安冨歩『合理的な神秘主義』

私はつくづく、人文系学問というのは、まったく、オーソライズされていないよな、と思わずにはいられない。
つまり、なぜ人文系学問は「実証」をおろそかにするのだろう?
福島第一の低線量放射性物質の人体への影響において、あれほどの人たちが、

  • デマ
  • トンデモ

と批判していたのに、なぜ彼らは、人文系学者たちが語る話に対して、そのように批判しないのだろう?
(このことは、ソーカル事件の後も、「なにも変わっていない」のではないか!)
橋下市長は、たんに、過去の従軍慰安婦の「必要性」を言ったのではない。というのは、彼は、「なぜ従軍慰安婦が必要だったのか」を、ある

  • 推論規則

によって説明したからである。

「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」
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言うまでもなく、これは、日本の過去の戦争の一回の問題ではない。どんな場合でも成立しうる「推論規則」だ。どんな環境においても、

  • 上記の条件を満たす「ならば」

慰安婦制度は必要」だと言っているのだ(言うまでもないが、規則と言っても、あくまで、橋下さんが主張しているだけである。つまり、「人々の合意」によって生まれた、なんらかのオーソライズされたものでもなんでもない)。
これを、過去の日本軍のことについての限定されたものだ、と本人が言ったとしても、大事なことは、その必要となる理由が、別に過去の一時点に限定される内容になっていないのだから、当然、「一般化」の推論にいずれは向かわざるをえない、そういう認識に向かわざるをえない、ということである(それが、女性版徴兵制による公営従軍慰安婦であることは、分かりやすい理屈であろう)。もしそうでないというなら、そこに隠されている別の条件を本人が「追加」するなり、この命題自体を破棄するなり、となるのではないか(というか、そもそも、そういう意味で「間違った」なら、その場ですぐ、「訂正」すればいいんじゃないのか。それだけのことであろう)。
(そういう意味では、言うまでもなく、東さんが、上記の言明のある種の「擁護」を始めたとき、それは「過去の日本軍」に限定される推論ではまったくなかった。)
東さんが人間の食欲や性欲を「事実」性として語る姿は、どこか痛々しい。それは、一言で言えば、ポリティカル・コレクトネスを感じられないからである。
「食欲」や「性欲」という言い方は、そもそも、心理学のような学問の中で使われるものであろう。つまり、ある「仮説」として使われているにすぎない。
しかし、その「因果関係」が、もし実証的なものであるとするなら、話は難しくなってくる。
つまり、私たち人間は、食糧を食べないと飢えて死んでしまう。セックスをしないと、子孫を残せず滅亡してしまう。もしそういったことをだれもがやらなかったら、今ここに人類はいなかった、ということになる。つまり、

  • 事実

として人間は食糧を食べてきたし、セックスをしてきた。
しかし、だからといって、

  • 人間には食欲や性欲が「ある」(人間の本性として組込まれている)

と言ってしまうと、センシティブな話になってくる。

  • もし「ある」と言うなら、それによってなにかを「強いられる」ことは不可避だ

ということになる。つまり、

  • 本人に責任を問えるのか

という問題となる。つまり、もしそういうものが「ある」ということなら、どうやって、そういったものを含めた「合法性」を構築するのか、という問題に進まなければならなくなる。つまり、法律の文章の中に、「人間には欲望があるから、刑罰を重くするとか軽くするとか無罪にする」といったような記述がでてこなければならない。
現在の法律は、言うまでもなく、なんらかの社会的な「フェアネス」を目指して構築されている。それが「法の下の平等」ということであろう。しかし、人間には欲望が「ある」と証明されたなら、あらゆる人間の行動は、その欲望によって

  • 傾斜付け(重み付け)

しなければ、フェアな扱いではない、ということになるであろう。
もし男性には性欲が「ある」のだから、レイプをすることは避けられない、と言うなら、法律は、レイプをした男性の「責任を問えない」ということにならないか。つまり、法律はレイプを「合法化」するということになってしまう。なぜなら、その性欲は「ある」のであり、それに強いられて「やってしまう」というわけだから。そしてさらに、

  • そういった性欲が「ある」といった場合、では、人によってその「強度」はどれくらいか、という話になるであろう。

つまり、この話はすぐに「優生学」に繋がるのだ。
たとえば、食欲の大きすぎるアメリカ人はデブばかりで、人種として劣っている、とか、アフリカはレイプ犯罪が多すぎるから、黒人は性欲の強すぎる危険な人種だ、とか、そういった話と非常に相似になってくる。
つまり、人間には、なんらかの欲望が「ある」と言った時点で、さまざまなポリティカル・コレクトネスからみて、危ない議論になりがちだ、ということである。
例えば、

  • もし、現在の心理学が、人間の欲望を「証明した」と言うなら、現在の法体系は、必然的に、「それを前提に構築されなければならない」

ということになるであろう。それに基づいて、法律が記述されなければ、法の「フェアネス」が保たれない。なぜなら、そのようにオーソライズされたのだから。
では聞くが、そういった実験なり、実証なりが一つでも存在するのか? その場合、その人間の欲望なるものは「どのように定義されているのか」。
では、逆に、じゃあ、現在の社会システムは、この問題をどのように考えているのか、と問うてみよう。
私はそこに間違いなく、ジョン・ロックの影響があると思っている。アメリカ建国を行うに際し、ロックの社会契約論の与えた影響は大きいだろう。しかし、タブラ・ラサに基づく教育論を始め、そういった思考から必然的に導かれる王権神授説の否定など、そもそも彼の人格知識論なしに、アメリカ建国は

  • あのようにはなかった

ということなのではないか。

けれども、ロックの議論にはもう一つの注目すべき論点が含まれている。意識に訴えて人格同一性を捉えるべきことを表明した後、ロックはまず次のような注目すべき発言を記す。

この人格同一性に賞罰の正しさと正当さは全面的に基礎づけられる。(2.27.18)

さらにロックは、この「同一性と差異性について」の章の終わりに近いところで、自らの議論を総括するかのように次のように述べる。

人格とは、行為とその功罪に充当する法廷用語(a Forensic Term)である。したがって人格は、法を理解することができ、幸・不幸になりうる知的な行為者にのみ属する。(2.27.26)

すなわちロックは、人格とは本来的には法廷で問題となるような行為や賞罰に絡む概念である、と主張するのである。

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

例えば、そもそも人間以外の動物が、法廷に呼ばれることはない。それは、「彼ら」動物が、

  • 法廷の主体ではない

からである。つまり、人間における人格(や人格同一性)といったものは、あくまで、

  • 法廷的

に「使われている」ということなのである。つまり、私がここでこだわっているのは、東さんが「人間には欲望がある」と言うことに対してではなくて、もしそう言うんだったら、それを

  • 前提

にした法体系を想定することとセットに話さないと、話のバランスがとれていないんじゃないのか、と言っているわけである。
しかし、ここまで考えてきて、私はこの人は、自らをポストモダニストと呼ぶけれど、実際のところは、けっこう素朴な「決定論者」なんじゃないのかな、という印象を受ける。

ぼくの文章を読み直して欲しいのだけど(どうせ言葉では真意は伝われないのだけどw)、ぼくの主張は「真実がない」ではなく「真実には言葉だけでは辿り着けない」です。裏返せば、解釈の余地がない(少ない)一次資料の発見が重要ということですよ。
hazuma 5月15日 14:00

ここで言葉「だけ」と言っているのが、よく分からない。つまり、ここで彼が演じているのは、どちらかというとプラグマティストなのではないか。
(それは、リチャード・ローティが晩年、突然、「アメリカ」ということを言い始め、アメリカン・ナショナリストとして、アカデミック・左翼を批判し始めたことと似ているのかもしれない。 )
つまり、この人なりの、なんらかの「バランス感覚」で実践的に発言している、ということなんじゃないですかね。

まずは身体的な欲望の充足という単純な現実があって、そのうえにいろいろ文化的な約束事とかコミュニケーションとか重なってくる。そりゃだんだん上層部分が分厚くなって身体的欲望が見えんくなってくるときはあるけれど、基礎的な構造を無視するのもどうかと思うな。
hazuma 5月16日 18:17

つまり、どうしてポストモダニストが「欲望決定論」になるのかが、分からない、と言っているんですけどね。
最近、掲題の本を読んだのだが、この本を読むと、掲題の著者が、どういった問題意識をもっているのかがよく分かる。というのは、おそらく、

についての認識であり、それに対する「真剣な受容」が、著者を「こういった考察に向かわざるをえなくさせた」ということなのではないだろうか。
たしかに、今の哲学者で確率論的な問題意識をもっている人は、それなりにいると思う。しかし、彼らがどこまで非線形性のことを考えているのかは、非常に怪しい(そのことは、彼らが非線形性について語らない。語らずに、過去の哲学者にナイーブに言及している、というところに端的に現れている)。

ラニーは、たとえどんなに科学的な知識があっても、それは純粋に個人的な「知る」という過程の作動なしにはあり得ないことを、自らの科学者としての経験に基づいて示した。しかも、「知る」という過程を知ることは、原理的にできないので、これを「暗黙知(tacit Knowing)」と名付けた。彼が強調したことは、知る、という過程を知ることができるのは、知っている本人だけであるが、知るという過程を知ろうとすると、知る過程そのものが止まってしまう、という問題である。

カール・ポラニーの「暗黙知」というのは、素朴に考えるなら、人間の思考過程をそう簡単に「決定論的」に記述できないだろう、という認識のことだと言えるだろう。つまり、人間の思考は言うまでもなく「非線形」だと言いたいのだ。
というか、そんなものでは済まないのである。というのは、むしろ、

  • ほとんど全て

の現象は「非線形」だと考えるべきなんじゃないのか、とすら言えるからである。

(1)の意味は、最初の状態がほんの少しでも違っていると、その後の経路が全く違ったものになりうる、ということである。つり、システムの本質を理解しており、ある時点での状態が正確にわかっていれば、その後の振舞をすべて予測できる、というのが、ニュートン力学以来の「科学的方法」のウリであったが、それが否定されてしまったのである。また、(2)は、システムの本質を描写する方程式というものが、ほんのわずか違うと、振舞いが本質的に異なってしまう、という意味である。これもまた、先ほどの「科学的予測」というものに深刻な打撃を与える。決定論的カオスの持つ、初期値不安定性と構造不安定性との持つ含意は重大である。というのも、水の流れにカオスが見られることから明らかなように、我々の暮らすこの世界は、カオス的な性質を持つものに満ち満ちているからである。

このことが、どれだけ深刻な事態なのかは、例えば、20世紀における一つの数学の世界での現象であった、フランスのブルバキ集団が出版した教科書である数学原論が、まったくもって、

  • 線形性

というアイデアによって、全ての数学の「構造化」を目指していたものであったことにもあらわれているのかもしれない。
よく考えてほしい。数学における上記の引用のような非線形性の問題が注目されるようになったのは、つい最近の話なのである。つまり、このことは、それ以前には、ほとんど知られていなかったわけである。つまり、それ以前の哲学者は、この問題をほとんど考えていなかった可能性がある。

  • ほとんどの現象は非線形性である

と言ってもいいくらいであるのにもかかわらずである。つまり、そういう意味で、

  • 哲学の危機

なのだ。そういった問題意識から、この本は、古代の哲学から、現代までの哲学の再構成を目指して、過去の哲学者の抜本的な系譜付けの見直しを行っている。
例えば、ホイヘンスのような人は、ある意味、非線形性の端緒を考えたということでは分かりやすいが、彼以外の過去の歴史にあまたいる哲学者の主張していることを、どのようなポイントに対して、

  • (この非線形性の問題に対する視点から)再評価が可能なのか

と考えたときに、掲題の著者の問題意識が分かるわけである。
(つまり、この本はあらためて、人文系学問の「正当化」の問題に肯定的に答えようとするなら、どういった形がありうるのか、にとりくもうとしている、と言えるのかもしれない。)
たとえば、ここにある系譜を、掲題の著者は、

  1. 学習社会
  2. 縁起
  3. 知ること
  4. スピノザ

と整理する。
これをみると、まず、孔子ソクラテスを「学習」や「知識習得」のサイバネティックな運動の記述の創始者として評価しているところであろう。つまり、人間の知を、その知の「内容」よりも、より「学習行為」の「運動」の方に重点を置いて考えているということであろう。
そして、もう一つの特徴が、仏教を重要視していることであろう。
実際、スピノザの言っていることはどこか仏教的であるし、もっとさかのぼれば、古代ギリシアピタゴラス集団はインド哲学の影響を受けていたんじゃないのか、と考えられる。
そもそも、ヘーゲルは晩年、古代インド哲学に言及し、それらの自らの哲学体系への包含を野心していたわけで、この頃になると、もう、多くの翻訳がヨーロッパに流入している。
そして、実際にその頃から、ヨーロッパで、フロイトを始めとしたような、

  • 心理学(心の医学)

が科学の体裁と共に、市民権を得るようになっていく。
例えば、上記の東さんの欲望論も、そもそも欲望ということを最初に言っていたのは、古代仏教とか、その辺りの思想なわけであろうし、だとするなら、そういった仏教における「欲望」の考え方と、仏教のその他の主張(縁起とか、輪廻転生とか)とは、切っても切れない関係にあるんじゃないのか、と疑いたくなるわけである。
つまり、欲望という言葉がトンデモだとか、そういうことが言いたいのではなくて、もともと、欲望という言葉が(仏教などから始まっている)系譜学的な概念なんじゃないのか、と。だからこれを、プラグマティックに決定論的に使おうとすると、どこか痛々しくなるんじゃないのか、ということなんですけどねw...。

合理的な神秘主義?生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3)

合理的な神秘主義?生きるための思想史 (叢書 魂の脱植民地化 3)