槌田敦「これは事故を超えて犯罪だ」

福島第一原発の事故は、「犯罪」なのだろうか?
これについて、なんと、政府の事故調査委員会の報告書は、「問わない」として、まとめられた。これによって、政府の事故調査委員会の報告書は、たんなる、ゴミ屑になってしまった(つまり、責任を問わないよ、と言われて発言されたものに、どうやって「真実」性を私たちは担保すればいいのか? どうせ責任を問われないと言われたら、その時の、さまざまな利害関係者の都合で、なんとでも言うだろうし、逆に、「言わない」という選択だって、ありうるだろう。だって、その内容の可否について、後で問うてはならない、と決めているのだから。普通に考えれば、だれにも、迷惑をかけない「範囲」でしか、なにも語らないだろう orz)。
この福島第一の事故について、エントロピー学の迫田敦さんが、その事故の全貌の解明を行っている。また、各月で、公演をされている内容を、ユーチューブで見れるようにされていて、毎月、1、2時間という長い公演であるが、これにより、その全貌が、かなりわかるようにはなっている。

事故調査の報告書には、民間と東電と国会と政府の、4つのものがある。ところが、これらの報告書においては、驚くべきことに、この事故において、何が起きていたのかを通時的に記述されているものではない。つまり、結局のところ、ファクトとして、福島第一の原発に、何が起きていたのか、なぜ爆発したのか、記録されたデータを説明する最も妥当な「推理」は、どんなものなのか、といったことが書かれていない。
つまり、そういった事故の全貌を示そうとしている文章は、唯一、掲題の本だけではないのか、という印象を受ける。
私は、ぜひとも、ネット上で、「風評被害」や「トンデモ科学」を批判されている科学の知識のある方々に、この槌田さんの主張されていることに、

  • 反応

してもらいたいと思うわけです。間違っているなら、そうだと言えばいいし、そうでないなら、そうだと言われればいい。
ここでは、第10章における、サブタイトルを拾い上げることで、おおよその、槌田さんが問題にしていることが、なんなのかが見通せるのではないかと思われるので、やってみたいと思う。

  • PPP、刑法、民法適用の条件
  • 刑事事件1:未必の故意による傷害致死
  • 東電は巨大原発事故が起こったときの被害の大きさを知っていた
  • 未必の故意としての原発災害
  • 立地条件の改悪と形ばかりの防波堤:歴代社長の罪
  • 高圧注水系電源の津波対策を怠った:勝俣会長の罪
  • 原子炉内の計測を7時間以上も不能にした:歴代社長の罪
  • 水素逃し口を作らず、1号機の建屋を水素爆発にいたらせた:歴代社長の罪
  • 1号機における非常用復水器の欠陥を放置:勝俣会長の罪
  • 2〜6号機における残留熱除去系から蒸気凝縮系を削除:勝俣会長の罪
  • 刑事事件2:業務上過失による致死傷罪
  • 吉田所長の過失が福島事故による災害を拡大した
    1. ECCS高圧注水系の使用を躊躇した
    2. 非常用の交流および直流の電源の回復と接続を後回しにした
    3. 海水注水にこだわった
    4. 2号機と3号機の原子炉圧力容器の逃し安全弁を開けた
    5. 1、2、3号機の格納容器をすべてベントした
    6. 中性子計測結果を改ざんした疑惑
    7. 4号機原子炉に核燃料を運び込んだ疑惑
  • 民事事件としての福島原発事故
  • 東電はなぜ犯罪に追い込まれたのか

私は上記の指摘の中でも、一番の問題は、今だに、東電の発表した記録に、自分たちの都合の悪い内容を隠蔽したり、あわよくば、改竄したり、ということがあるんじゃないのか、という疑いであると思われる。というのは、もしそういったものがある限り、今後も何度も、同じ間違いを日本社会が行うことが予想されるからだ。
掲題の論文で、最も気になるところは、以下であろう。

3号機の爆発は、垂直に300メートルと高く伸びる黒煙であった(図7-6)。水素爆発では黒煙にはならないから、これは水素爆発ではない。

3月11日11時、3号機建屋での爆発は使用済み燃料の一時貯蔵プールで起こってる。その爆発の結果、高い放射能がれきが散乱した。これは、使用済み燃料プールでチェルノブイリ型爆発があったと考えられる。水蒸気爆発も伴って火山爆発とそっくりの爆発である。
まず、使用済み燃料プールに地震で亀裂が入り、水が徐々に失われると、燃料の上部が空焚きになる。その結果、ジルコニウムで作られている被覆管ペレットは水中に崩れ追ちる。この酸化ウランペレットを含むがれきは発熱しているので、積み重なったがれきの中の水は蒸発して、なくなる。
ところが、がれきが割れて、水ががれきの中に侵入することがある。このようにして、燃料のまわりに水が供給されると、核分裂反応の臨界が始まる。水は核分裂反応を引き起こす減速材なのである。核分裂反応が起こることで発熱すると、今度は水が燃料のまわりから押し出され、臨界は終了する。
このようなことが何度も繰り返されているところへ、新しい燃料が落下してくると、チェルノブイリで経験したような水蒸気爆発を伴う核爆発になる。使用済み燃料プールは深いので、プールは高射砲の砲身となり、爆発によって黒い煙を300メートルも吹き上げたのである。

世界の原子力では、平和利用関係施設でも核爆発すると認めることはタブーなのである。その意味で、チェルノブイリ原発の核爆発も公式にはまだ認められていない(槌田敦原発安楽死のすすめ(エネルギーと環境:改題)』学陽書房、1992年)。

つまり、そもそも、原発技術には、さまざまな「タブー」があり、それを「隠蔽」するために、東電も日本政府も、本当のことが話せないからこそ、東電は、さまざまな、情報の隠蔽をやっているのではないのか?
本当は、もっと話せないことが、たくさんあるのではないのか? どうも、きなくさいわけである。
(最後に、少し、文脈と違うことを書いて、終りにしたい。)
私はここのところ、ドイツ観念論についての論文や本を読んでいるのだが、そうすると、この運動がカントの3批判書の「衝撃」から始まっているとして(実際は、ラインホルトという、当時の浅田彰のような人がいて、その人が「形式化」したカント像が、きっかけ、ということのようだが)、では、なぜヘーゲルの登場によって、この「騒乱」は、ほとんど、落ち着いたのだろう、と考えたときに、つまり、カントの形而上学「批判」という形式が、一つの

  • 革新思想

として受け取られたところにあるように思われる。そのため、フィヒテシェリング、そして、ヘーゲルは、なによりも、

  • 保守思想

として、少なくとも、カントのラディカリズムを中和する運動を行わざるをえなくなる。つまり、

を「保護」するような、言論活動が、どうしても求められた、と考えられるのではないだろうか(事実、ヘーゲルは、そのもの、キリスト教神学から、議論を始めている)。
では、なぜ、ヘーゲルで、この運動が、急速に終了したのか。それは、ヘーゲルが、この「宗教」の側の「国体保持」を、直接、

  • 国家

に結びつけたから、ではないか。

第二に、宗教の問題は更に国家の問題との関連でも捉えられていた。キリスト教の実定性は『キリスト教の精神とその運命』の最後で示されたように、教団と国家との対立に根ざしているが、教団と対立しているような国家は、ヘーゲルによれば、「全体」を原理とする真の国家ではない。「国家の原理が完全な全体であるならば、教会と国家とは別々ではありえない」(Ros. 88)。そして目下のドイツ国家は全体と部分、また部分相互が分裂しており、それ故「一つの国家への結合」(Sk. 1, 604)が課題となっている。つまり国家は宗教と同様な問題を抱えていると見られる。事実、ヘーゲルは『キリスト教の精神とその運命』の執筆に続いて『ドイツ国制史論』の執筆に取り組み始め、そこで上述の人間と自然との対話的連関の洞察をドイツ国制史に適用しようとしたと思われる。かくてユダヤ民族の運命がアブラハムの故郷からの離反による世界との敵対に由来したのと同様に、ドイツ国家の分裂と敗北の運命は各構成部分が「孤立化しようとする」(Sk. 1, 604)「ドイツ的自由」に由来したと分析される。それ故、真の統一国家を樹立するためには、問題をそのような「運命への反省」(Ros. 88)において捉える必要がある。それを行うのは、彼によれば、詩と共に「形而上学」(Ros. 89)である。「形而上学」において「諸制限が全体との連関で自らの限界と必然性を獲得する」(同上)という。

つまり、古代中国の統一王朝において、ほとんど科学の発展が見られなかったように、ヘーゲルによって、だれもが国家のお窺いを立てずには、なにも発言できない、国民が全員「御用学者」的に、「エア御用」的になる、

  • 政治の時代(=個人の国家有機体への浸透)

に入った、と考えられた、ということなのだろう、と。一般に、ヘーゲルは「自由の哲学者」と考えられているが、他方において、個人の国家への「有機」的な

  • 同一化

を、さかんに文章に書いた人でもある。
ひるがえって、前半で書いた、槌田さんも指摘しているように、今回の東電の福島第一事故のかなりは、もしも、お金をけちることなく、安全対策を行っていれば、かなりは、防げたのではないか、と考えられている。しかし、このことを逆に言うと、そういった、次々と分かってきていた安全対策の必要性を行っていては、もはや、原発は「安くない」ことが分かってきていたからこそ、次々とそれを「けちっていた」わけで、そうやって、日本の原発推進派も、反原発派も、両方が、

  • 真相究明

をタブーとし、柏崎刈羽や福島第一の事故で「教訓」とされた、最低限の安全対策を「もったいない」という、経済的理由で、再度、目をつむり、関西の原発の再稼働を進めるならば、それは、戦前に見られたような、

  • 日本の政治の時代(=個人の国家有機体への浸透)

が再度、始まる、ということを意味している、ということにならないだろうか...。