暴力とは何か?

ここのところ、個人の「暴力」が、SNS上で、さまざまな「有識者」によって、糾弾される現象が頻発している印象を受ける。
桜宮高校のバスケ部の顧問による部長への「体罰」を原因としたと思われる「自殺」から始まり、女子柔道日本代表監督の「暴行」、AKB48の女性の丸刈りと、さかんに、「有識者」が、多くは、「批判的」にとりあげている。
しかし、そういった「有識者」の発言を読ませられる、私たちにとっては、その指摘が、どこか「抽象的」な印象をまぬがれない。
なにか(高橋洋一さん言わく)「フワッとした議論」をしている印象を受ける。つまり、圧倒的に「正義」である、リベラルの側に、自分を置いて、遠い所から、一方的に、(自らのエリートとしての立場と、その「影響力」を利用し、この発言による「炎上マーケティング」の「ステマ」効果に期待して)

  • 言葉の「暴力」

によって、

  • リンチ

をしている、と言えるのではないだろうか。
どうして、私がこういうことを言いたいのか、というと、2点ある。まず、

  • 「暴力」とは何なのか?

である。これについて、いわゆる「有識者」は、手や足で、他人の肉体を殴ったり蹴ったりしたら、「暴力」と言うのだろう。しかし、その定義は、どこまで「普遍的」であろうか。絶対に「愛情」の入っていない、手や足で殴ったり蹴ったりする行為は、ありえないだろうか?
つまり、手や足で、他人の肉体を殴ったり蹴ったりする行為によって、「結果」として、相手に、なんらかの肉体的な障害が残った場合は、「深刻」である。しかし、だとするなら、その「境界線」は、なんなのか、ということになるであろう。相手の手を握ることや、肩を組むことなど、なんらかのスキンシップであっても、相手が「不快」に思うことが、ないとまでは言えないだろう。だったら、こういったものも「暴力」と呼ばないことには、いけなくなるのかもしれない。
このことを、もう少し違う側面から言うと、「言葉の暴力」ということがあるだろう。ある、頭のいいエリートが、口先で、学歴のない貧乏人を「だまして」、その貧乏人を「怒り」に震えさせて、キレさせて、なんらかの暴行障害事件を起こさせた場合、本当に、この「エリート」には、

  • 責任

はないのか? ということになるのかもしれない。
このように考えていったとき、はたして、「暴力」とは、なんなのか? という疑問に、どうしても、ぶちあたらざるをえないんじゃないか、と思うわけである。
ある人が、なんらかの「ある他人を自分の思う通りに動かしたい」と「欲望」したとき、それは、すでに、「暴力」の「発芽」になっているのではないだろうか?
というのは、心理学的な「解釈」ではあるが、ある人の中に生まれた「欲望=暴力衝動」は、なんらかの形で、

  • 昇華

されない限り、その人の中から、そう簡単には消えないのではないか? と考えるからである。
古代ギリシアから、最近のアメリカまで、世界中で、人類は「奴隷」制度と不即不離に生きてきた。しかし、その場合に、「なぜ」奴隷制度は、

  • その時

「当たり前」のように、「存在」したのか、という「存在論」が、そこでは、忘れられている。

南部の農業でその技術がついに機能し始めたときには、産出高は飛躍的に増大した。もちろん、農民とその雇い人の生産性も上昇した。それゆえ、余剰な雇い人は解雇され、分益小作人は立ち退かされた。借地人や小規模経営者の農場は大農場に併合されたが、借地人や小規模経営者はそれに加えられなかった。ヘンリー・グラディとカーターのジョージア州では、一九三〇年には、農民および農場労働者は約一五〇万人いた。五〇年後には、二二万五〇〇〇人になり、三〇万以上あった農場は、統合れて七万未満になった。カーターの少年時代には、州の就労人口の過半数を農民が占めていたのに対し、現在はわずか四パーセントである。

発展する地域 衰退する地域: 地域が自立するための経済学 (ちくま学芸文庫)

発展する地域 衰退する地域: 地域が自立するための経済学 (ちくま学芸文庫)

なぜ、人類は長い間、「奴隷」制度を手放せなかったのか。その理由は、このように、逆に、「なぜ近年、比較的に、奴隷的な扱いを人類はしなくなってきたのか?」と問うてみるといい。つまり、明らかに、「テクノロジーの発展」がそこにはある。それによって、人そのものが、田舎の農地には、

  • 不要

になってしまった。それくらいに、数えるほどの人数で、農業ができるようになった。しかし、そうなる以前においては、機械の代わりに、重労働を行っていたのは、

  • 人間

であった。つまり、「誰か」がやらない限り、農作物の刈り入れもできない。つまり、「なにも農業をやらないのと同じ」ことになってしまう。そう考えたとき、「常に、どんな、こちらからの命令にも、OKと答えて、その答えを実行してくれる便利な人が欲しい」と思うであろう。だって、そういう人がいれば、単純の「農作業に成功する」から。
このように考えてきたとき、「身分」と「奴隷」は簡単には区別がつかないことがわかってくる。江戸時代の士農工商の武士による、切り捨て御免にしても、ようするに、

  • 私刑

が「許された」ということなわけである。たんに、ある武士の「機嫌」を損ねただけで、庶民は、その武士に殺され、「社会」はその武士の行為を罰しない。
これは、近年、言われている「体罰」と似ている。「体罰」とは、「罰(ばつ)」のことであり、ということは、どこかに「罪(つみ)」がなければならない。ところが、「体罰」という「制裁」を下すのは、

  • 一個人

であることから分かるように、その「罰」に対応する「罪」は、一貫して、その「個人」から発生する。
ところが、近代法においては、「私刑」は禁止されている。一切の罰は、国家制度である、警察組織であり裁判制度によって、行われなければならない、となっている。つまり、「体罰」という言葉を、比喩としてでなく、言葉の作り上の「そのもの」から解釈をしたとき、そもそも、「体罰」を行えるのは、警察組織や裁判制度が「法律」の基づき行うこと「しか」できない、ということになる(そうでなければ、「体罰」は「私刑」になってしまうから)。
大事なことは、一般に、相手を蹴る、とか、相手を殴る、と言った場合に、「蹴る」「殴る」という「言葉」そのものが「暴力」と「等値」されて理解されている、ところにある。つまり、たまたま、手や足が、満員電車の中で相手にぶつかったときには、こういう表現を「しない」という「含意」が、「解釈者」の中で勝手にされてしまっているため、例えば、「物理的な事実」を、裁判の場で「認定」する、というような「先験的」な「判断」を

  • 疑う

ことを軽視している印象を受ける。
つまり、そもそも、「暴力」とは、近代社会においては、

  • 裁判用語

と考えるべきなのではないのだろうか? 近代法において、「暴力」とは「罪」であり、「法律違反」となる。しかし、問題は、何が「暴力」なのか、である。つまり、それは、「誰」が判断するのかに、問題は収斂するのである。
ある社会で話題にされる「事件」があったときに、(法的な)その「犯罪」性は、どのように確定されるのか、といえば、それは、裁判所において、となる。ここにおいて、原告と被告は、それぞれ、事実認定から始まって、お互いに、その解釈に対して、弁明なり反論を行う。それを受けて、裁判長が「判決」を下す。一見すると、これで「罪」が「確定」するように思われるが、そうとは限らない。つまり、被告が「控訴」をすれば、上告審において、再度争われる。
つまり、「暴力」とは、こういった「裁判ゲーム」が、確定する「ゲーム」なわけである。
上記で、大事な点は、原告と被告の「それぞれ」が「それぞれ」の主張を「十全」に「弁明」している、という形になっていることである。つまり、このゲームの形態のポイントは、

  • 欠席裁判

をしないことにある、と言えるのではないか。つまり、暴力を行ったとされる方、暴力を受けたとされる方、それぞれが、弁明と反論を行っている

  • アリーナ(言論空間)

を構築しない限り、その「判定」は、上記にある「ゲーム」性を損ない、私たちの「暴力判定」の質を著しく低下させる。
(このような視点から考えたとき、私がむしろ気になるのは、高校や大学における、学生の「強制退学」や「強制停学」の方の

  • 暴力

だ。こういったものの「実態」は、ほとんど、社会に「公開」されていない。学校という密室の中で、教師たちによって「私刑」され、子供たちは、まだ、社会への判断力をもたない段階で、泣き寝入りさせられている、という疑いが強い。むしろ、こういったことを高校や大学を行う場合には、なんらかの、パブリックな簡易裁判のような形式のものによって、その情報をオープンにして、

  • 教師による「私刑」

を絶対にさせない、という社会の側の「防御装置」を作っていく必要さえ感じるわけである...。)
上記の最初に上げたケースにおいて、一番気になるのが、AKBの女性の丸刈りであろう。この場合、本人は自分だけで考えて決めた、と言っているようであるが、本当にそうだと解釈できるのか、という論点があるだろう。また、たとえ、本人が勝手に行って、勝手に動画で謝罪したのだとしても、一人のビジネスに関わる人間が、そういった行為を行うことの「常識のなさ」のようなものを指摘したくなる面もあるのかもしれない。
しかし、このケースにおいては、最初に上げた、その他のケースと明らかに違うのは、「被害を訴えている当事者がいない」ところにある、と言える。つまり、その丸刈りの女性が「自分が強いられた」と訴えて「いない」のだから、だれも「暴力」であり「犯罪」を訴えていないため、上記の「裁判ゲーム」が始まらない。つまり、上記の議論のポイントである、その「暴力」の、

  • 事実認定

が「確定することはない」(もしかしたら、どこかの第三者が、丸刈りを強いたと「想定」される、芸能会社関係者を訴えるのかもしれないが)。
つまり、この場合に問われているのは、そもそもの、AKB「ビジネス」と言われているような、「文化」であり、その「文化」が、上記のような「丸刈り」を安易に、当人にさせてしまう雰囲気を醸成しているんじゃないのか、となるのだろう。
しかし、このことは、上記で引用した、アメリカの農業で、ほとんど人が不要になることで、奴隷が「不要」になっていく過程と、どこか似ている印象を受ける。AKB「ビジネス」は、つまりは、儲かっているわけであり、この儲かる「ビジネス・モデル」を維持していこう、というモチベーションが、このビジネスをしかけているサイドにはある。AKBが儲かっていることが、そのメンバーの「モチベーション」にも関係しているわけであろう。
そのことは、日本の農民たちが、たとえ、武士によって、不法狼藉をされても、お咎めなしだったとしても、一揆もせず、忍従したことや、昔のアメリカ黒人奴隷が、屈従の日々を送っていたことと同様で、つまりは、

  • 生きられる(ビジネス的に、毎日を食べられていた)

という「事実」性があったから、であろう。
私が言いたかったのは、むしろ、逆のことで、AKBの丸刈りの当人が、もしもそういうことをした場合に、どんなふうに、社会的に「解釈」されるのかを分からずに、自分で勝手に行ったとするなら、それは、かなり「ナイーブ」に軽率なことではあるが、ある意味(子供っぽいと言われるかもしれないが)、

  • 純真な心

に起因する行為とも受け取られるわけで、単純に(言論によって)「リンチ」をする方が、ずっと「暴力」だ、とだって言えなくもないわけであろう。
つまり、

  • 当事者の時代

は、どうしたんだ? ということなのだ。私の保守主義的な視点においては、単純に、過去の人類の歴史を、

  • 中世暗黒時代

と言って、単純否定したいとは思わない。日本の士農工商にしても、アメリカの黒人奴隷にしても、少なくとも、彼らは「生きた」のであるなら、そこには、(不十分であったとしても)なんらかの「駆け引き(ゲーム)」をやっていたはずであろう。
だとするなら、「基本」の原則は、当人の判断や生き方を「尊重」することから、あらゆることは始めるのは当然なんじゃないのか、というところにある。つまり、私が言いたいのは、物理的暴力(この場合は、丸刈り)を、(エリートという特権からの)言論的「暴力」によって、一方的に糾弾するような行為が

  • 気持ち悪い

ということである...。