後に、ジャン・バルジャン自体に自らの命を助けられることで、自分が今までやってきたことに、疑問をもち、自殺をする。
つまり、ジャン・バルジャンの人生を神が、最終的に肯定する「ため」の、さまざまな周辺からプロットを積み上げていって、補強していく、という形になっている。
作品内において、何度か、ジャン・バルジャンがピンチになったとき、彼を助けたのは「教会」であった。ジャン・バルジャンが罪人であることを知ってなおかつ、教会は彼を助ける。その姿には、キリスト教における教会が、いわゆる、日本における「無縁寺」のような、駆込み寺のような、人々を
サルベージ
するアジール空間のような場所の、役割を演じていることを、示しているのは、興味深く思われた。
映画の世界は、フランス革命後の、再度、王政に戻った頃のフランスであり、つまり、フランス革命によって勝ち取られた市民の権利が、後退した世界へのイデオロギー的批判を背景にして物語が始まっている、と言えるであろう。
その、乱れた国政の犠牲者のように、ファンテーヌという美しい女性が、歴史の後退によって、無残でみじめな晩年を迎え死ぬ姿が描かれ、他方において、マリウスを中心とした若い学生たちが、バリケードを築き、6月暴動を実行し、マリウスを除くすべての若い命が、官憲のピストルの餌食となって死んでいった姿を描かれる。
フランス革命で勝ち取られた共和制による人権の前進を、再度、王政に、歴史が逆戻りすることを、イデオロギー的に批判する形になっていて、この作品が一つの、現在における、フランスのナショナルアイデンティティになっている、ということを、よく示しているように思われた。
こういった、若い女性の身空や、若者の純真な心が、歴史において、人々をイデオロギー的に動員していくときに、利用されてきたことは、確かである(子供十字軍や、日本の神風特攻や回天もそうだろう)。
しかしそれは、逆に言えば、そういった女性や子供を利用しようとする大人の側が、それがいかに「影響力」があるかを分かっているから、その効果を分かっているから、とも言える。
つまり、そういったものが、本来、人々を動機付け動かす「なにか」であることを、私たち自身がどこかで、知っているから、ということなのであろう。
近年の日本のラノベや漫画・アニメにおいても、ほぼ、登場人物は子供たちであるが、それも、こういったことと対応しているように思われる。
大人とは、社会における「歯車(=秩序)」の中に、自らの「役割(=存在理由)」を付与された存在なのであって、そこからおりることは、別の誰かが、その役割を交代しなければならない、ということを意味するわけで、つまりは、役割的存在として色が付いてくることを意味する。
つまり大人になるということは、その自らの役割から、帰結する「専門」的な発言を「自らの意見」として、代弁するようになる。つまり、自らを大人とアイデンティティした時点で、ポジショントーク利益相反的発言は避けられない。それが「歯車」という意味で、だから、社会には「秩序」がある、とも言える。
そのように考えるなら、むしろ、私たちが求める理想社会は、若い女性の身空や、若者の純真な心が「代弁」する形で、示されるしかない、とさえ言えるのかもしれない。
まだ、大人になっていない、社会の「歯車」に位置付けられていない子供や、日本のような、何年か働くと、当たり前のように、寿退社を強いられて、会社から追い出されていく女性のような人たちが、考える

が、そういった「物語」という形で「指唆」されている、とも言えるのであろう。
今週の videonews.com での高橋洋一さんのアベノミクスの話は、おもしろかった。それにしても、なぜ日本は、ここまで、円高政策をバブル以降、一環して続けてきたのであろうか。
高橋さんは、はっきりと、金融緩和でありインタゲが、ヨーロッパでは、

の政策だと言っている。それがなぜ、前政権のリベラル政権である民主党では採用されなかったのだろうか?
いずれにしろ、安倍政権がそういった左派の政策を、丸ごと飲み込んだ。小泉政権の頃、少しはやろうとされた、この政策が、再度ここで強力に進められようとしていることは興味深い。
高橋さんの言っていることを、私なりに一言で言えば、「党派的でない」ということになるだろうか。単純に、数学理論的に説明しようとしている。だから、どこか左翼的な政策であろうと、なんのわだかまりもなく、金融政策として、説明し、推奨してくる(そういう意味で、旧来の、右翼や左翼といったような「党派」的な議論から免れている)。
日銀が、紙幣を刷って、市場にお金を回すことで、円安に誘導する。今までの日本の円高政策は、一つだけはっきり言えることは、これが日本から、工場を追い出す政策だった、ということであろう。つまり、日銀と日本政府は、日本の企業に、日本でモノを作っては「いけない」というメッセージを出し続けていた、ということになるであろう。しかし、それによって、なにが起きていたのか。日本では、労働者が「いらない」という事態になっていた。
恐しいことは、ようするに、そういう政策を進めることで、日銀や日本政府は、なにがしたかったのでしょうか。
本来の中道左派の政策とは、労働者に、いかにして仕事を回すのか、ということだったのではないのでしょうか。そう考えれば、日本から、いかにして、工場を追い出して、日本の労働者に仕事を与えないか、に血道を上げた、今までのバブル以降の日本政治の政策は、なんだったのだろうか、とならないのだろうか。
そのことは、今回、高橋さんにさまざまな質問をぶつけていた、萱野さんや宮台さんのような、「ポストモダン」と呼ばれるような、一般の経済学者とは違う社会理論的な場所にいた人たちが、ヘーゲル的な意味での

  • 現実的であることは理念的である

といったような、リアリズムからの、現状肯定的な言説を続けたことが、どこかで、日本の資産家たちの、資産を守ることを第一義的な目的としているような「貴族的」な政策を事実上肯定するような、

  • 日本システム別格(成熟)論

的な色彩をもっていたのではないだろうか。それは、ゼロ年代と呼ばれていた人たちが、他方において、バトル・ロワイヤルのような、今の現実社会を、弱肉強食的なサバイバル世界としてイメージしていたこととも対応する。おそらく、そのイメージは、バブル以降の失われた10年を、

  • 逃れられない現実

としてイメージすることだったわけであろう。デフレで、日本国内から、どんどんと工場が海外に流出していき、国内の労働者が不要になる。若者はさらに、仕事がない。本来であれば、なんとかして若者に仕事を与えて、働いてもらって、貯金をしてもらうことを目指すはずの、左派経済政策が、なぜか、

  • 日本特殊論

によって、若者に仕事がないことが「リアル」として現状肯定される。日本の経済政策は、なんとしても、若者に仕事を与えないで、円高によって、お金持ち年寄りの「資産」の「価値」を上げることばかりを目指した。そして、そういった政策をゼロ年代批評は「サバイバル」性や「格差社会」として「肯定」したわけである。
しかし、どうであろう。そういった、なんの実証性もなく、「虚業」で吹聴されてきた「ポストモダンリアリズム」(池田信夫の言う、絶望する勇気)とは、高橋さんに言わせれば、「金融政策」の一言で、かたづけられる。
年寄りにとって、大事なことは、今ある貯金の「価値」である。今まで溜めてきた預金の価値が高ければ、それだけ、余生を海外旅行でもやって、過ごせる、ということになるだろう。これは、今、セレブな生活ができている、高級住宅街に住んでいる人たちにとっても、そうであろう。つまり、もし円高であるなら、資産家は、その余っている資産を

  • 運用

することで、余生をなにもせず生きることができる。
他方、若者はお金を持っていない(一部の、高学歴進学をしているような、セレブな家庭は、親から、さまざまに相続するので、そういった人々を除くが)。つまり、彼らは「これから」お金を働いて、貯金しなければならない。そのためには、国内に仕事がなければならない。つまり、なんとしてでも、国内に、こういった若者に未来を夢見させるための仕事を用意しなければならない、といえるであろう。
そう考えれば、高橋さんの言う金融政策は、日本の「復興」そのものだとも言えるように思われるわけである。
国民が働き、なんらかの「価値」を国民が生み出し、そのモノが(これは物理的なマテリアルという意味でのモノであるだけでなく、ITにおけるソフトウェアやアニメのような「情報」と呼ばれる形でのモノをも含む)、社会の、さまざまな「意味」を増大させ、人々を動機付け、感情のフックにかけ、動かしていくような、

  • 創造都市

は、なんにせよ、国民を労働者として働かせ、なんらかの価値を国民に生み出させていく、そういった、「若者」がモノを作りながら、未来に、夢を見られることが

  • 可能

になっているような形になっていない限り、ありえないのではないだろうか...。