山下祐介『東北発の震災論』

私は、けっこうマジな話で、東京が嫌いだ。というのは、この日本が完全に東京一極集中の社会システムになっており、それが、戦後ずっと続いてきて、今もそうであり、おそらく、これからも、そうなのかと考えたとき、そこにあるのは、東京の

  • おごり

なんじゃないのか、という疑念が湧いてきたからである。なにもかもが、東京に集中することを、当たり前と考え、全国の人が東京ローカルの情報を聞かされることを当たり前と考え、全国の人が東京弁という標準語を話すことを当たり前と考え、なにもかも、

  • 東京スタンダード

を人々に強いることを当たり前と考え、ようするに、どんなに地方が疲弊しようが、自分の毎日が

  • 東京キラキラ

してればそれ以外は興味ない、みたいな態度が、だんだんと自分がついていけなくなり、興味をなくしていった。
もちろん、東京に暮らす人が、自分の街が、住みやすくなればいい、と思うことは自然のことであるし、そのことをどうこう言いたいわけではない。
この問題が分かりにくいのは、私たちの「視点」が、そもそも、日本では「ない」からではないだろうか。私たちが生活している空間は、東京に住んでいる人なら、せいぜい、「東京圏」でしかない。大阪なら、せいぜい、「関西圏」であろう。それは、通勤圏内と言ってもよく、それくらいが、せいぜい、

  • 日常

なのだ。では、その生活圏を超えた地域というのは、どういうものなのか。言ってしまえば、それは、

  • イメージ

でしかない。テレビに、たまに映っている地方の光景でしかない。つまり、その光景が具体的に「どういうこと」なのか、そのリアリティがないわけだ。
そして、そのことを、痛切に理解させられたのが、311だったのでしょう。

三・一一から三ヶ月が過ぎて、東京のメディアはあらためて、東北が遠い・見えない・わからない、ということに気づきはじめたようです。わたし自身も、東北の被災地を少しずつ歩きながら、これまで見えていなかったことに気づかされています。

3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する (新潮選書)

3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する (新潮選書)

東京に住んでいる人は、そもそも、東北を知らない。分からないのに、まるで、東北を代表しているかのように、東京の人が東北を語る。そういった言説がインフレーションのように増大した。
つまり、東京の人たちが、東北というのが

  • 別の国

という感覚をもっていない。

  • なにも知らない

のに、まるで、自分の国のように語る。「なにも知らない」のに、である。このことからも、東北と関東は、一つの国であってはならないんだな、と考えさせられた。東京にとって、東北は、

  • 隣の国

なのである。

二〇一一年四月、一七年過ごした弘前市を離れ、首都圏に居住地をかえた筆者がまず感じたのは、三月一一日以降、東北の暮らしの中で行き交っていた情報と、首都圏での情報の質の差だった。災害に関わる情報の大半は、原子力発電所事故や計画停電に関わるものばかり。今後に向けた議論の多くも日本経済の懸念に集中して、まるで経済さえ立て直しができれば、被災地の再生が実現するかのようだった。被災地も、涙を誘う美談や秘話の主役として現れるばかりで、これから人々が具体的にどう動き、また東北が、日本が、この人々とどう向き合うべきなのかという情報は薄かった。東京では帰宅困難もあったし、地震も相当揺れたわけだが、すでに五月には、震災を過去の出来事のような印象で語る人さえ現れていた。

311の震災の特徴とは、なんだろうか。もちろん、巨大な津波であるが、それが、東北の非常に広大な海岸沿いの田舎街を、ほぼ「全滅」させた、ということではないだろうか。つまり、東京から、かなりの距離の離れた場所で、

  • 非常に広大なエリア

の海岸線の田舎街のインフラが完全に破壊された。つまり、非常にエリアが広かった、ことであろう。
阪神淡路大震災のときは、関西圏の人々のボランティアが、かなり、大規模に長期間行われた。他方、311は、多少、東京から離れていたことが、その足を、にぶらせた。
東京から向かうには、交通網を破壊され、物資の供給もとどこおりがちになっていた状況だったので、逆に、行くことが、迷惑になると考えられた。特に、福島第一原発の爆発の話もあり、初動から、動きはにぶかった。そして、なにより、そのエリアが広すぎた。一カ所を、どうにかすればすむ、というものではなかった。
上記の引用にもあるように、こういった状況で、東京では、東北は「別世界」という印象がもたれていた。東京そのものが、計画停電や、物不足などで、忙しかった、というのもあったであろう。しかし、それ以上に、東京は、

  • 日常

だった。というか、むしろ、日常を維持しなければならない、という掛け声がされていた。東京は日本の中心であるだけに、ここが、非日常となったとき、日本の経済活動がストップしてしまう。商品が売れなくなり、借金がたまり、各地で倒産が生まれる。つまり、驚くべきことに、常に、東京は

  • 日常で「なければならない」

ということを、人々は知ってしまった。どんなに、隣の国が悲惨な状況であったとしても、花見をして、バカ騒ぎをして、いつものように他人を嘲笑し続ける、日常を維持しなければならない。
しかし、そうだろうか?
それは、あまりにも変じゃないか? なにかが変なのだ。あまりにも、非倫理的に思われる。つまり、東京は、あまりにも非倫理的な都市、だということなのだろう。
しかし、他方において、私はそういったことを単に批判することにも、あまり意味を感じなくなってきた。というのは、彼らがそれを自覚しないことは、どこか「必然」なのではないか、とも思うようになってきたからだ。
つまり、そもそも、彼ら自身に自覚がない。自覚しようにも、「本当」に知らない。無知なのだ。

一見、中心にはあらゆるものが集まっており、技術も、思考も高度でかつ豊富にあり、すべてのものを見通す視座がここには備わっているように見える。
ところが実態は、周辺から中心はよく見えるのだが、中心から周辺は見えない。すり鉢の真ん中と、縁のようなもので、縁からは、鉢の中はすべて見えているのだが、鉢の底にいるものには自分たちしか見えず、周りが見えない。
これは拙著『限界集落の真実』でも記述した論理だ。山間にある限界集落からは、中心集落が見え、中心都市が見え、また東京も見えており、すべてを知っている。しかし、逆に首都圏に住むものには、周辺は見えていない。もっとも気の毒なのは、首都圏に生まれ、首都圏でずっと暮らしている人々だ。首都圏にいる地方出身者は日本という国を実感できているが、首都圏出身者は、大量の情報の中にいるにもかかわらず、ごく身近な暮らししか知らない、きわめて狭い視野のうちにいる。だがその首都圏の真ん中にある首都でこそ、すべて国のことは決められているのだ。

東京で生まれて東京で育ち、大人になって、東京で暮らしている人たちの、「エリート主義」というのを、私はずっと、このブログで、口汚なく、ののしってきたが、最近は、むしろ、思うのである。
彼らは、むしろ、しょうがない、のではないか。
自覚しようにも、その手がかりがないのではないか。
東京で生まれ、東京しか知らない人たちは増えている。そういう人たちに、東北の田舎をイメージしろ、と言っても、そもそも、なんの接点もないのだから、無理なのだ。「なんとなく」のイメージしかない。自然と、そういった地域への、「差別」発言を訳も分からず始める。本人たちは、論理的に導かれた、まっとうな主張と思っているけど、そもそも、それが無知から発しているのだから、的外れな推論であることを分かっていない。つまり、一言で言えば、ナイーヴということになる。
例えば、最近、東京でも、かなりの大雪が一日だけ降った。しかし、これは、非常に、めずらしい。
雪国というのを考えたとき、まず、大量が降ったとき、屋根下ろしが、必要になる。また、道路の除雪が必要になる。そもそも、

  • 非常に寒い。

そりゃ、外に雪がずっとあるのだから、当たり前なのだが。冬の間とは、つまりは、これに「耐える」期間なのである。まず、最初に、

  • この考え

が来るのである。自分だけ、功利的に、うまく生きたい、とか考える前に、まず、これなのである。もしも、なにかの間違いで、自分が、この寒空の中に、薄着で投げ出されたとしよう。どうやって生きるか。どうしようもない。つまり、

  • 共生

しかありえない。だから、みんな助け合う。寒がっている人がいたら、温かい飲み物を与える。上着を貸してやる。当たり前なのだ。だって、もし、自分がそうなったら、生きられないのだから。
しかし、そのことは、そういった雪国で住んだことがない人には、理解できない。田舎者の、お花畑とか、嘲笑を始める。俺は、功利主義で、こんなバカどもを操って、エリート人生を生きるんだ、とか、考えて、終わりになる。
しかし、そもそも、彼らは雪国を知らないのだから、そういう「倫理」を最初から持っていないわけだ。こんな連中に、違和感を覚えても、しょうがないと言うしかないんじゃないか。
東京から東北を見たとき、あまりにも、遠い。少なくとも、毎日、通勤できる距離じゃない。また、往復するにも、けっこうなお金がかかる。そう考えたとき、東京から東北は、はるか遠くにある、イメージでしかなくなる。
しかし、他方において、東京には、かなりの東北の人たちが「上京」してい。子供の頃は、東北に住んでいたのに、東京に上京して生活をしている。それが仕事がある、ということであり、「都会」ということなのだろうが、311のとき、そういった人たちは、仕事を放り出してでも、地元に帰って、ボランティアをやりたいと思った人は多いのではないだろうか。しかし、彼らは帰ることができなかった。なぜなら、会社自体がビジネスを続けたから。

  • 日常

を続けたから。というのは、東京の上京者のもう半分は、関西方面から来ているし、そっちの方とビジネスをやっているので、向こうは、少しも非常時ではないので、会社を休みにして、ボランティアをやろう、ということが社内の大勢にならないわけである。こうして、

  • 引き裂かれた東京

は、必然的に「非倫理的東京」の方を選ばざるをえなかった。
しかし、それを東京を批難することで、いいのか、というのが私の疑問なのである。
むしろ、このことは、逆に考えなければならないのではないだろうか。つまり、東北の人が、あまりに多く、東京に「上京」しすぎなのだ。もっと、東北の人は東北に住むべきなんじゃないのか。
例えば、子供の頃に田舎で暮らしていた人の多くは、その土地の「方言」を普通に話していたであろう。ところが、東京で暮らし始めた途端に、

  • 日本標準語

なる「奇妙」な「人工的」な言葉を強いられる。しかし、そのことは、どこまで「自然」なのだろう? 多くの人は、そのことで、非常に苦労している場合もあるんじゃないか。子供の頃から親しんでいた方言が通じず、相手の言っている標準語が、うまく理解できず、ストレスを感じながら、日常を生きている人は多いのではないか。
そして、それ以上のなによりも、

  • (公的な場面でもないのに)江戸語を話させられる「屈辱」

を感じているのではないか。
私は近年の、グローバル化だとかフラット化だとか、日本はこのままでは衰退するだとか、そういった言説に「うんざり」している。
自分が高学歴で、英語の勉強の成績が優秀で、海外旅行で、それなりに英語が話せてっていう、自分の「能力」自慢にしか聞こえない。
日本にいて、アメリカ人が英語で書いてある説明書が付いている英語の商品を使って、英語圏趣味を自慢して悦に入っている日本人が気持ち悪い。そうして、これに比べて、ここが日本のガラパゴスはうんぬんと「ダメ出し」しておいて、日本の商品を「嘲笑」している奴らが、気持ち悪い。そういう奴に限って、日本人が日本の企業のサポセンに質問したり、抗議をしている人を「クレージークレーマー」とか、狂人扱いしてくる。
私はむしろ、こういった連中の価値観と戦いたいわけである。
韓国は、今だに、日本の大衆文化の規制を実質上、行っている。なぜなら、そうしなければ、国内のドラマなどの制作会社を守れなかったからであろう。
新自由主義者は、あらゆる規制に反対するが、それは、日本のようなそれなりに広い国土で、それなりに大きい人口の所では、「統一した意見」でまとまることは難しいし、地方の末端まで、中央が把握できるわけがない、からで、むしろ、その地域が、統一した意見でまとまるなら、規制であろうと、公共事業であろうと、やるべきなのは、「当然」ではないか!
なにになりたいのか、どうなりたいのか、「それ」を生きればいいにきまっている!
そういった価値観もなく、公(おおやけ)は、なにもするべきでない、という言説は、逆に、貧乏人はお金持ちの邪魔をするな、と言っているだけのようにしか聞こえない。つまり、逆説的に、極めて、反動的な差別主義の本性にしか感じられない。
例えば、どうだろう。
東北を、一つの独立国家にするわけである。
近年は、グローバル企業の台頭によって、国民国家の民主主義が滅びていっている段階だ、みたいなことを言う新自由主義者がいる。もう、国家の時代じゃない、みたいな。しかし、私はそれを逆転する。
東北を「国民国家」にする。
関西を「国民国家」にする。
インドの国民国家建設に大きく関係した、ガンジーは、当時のインドにある、数千の村々それぞれを「国家」と考えるイメージを、語っていたそうであるが、日本における、道州制とは、それぞれの地域を、

するわけである。これこそ「地方自治」であり「地方分権」なのではないか?
そうした場合、日本という単位は、なにになるか? それは、EUのようなものをイメージすればいいであろう。そして、天皇は、この日本版EUの「象徴」になる。
東北が「国民国家」になる、とは、どういうことか?
まず、「東北語」を作る。その場合、もちろん、今ある、東北弁を否定することではない。各地域ごとにある、それをベースに、比較的それに近いものを、「人工的」に作るのである(今の日本標準語が、江戸弁をベースに作られたように)。
そして、「東北国」の公用語を、今の日本語と、その「東北語」の二つにするわけである。
そうした場合、最も重要になるのが「国民作家」かもしれない。夏目漱石の小説が今の日本語と、ほとんど違わないことが示しているように。
(例えば、昔から、京アニのアニメ「AIR」を、全編、関西弁でつくったら、いいんじゃないかと思っていたが、もしそういうものができれば、それは「関西国」の、一つの「国民文学」の象徴のようなものになるかもしれない。それが東北であれば、アニメ「Kanon」を東北弁で、という感じだろうか。)
「東北国」を「国民国家」と考えるのですから、当然、東北国会、東北政権、東北憲法、東北最高裁判所、のようなものも考えられるでしょう(当然、東北憲法の条文は、東北弁で書かれます)。また、日本史とは別に、

  • 東北史

は必須科目になります(これも、東北弁で書かれます)。また、東京出身の人が、この東北国に「移住」してきた場合は、まず、

  • 東北国語

を東北学校で学び、単位を取ることが「市民権」を得る必須の「義務」となるわけです。
そして、次に、最も重要になることが、

  • 東北国の首都

を作ることです。つまり「東北の東京」を、都(みやこ)を作ります。こうすることで、東北の人は、

  • 東京に上京するか?
  • 「東北の東京」に上京するか?

の二つの選択肢を得ることができるようになります。その「東北の東京」には、今の東京にある、「コピー」が生まれると考えるといいでしょう。「東北の東京」のテレビは、当然、半分は、東北語で話されます。ですから、半分は、「東北の東京」で制作されるようになります。
「東北の東京」にも、今の東京でそうであるように、東北弁で書かれる出版社ができます。漫画雑誌も、ここ「東北の東京」で東北弁で書かれる、東北在住の漫画家によって書かれます。
東北の企業は、今の東京のように、本社をこの「東北の東京」に置くようになるでしょう。
それだけじゃない。「東北のアキバ」、「東北の乙女ロード」もできる。東北の人々は、そういった文化的担保によって、自らのアイデンティティを「地元」と共にする生き方を、

  • 生きたい

と思うようになる(グローバル化とは関係なく)と考えるわけです...。

東北発の震災論―周辺から広域システムを考える (ちくま新書)

東北発の震災論―周辺から広域システムを考える (ちくま新書)