尾藤正英「国家主義の祖型としての徂徠」

丸山眞男は、日本の近代思想の祖型として、荻生徂徠を見出した。そして、その丸山の議論は、戦後の日本思想の研究者に、さまざまな意味において、長く強力な影響を与え続けている。
しかしそのことは、単純に徂徠の思想が、西欧近代合理主義の、日本における、最初の現れと言いたいわけではない。というのは、徂徠の思想の大半が、むしろ、西欧近代合理主義からの「後退」と言っていいような、非合理主義的なものでもあるからである。つまり、そういった相矛盾しているとすら言いたくなる性格をもちながら、それでも、丸山は、徂徠の思想における、マキャベリ的な合理主義の萌芽の側面に、西欧近代合理主義の「かけら」を見出す、という構造になっているわけである。
実際、本居宣長の主義主張は、どうみても徂徠との違いを感じられない。ほぼ丸パクリと言っていいくらいに、宣長は徂徠そのものではないだろうか。なにも新しいことを言っているように聞こえない。また、このことは水戸学派についても言える。
しかし、このことは、私には、もっと卑近な例にさえ、どこか感じることが多い。例えば、社会学者の宮台真司さんの、さまざまなエッセイでの発言も、ルーマンなどの西洋の学者の思想というより、むしろ、荻生徂徠の「役の思想」に似ていなくもないし、それは、東浩紀さんのような方が、さまざまな社会学的問題に言及する場合の「スタイル」も、西洋哲学というより、むしろ、荻生徂徠的な日本思想「によって」、西洋思想を「解釈」している、というように見えさえする。
伊藤仁斎荻生徂徠は、古学と呼ばれ、朱子学のように、近代において成立した「解釈」を「前提」とした解釈体系を妄信するスタイルを拒否し、より古(いにしえ)の原典から出発して、儒教の教典を文献学として扱うものと考えられているが、本当に、それだけのことなのか、は単純ではないように思われる。
というのは、仁斎も徂徠も、どこか「日本的」なわけである。彼らがやっていることが、どう考えても、日本の「文脈」とは全然関係ないところから生まれているものではない。どこか、彼らがこの日本で生まれて、この日本で生活していたから、「そう考える」としか言えないような、「思想」になっているところが多々見うけられる。

中国の学者でさえも、古注に頼ることなしには厳密な意味を確定するのが困難であるとすれば、その経書の原文を外国人である日本の学者が注釈なしに読んだ場合に、どういう結果が生ずるであろうか。古代人の意識の復元という点では、ややおぼつかない代りに、自由な解釈を加える余地が大きいから、独創的な思考を発展させるのにはかえって好都合であったに違いない。そこに儒学の日本的解釈とでもいうべきものが成立する。それは意図してもたらされた結果ではなかったであろう。素行や仁斎にしても、また徂徠にしても、かれらが求めたもの、また求め得たと信じたものは、まさに古代中国の聖人の教えであって、自己流の自由な解釈などではなかった。しかし客観的にみれば、かれらの描いた聖人の姿には、やはり日本人のおもかげが刻み込まれている。聖人の教えとしてかれらが説く道徳論や政治論には、江戸時代の日本社会に生活した人々の意識と結びつけてみなければ、十分には解釈のつかない点が多いのである。おそらく鎌倉仏教の祖師たちが、仏教の教典を読んだ場合の読み方も、これと大差のないものであったのであろう。

もっと言ってしまえば、伊藤仁斎荻生徂徠がやったことを、「儒教」と言うのは違うんじゃないだろうか? ようするに、彼らがやったこととは、「日本仏教思想」から、朱子学の教典を「解釈」する、という作業だった、ということなんじゃないか? 私には荻生徂徠の言っていることは、ようするに、日本仏教的な「価値」の側から、朱子学を相対化している「だけ」のようにも、思えてくる。つまり、日本思想とは、現代にまで、一貫して、

  • 日本仏教思想

なのではないだろうか。そしてそれは、近年における、

の語り手の口ぶりにまで、一貫している姿のようにさえ、言いたくなるわけです。
しかし、このように言う場合でさえ、その「日本仏教」とは、インドやかつての中国において存在した「仏教」とも、どこか違っている。つまり、著しく、日本的ななにかであることは間違いないだろう。

天子となり、あるいは諸侯となって、臣民に対する政治的責任を負うのも、また士となって一族や妻子に対する扶養の義務を負うのも、すべて天命であって、その天命を自覚し、それをつつしんで守ることが、天下を安泰にする「道」の根本である(『弁道』七)。つまり社会的な地位に応じ、それぞれに定められた職分が、運命的に与えられたものとしての「天命」であって、それに随順することが、人間の生き方の根本とされているのである。社会的な地位ばかりではなく、さまざまな素質をそなえて生まれてくるということも、やはり個人にとっては「天命」であるから、その素質を変化させて分不相応なものになろうなどと無理なことを望んではならない(『学則』七)。さらに聖人の治世ならぬ現代では、素質や才能があるからといって、それに相応した社会的地位が与えられるわけではない。学問が好きであっても、家が貧乏で本が買えなかったり、公務が多忙で余暇がなかったりする。それも天命であり、天命というのは、どうしようもなものであるから、それに随順するほかはない(同)。
このように運命を諦観して、それに随順しようとする生活態度の背景には、人間社会の非合理性とでもいうべきものについての認識があった。天地も「活物(いきもの)」であり、人も「活物」であるから、天地と人との関係、人と人との関係の上には、限りなく多様な変動が生じてくるが、それをあらかじめ予測することはできるものではない。
予測してしたことが偶然うまくゆけば、愚かな人間は自分の知力で成功したと思っているけれども、実際はそうではない。人知や人力のとどかない領域のことについては、君子は天命を知って心を動かさず、ただ自分のなすべきことを努力してするばかりである(『答問書』下)。

確か、ヘーゲルは「バガヴァッド・ギーター」を読んでいたと思うが、詳しくは知らないが、それ以外の、幾つかの「仏典」を読んでいたのかもしれない。つまり、日本の学者は、むしろ、ヘーゲルを読みながら、ヘーゲルの中に、「日本仏教」を投影して読んでいたのではないだろうか?

また言葉によってわからせた場合には、人(この場合には君子)はその意味がそれだけのことだと思って、それ以上には考えようとしない(同)。つまり積極的に考えてみようとする自発性を人々から引き出すことができない。これに対し「礼楽」はものを言わないので、考えなければわからない。それに言葉でわからせたことは、いくら詳しく説明したとしても、物事の一面だけにすぎない。これに反し「礼」は具体的な「物」である。その中にはたくさんの意味が内包され充満していて、言葉で汲み尽くすことのできるものではない(同)。
言葉よりも「物」を重視しようとするのは、徂徠のものの考え方のいわば基本をなす特色であった。そもそも「道」が、抽象的な概念によってではなく、「礼楽刑政」という「物」の形であらわされ、またその「道」は、言葉では説明しにくいものとされていた。「言葉でもって人を教えさとそうとするのは、大抵は不可能なことだ」(『答問書』中)とする人間観にもとづき、説得や話し合いによってではなく、具体的な政策や制度という「物」を通じて、徂徠は人を動かそうとするのである。

こういった態度は、確かに、「近代」的と言いたくなる。いや、むしろ「科学的」とさえ言ってもいいであろう(ニーチェに言わせれば、キリスト教に対し、仏教とは、宗教というより、むしろ科学に近い、ということになるのだろうが)。
しかし、おそらく、荻生徂徠を読む多くの現代の私たちが、彼を「近代」と呼ぶことに、異様なまでの違和感、拒否感を持つのは、掲題の著者が以下で指唆するような、むしろ、

  • 悪魔的

とさえ言いたくなるような、もう一つの非近代的側面があるからであろう。

しかし「近代」という観念から私たちが思い浮かべるものには、もう一つの側面があるようである。それは個人主義自由主義ないしは民主主義といった理念によって代表される側面であるが、これらの理念、あるいはその基礎をなしている基本的人権の観念といったものを、私たちははたして徂徠の思想から導き出すことができるであろうか。の種の理念が、日本の社会では容易に根をおろすことができず、ともすれば形骸化して現実から遊離しやすいことは、私たちが現代の社会の中で痛切に体験しつつあるところであるが、徂徠が朱子学に対して投げかけている批難の言葉の中にも、同様に形骸化された合理主義的思考の姿を、私たちは読みとることができるように思われる。近代的な個人主義や民主主義の理念が、ヨーロッパやアメリカから伝来したものであるのと同様に、本来は外来思想である朱子学に含まれた個人本位の合理主義的な思考も、日本の社会には必ずしもなじみやすいものではなかった。いわばそのような合理主義的思考が、形骸化せざるをえないという現実を見きわめるところから出発して、徂徠は自己の思想を築き上げていたのであろう。その意味では徂徠は、比類のない現実主義者であった。

徂徠が非近代的に思える側面とは、逆に言えば、日本の伝統的な思考形式が、どこかしら、非近代的だということに、対応していると言わざるをえないのだろう。
しかし、本当にそうだろうか。
もちろん、そういった側面がまったくないとまで言いたいわけではない。しかし、そこまで日本の伝統は卑下するものなのかは、むしろ、疑うべきべきことなのではないだろうか。
そのことを、掲題の著者は、掲題の論文が再録されている、下記の文庫の「あとがき」において、あらためて、以下のように、付け足している。

徂徠は現実主義者と評されることが多いが、現実の江戸時代の社会構造について、どこまで正しく理解していたのであろうか。徂徠はしばしば「民は愚か」なものと言うが、兵農分離以後の農村は、村ごとに自治的な共同体を形づくっていて、支配者の側からの指示や強制がなくても、年貢を納め、道路や橋などの修理を協同して行う組織になっていた。この自主性とそれに伴う自由があったからこそ、農業技術や商品経済の発展もみられたのであり、そのことが一面では徂徠の指摘するような各種の弊害を社会に生み出しながらも、二百六十年の泰平が保たれる基本的な理由となっていたのではなかったか。
(尾藤正英「あとがき」)

戦後の日本の平和主義思想は、日本の因習的な伝統を、否定すべき価値観としてきた。それは、いわゆる、「ムラ社会」という「共同体」であり、その中において、個人は自由を奪われ、絶望の「中世暗黒時代」を生きていた、と。
以前、「きだみのる」という人を紹介している本を、このブログでとりあげたが、この人の言う日本村社会の分析は、どこか、アンビバレントであった。それは、彼の日本村社会分析が、一方において、西欧の社会科学的手法によって、日本の慣習的な後進性を分析していくものでありながら、他方において、その中で生き生きと、主体的に、目の前の困難に立ち向かっていこうとしている人たちの姿が、その「近代的手法」によって、逆に、意図せず、立ち上がってくるものだったからである。
つまりは、いいかげん、荻生徂徠のように大衆を「愚者」と言ってれば、または、戦中の平泉澄のように、大衆に歴史などあるわけないと言っていれば、なにかが語れるかのような、凡庸な国家主義的エリート主義は卒業しませんか、ということですかね...。

荻生徂徠「政談」 (講談社学術文庫)

荻生徂徠「政談」 (講談社学術文庫)