圧倒的みなみけ

中国では、戦後、一人っ子政策が続いている、と言われている。しかし、その実態は、どういうものなのだろうか?
村上春樹が、むかし、自分が一人っ子であることが、自分の小説に大きな影響を与えている、と書いていたような記憶がある。つまり、彼が言いたかったことは、一人っ子には、どこかしら、「異常」なところがある、ということだったのであろう。それだから、彼はそれを書くことには、意味があると考えた。
しかし、そんなことを言ったら、中国は、国家の強制によって、全員、一人っ子ということになっているのだから、つまりは、「全員異常」ということになってしまう。
村上さんが言いたかったことは、一人っ子が異常ということではなく、戦中から戦後にかけての日本においては、産めや増やせで、一人っ子の割合はそれほど多くなかったから、一人っ子はマジョリティではなかった。だから、一人っ子でない子供たちが共有しているような、ある種の、感性をもっていない一人っ子たちには、どこかしら「欠陥」があると、社会の側が判断しがちであった、ということが言いたかったのであろう。
しかし、こういった感性は、社会のマジョリティが一人っ子に変わっていくことで、あっという間に、消滅していったようにも思われる。
しかし、村上さんが言いたかったことは、もう少し、制度的な話だったのかもしれない、と思わなくもない。つまり、日本の昔から言われる、「イエ」制度のことを、想定していたのかもしれない。そのように考えるなら、こういった制度が、じゃあ、今の日本社会になくなったのか、と問われれば、その判断には多少の躊躇を、だれでも感じるのではないか。
今でも、結婚式のときは、表看板は、どこの家の子と、どこの家の子が、というような、書かれ方をしているし、そのことを意識して、やめようとしている人はめずらしいだろう。葬式のときもそうで、まるで今でも、江戸時代の檀家制度が存在するかのように、行われる。
江戸時代において、徳川幕府とは、たんに「イエ」であった。あれほど、巨大な行政組織が、一つの「イエ」にすぎなかった、と言われることは、おそらく、多くの人には、意味が分からないであろう。
しかし、そのように言ってしまうなら、「あらゆる」組織が、江戸時代においては「イエ」だった。企業組織も同じように、「イエ」という形態をとっていたし、そのことを誰も、不思議とも思わなかった。
だとすると、この場合の、「イエ」というのが、結局のところ、なんだったのか、ということが、不思議になってくる。日本の幕末において、維新を牽引した武士たちのかなりの割合で、「養子」がいたことが知られている。日本におけるこの、「イエ」というのが、たんなる、血縁を意味しているものでないことが、ここからも分かるであろう。
「イエ」と呼ぶ限りは、その組織体の「存続」が、第一の条件になる。そもそも、生まれても、すぐに、消滅するなら、組織体としての程をなしていない。しかし、存続するなら、「なぜ」存続しているのか、という問題が生まれる。
ある組織体が存続しているとき、一般に考えられるのは、その組織体が、その

  • 上位

の組織体において、なんらかの「役割」が与えられているから、と考えることができるであろう。だから、簡単には消滅させられない、となっている、と。これが「役の思想」である。
江戸時代において、上級武士の「イエ」は、簡単に消滅させることはできなかった。なぜなら、その武士には、なんらかの「役割」が、藩や幕府によって与えられているので、その「仕事」を、どこかが、引き継がなければならない、と考えられたから、である。
つまり、たとえ、子供に恵まれなかった家柄でも、養子をもらうなどして、「イエ」の存続を図らなければならなかった、と考えられる。
しかし、それだけに、とどまらない。もしも、子供に恵まれたとしても、その子が、家督を継ぐにふさわしい、「能力」を得ることができなかった場合、その子に家を継がせることはできない。なによりも求められるのが、「役割」であるから、この場合も、養子をもらう必要がある。
明治の維新の志士には、こういった養子で、上まで上りつめた、下級武士の子供が、かなりいる。逆にいれば、こういった存在を容認できる、このような「下剋上」的システムがあったからこそ、明治維新は、あそこまで、進んだ、と考えられるのかもしれない。
以前にも書いたことであるが、アニメ「Fate/stay night」を見ていて、関心したのは、朝ご飯の光景であった。たたみの上の、大きなちゃぶ台の周りを囲み、お茶碗にご飯を盛り、お味噌汁の、日本食を、毎日、みんなで食べる。そこには、当たり前のように、イギリス人女性のセイバーも、いる。彼女も、正座をして、おかわりをする。
こういった光景が、非常に印象深いのは、ようするに、私たちが、子供の頃、

  • 毎日

繰り返していた行為だからである。つまり、ほんとにあきもせず、毎日、毎日、これをやっていた。だから、アニメ「Fate/stay night」で、そういう光景を見せられると、当たり前にように、そういった毎日行っていた行為の、

  • 記憶

が、刺激される。毎日やっていたのだから、それだけ、たくさんの「ストック」が、私たちの脳の中には存在する。そんなもんだから、その光景は、恐しいまでの、

  • ネタの宝庫

なわけだ。
同じようなことを、例えば、アニメ「みなみけ」には感じる。このアニメも、3姉妹の日常の光景を、ただ、たんたんと描いているだけの、いわば「なにも事件の起きない」、

  • 日常系

であるが、このアニメを見る側には、なにか「恐しい」までの、

  • デジャブ

のようなものを、想起させられる。例えば、以下は、第一期の「無印版」と呼ばれる、テレビアニメ「みなみけ」の、第1話であるが、この30分に、そのイメージの「全て」が、すでに、詰め込まれている。

原作第1巻の、巻頭カラーと第1、2、12話によって、構成されているが、このアニメ版は、原作の、どうしても「スタティック」な印象を、まぬがれない印象を受ける、漫画のコマ割りにおいて、ダイナミックに、

  • カナ

を「動かしている」ところに、(賛否はともかくとして)このアニメ「みなみけ」を、決定的に、特徴付けた印象を受ける。

  • 最初の、「もっとかまってくれてもいいんじゃない?」と言う場面の、カナのくねくねとした動き。
  • カナがチアキにキスをしようとして、部屋中を、かけ回る動き。
  • カナが学校の下駄箱に、ラブレターを見つけて、家まで走って帰ってきて、ちゃぶ台の上に、ダイブする動き。
  • もてる姉をチアキに自慢する、ちゃぶ台の上で、クルクル回る動き。

これらは、原作では、ほぼ一つのコマで表現されているだけである。つまり、こういった動きは、完全に、アニメ側の「オリジナル」だということである。
おそらく、アニメ制作側は、この第1話で、なんらかの強烈な印象を残そうと、一発「かました」と言えるのではないだろうか。
なぜ、これが「おもしろい」のか?
一言で言えば、ようするに、「こういったことを、昔、子供の頃に、やったよな」という強烈な既視感に襲われるからである。
彼女たちの、家の中で、くりひろげられる姿は、どの場面を見ても、昔、私たちが子供のころ、「一度はやったよな」といった場面ばかりである。
たとえば、チアキが、カナが、なにげなく言った、「あれだな」とか「バカ野郎」などの、言葉を、どんどん、「自分のもの」、自分のボキャブラリーにしていく姿も、ああ、そういえば、弟や妹って、そういうところがあったよな、と思わされるものであろう。
(アニメ・オリジナルの場面であるが)最後の方で、カナが「戦いのリングー」って、言う場面があるが、これも、バカっぽい。なんで、「リングー」って、変なイントネーションなのかな、とかで、そういった、細かな部分がそれぞれ、

  • あー子供の頃って、こんなだったよなー

と思わさせられるわけである。
そういうもんで、子供の頃なんてのは、こんなようなバカなことばかり、ずっと、やっていたわけで、それが、子供の本性みたいなもんだよなあ、と。
しかし、他方において、そのことを考えるなら、つまりは、これがここまで印象的であるのは、つまりは、「家の中」という、

  • プライベート

な空間であることが、大きいように思われる。つまり、「プライベート」というのは、非常に「思い出」属性が強いということなのであろう、と...。