久保陽一『ドイツ観念論とは何か』

一般にカントは、普遍的な、形而上学を、「ドイツ観念論」というものの祖型として、提示した、と受け取られている。それが、いわゆる、「ドイツ観念論」側の、主張だと言える。
というのは、いわゆる「ドイツ観念論」は、実際のところ、カントから始まっているからだ。
しかし、他方において、カントは形而上学に批判的だった、と考えられている。

確かにカントは従来の形而上学を批判したが、形而上学一般を否定したのではない。彼は道徳の領域で形而上学を認めただけでなく、理論哲学においても「超越論哲学」の名のもとに形而上学を認め、それ故種々の領域にわたる形而上学の体系を再構築しようとしていた。したがって、カントとドイツ観念論は、形而上学の破壊者か再建者かという単純な対立においてよりも、むしろ形而上学をいかに様々な仕方で構築したかという相違において、比較検討されるべきであろう。

ということは、結局のところ、カントは何をしたかったのか、ということにならないか?
カントが三批判書でやったこととは、なんなのだろう?

またたとえ我々が現象を因果的必然的に生じたと説明しえたとしても、その説明に偶然的な要素を欠くわけにはいかないように思う。例えば、「道がぬれている」ことを説明しようとする場合、それは、「雨が降るならば道がぬれている」という因果的法則と、「雨が降る」という初期条件とがともにそろったことによって説明がつけられよう。ここで「雨が降るならば道がぬれている」がは必然的法則的な要素であるのに対して、「雨が降る」は偶然的事実的要素である。だが後者そのものを更に探究して、「低気圧ならば雨が降る」「低気圧である」「故に、雨が降る」と論証したとしても、今度は何故に低気圧であるかという問題が残る。したがって科学的説明の形式にはその都度偶然的要素が含まれざるをえないと思う。

この指摘は、確かに、興味深い。あらゆる命題は、どこかしらに、「偶然」を内包せざるをえない。このことを逆から言えば、あらゆる科学的命題は、必ず、どこかしらに、なんらかの「仮説」を除去することはできない、ということになる。
ところが、カントの純粋理性批判において、この問題は、前景化してこない。

ヒュームにおいては、物が意識の外に存在するかどうかという問題は、物が時間の経過のうちで連続性を保ちうるか否かという問題との関連で考えられる。例えば、林檎が私の睡眠中も存続していたことは、次のようにして説明される。まず林檎に関する就寝前の知覚と覚醒後の知覚とが類似していることから、想像力によって両者が同一物とみなされる。さらに両者が睡眠中の林檎に関する想像と結びつけられ、その想像上の林檎に対し就寝前の知覚の記憶から活気が付与され、かくて林檎は睡眠中も連続的に存在していたと信じられる。だがこの信念は因果関係に基づくものであるが、因果関係はたまたまこれまで反証されていなかったものでしかなく、論理的に必然的なものではない。それ故、意識の外に意識と関わりなく林檎があるということも、主観的な信念でしかない。
カントの演繹論の論証は、実はのようなヒュームの議論の枠組みのうちで動いていたように思われる。ヒュームは意識のなかの多様な知覚の継起に同一性が成り立つ限り、物が意識の外に存在すると考えたが、それと同様にカントも多様な表象が時間の経過のなかで必然的に結びつけられているなら、それらの表象は客観的実在性をもつと考えた。ただヒュームはこの連関は成り立たないと見たのに対して、カントはそれは統覚のもと悟性のカテゴリーによって成り立つと考えた点が違う。
客観的実在性の問題がカントにおいてはすぐれて因果的必然性の問題に還元されたのは、このような事情によると思われる。しかしそのような考え方では偶然的なものの客観的実在性が排除されている。確かにカントは自分の超越論的観念論を「経験的実在論者」(A.370)の考え方と矛盾しないと考えていた。しかしカントが認めた実在論は因果的必然的なものの実在論であり、偶然的なもの、九鬼の言い方に従えば、「可能的なもの」が「必然的なものに移らずに」「可能なまま実現される」ものの実在性を排除しており、かなり限定されたものでしかない。それは経験的実在論というより、むしろ科学的実在論と呼ぶべきものではないかと思う。

この指摘は、重要だ。カントの純粋理性批判は、どちらかというと、「科学」や「数学」を、「認める」、というか、根拠付けることに、主眼が置かれているように思われる。そのため、上記の「偶然」性、もっと言えば、「奇跡」と呼ばれてきたような、「一回」性の問題への、関心が薄い。
つまり、そうだとすると、「なぜ」そうなのか、という疑問がわいてくる。

結局、感覚の「実在性」と悟性の「必然性」の総合の結果が「客観的実在性」である。かの周知の命題、「内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である」(B.75)こそ、表象の「客観的実在性」に関するカントの考え方を端的に表している。しかも感覚という現象の「根底」には「物自体」が「ある」ことが、否定されていなかった。「単なる現象の根底には物自体がある。たとえ我々は物自体がどのようなものであるかを知らず、ただ現象、すなわち我々の感覚器官がこの未知なる或るものによって触発されうるところの仕方しか知らずとも」(4、314-315)、感覚は物自体と何らかの関係----それがいかなるものかは知られないにせよ----をもっていると思われる。それ故に、既述のように、カントは対象の「現実性」ないし「存在」の基準として、「感覚」ないし「知覚」を持ち出したと考えられる。そうだとすると、「客観的実在性」は感覚と悟性の総合ではあるが、一層根本的には物自体の(知られざる)作用と統覚の(知られうる)作用との総合というべきではないだろうか。

この、物自体にしてもそうだ。カントは、こういった物自体について、言及しておきながら、ほとんど、それについて、説明していない。というか、説明を「放棄」している。

  • この態度は、なんなのだろうか?

確かにカントは「コペルニクス的転回」を誇り、観念論を主張するが、しかし感性と悟性、物自体と統覚、あるいは広義の自然と人間との協同というモチーフ、また物自体が現象の根底にあるという考え方こそカントにおいて評価すべきものであり、そしてそれなくしては理論哲学のみならず、----後述するように----実践哲学や美の考察も成り立たないのではないかと思われる。

確かに、カントの「コペルニクス的転回」つまり、観念論によって、上記にあるように、ヒュームの懐疑論を、観念論によって、克服した形にしておきながら、他方において、物自体のようなものを、ほとんど、なんの説明もなく、もちだしてくるところからも、

  • 本当にカントは「観念論」なのか?

という疑問がわいてくる。
同じようなことは、実践理性批判における「自由」についても言える。

我々人間は実際には様々な自然法則の影響を受けて、完全な意味での自由、「自由の理念」に到達することはできない。それ故、そのような自由が自己のうちに実在することを、----自然の対象の実在性を確認しうるようには----自ら直接確認することはできないかもしれない。しかし言わば間接的に、道徳法則を通して、例えば「自分で水を飲まずに、それを困った人に譲るべきだ」という思いを通して自由の理念を確認できる、というのは、ここで自由の理念は、水を困った人に譲るという規則を自らに課し、その規則に自ら従っている自立的な人間に実現されていると考えられるからである。しかし、人は実際にはそのような理想的な人間のように難なく自律的に振る舞うことはできないかもしれない。それにもかかわらず、そのような人にとっても理想的な人間の自律的な振る舞い方は、少なくとも「......すべし」という形で現れ、認識されるだろう。自由の理念は、本能的行為を選ぶべきか理性的行為を選ぶべきか迷い葛藤している人間にとって、理性的行為へと「強いる」「必然的前提」として、存在する。かくて自由が人間の行為に際して「必然的」なものとして----行為の動機の「前提」という成分においてにせよ----現れるという意味で、「客観的実在性」の相貌をもっていると言えよう。

カントの自由論の特徴は、その自由が、逆説的に「義務」という形で、あらわれる、というふうになっていることである。
普通に考えると、自由が「義務」というのは、矛盾である。しかし、そもそも、自由自体が矛盾のようにしか、積極的には語れない、とカントは考えているわけである。そうだとするなら、そこには、奇妙な形であるが、

  • 「......すべし」

という形で最初に自覚されない限りは、自らの「本能的行為」に
あらがって
行動を始めることはできない、という「客観的」認識を表明している、と考えられるわけである。
こういった認識を端緒にして、彼の実践理性批判が展開されているわけであるが、しかし、よく考えてみると、なんで、そこまでして、「実践」が語られなければいけないのかな、という素朴な疑問がわいてくる。

かくてカントにおいては悟性の立法や意志の立法という観念論的原理にもかかわらず、同時に、認識においては超越論的統覚と物自体との間に、また行為においては自由と自然目的との間に、人間と広義の自然との相互作用というモチーフが想定されていたと考えられる。そしてこのモチーフそのものは『判断力批判』のうちで主題的に扱われたと思う。

このように考えたとき、むしろ、判断力批判は、後からの付け足し、というより、ここにおいて、始めて、カントの言いたかったことは、十全に説明しえた、という実感が彼自身にもあったのではないだろうか。
つまり、判断力批判こそ、彼が言いたかったことの、主題が扱われ、完結している、というふうに読まなければけない、という意識に強くさせられるわけである。

カントの形而上学は理性によるアプリオリな認識ないし超感性的なものの認識とされたが、内容的には認識・道徳・美的経験という三つの領域において、ほぼ首尾一貫して、普遍的必然的である事実を人間の能力の側から根拠づけようとした試みであったと言えるだろう。認識の領域では、およそ対象が意識の外に客観的必然的に存在するという事実の根拠が感覚的所与のもと構想力と統覚と悟性の働きに認められ、道徳の領域では義務意識のうちで認められるような道徳法則の事実の根拠が実践理性の自由に見いだされ、美的経験の領域では美や崇高の普遍的必然的判断の根拠が構想力と悟性ないし理性との相互作用に求められた。しかし、そこには種々の問題点も認められた。認識の対象の根拠づけにおいては科学的実在論にとどまり、偶然的なものの実在性が無視された。自由をめぐっては形式主義的な心情倫理に留まり、意志に関する特殊的偶然的な事情や内容的要素が軽視された。美や崇高という美的価値も当初主観主義に根拠づけられるにすぎなかった。しかし同時に、そのような観念論的な立場にもかかわらず、カントは実際には実在論的な要素、あるいは人間と自然との相互作用というモチーフをも容認していた。彼は現象主義に陥るのではなく、現象の根拠として物自体の存在を認め、道徳と美的経験の場面では目的を実現する主体としての自然という自然観を容認した。また理論に対する実践の優位を説くと共に、理論と実践との共通の根を求めた。その限り、カントの形而上学の体系は多義的であった。そしてカント自身は、この多義性の綻びを無理に繕おうとしなかった。

驚くべきは、カント自身が上記で言われるような「多義性」に、なんらかの説明が必要だと考えていなかったようだ、というところにあるのではないだろうか。
つまり、むしろ、カント自身は、この一見、不完全に思われる、多くの矛盾があると思われる状態で、「よい」と考えた、ということであろう。
最初に書いたように、カントは確かに、形而上学を「批判」した。ということは、形而上学を否定した、ということであるから、なんらかの、今まで、形而上学と呼ばれていたような、超越的な議論を、彼は最初から、やる気はなかった、と考えていいように思われる。
では、彼は、なにをやろうとしたのか?
ここからは、私の「トンデモ」理論である。
私は以前、カントを「リスボン地震」について、考えた哲学者である、という仮説から、考察したことがある。つまり、彼の形而上学は、リスボン地震なしには考えられない。リスボン地震が彼に強いたものであったのではないか、と。
例えば、こんなイメージを考えてみましょう。日本の東北地方に、縄文時代に、縄文人が、やって来ます。彼らは、その東北地方の広大な大地を目の前にして、ここで、狩猟採集生活を、これから、はるか未来まで、続けることをイメージしたでしょう。そして、実際に、何百年の間、狩猟採集生活を行いました。
そして、彼らは、現代に至るまでに、何世代にも渡し、途中で、農耕生活にも、適応しながら、何度か、地震津波や火山の爆発などにあいながら、それでも、なんとか生きてきました。そして、311です。
広大な土地が、津波によって、破壊されました。その、焼け野原を見ながら、彼らは、何を考えたでしょうか?
つまり、カントは、リスボン地震で、多くの死者をだしながらも、

  • それでも

生き続けようとする人々を、「説明」する「何か」を、それ以前の形而上学とは別の形で、示すことを「欲望」した、ということではないのでしょうか。
地震で、多くの人が死にました。それだけの多くの死者を前にして、残された人々は、どうして、それでも、「生きよう」と思い、次の一歩を踏み出せるのでしょうか? つまり、カントは、「それ」は、旧来からの「慣習的な常識」では、説明できない、と考えた。もっと言えば、みんなが後を追って死んだとしても、少しも不思議ではない、と考えた。
しかし、311の後も、東北の人たちが「生きよう」としているように、過去の歴史において、実際に人々は集団自殺をすることなく、生きようとしてきた。だから、今の人類がある。
だとするなら、「それ」を説明する体系を、求めた、ということなのではないでしょうか。
カントは自分のこの理論が「合理的」であるかどうか、に興味がない。だからこそ、彼は、他の研究者から見れば、あまりに、穴が多いように思われていることにも、気にしなかった。
判断力批判の主題は、美や崇高の問題であった。しかし、それは、逆に言えば、地震津波などの自然の力を前にして、無力な人間が、たとえそうだとしても、前に進もうとし始める

  • 快楽

を指唆している、と考えられるであろう。つまり、カントにしてみれば、そういった、地震に直面して、かろうじて、生き残った人々の「姿」を、こういった形で指唆できたなら、あとは、どうでもよかったのではないか。
そもそも、それ以外のことに、興味なんか、なかったんじゃないだろうか...。