酒井潔「モナド的主観の<無窓性>」

私にとって、ずっと気になっていたのは、ライプニッツというより、ライプニッツの『人間知性新論』であった。この本は、ライプニッツの生前には出版されていない。死ぬ前に、出版を試みたようであるが、結局、出版はかなわず、死後、半世紀後に出版となった、ということである。
ライプニッツは、非常に重要である。つまり、その後のさまざまな影響において重要なのである。
カントは、ほとんどライプニッツの延長で考えている。また、カント以上に、ヘーゲルは、その哲学の問題意識として、ライプニッツのアイデアを規範としている。そして、フッサールハイデッガーがいかに、ライプニッツを「肯定的」に考えた人たちであったかを考えたとき、その影響が、いかにそれ以降の哲学において大きな意味があったと考えられるであろう。
しかし、なぜこの本は書かれたのか。そのことを考えるとき、ライプニッツにとって、なぜ、ロックの『人間知性論』に反論をしないでいられなかったのか、がよく分かるわけである。

それぞれのモナドは自己活動的であり、知覚されるべき内容をアプリオリに内包している(「生得観念」)。内容の多様を十分に含む個性的なモナド主観は自足性である(Mo.$18)。「知覚」は第一次的には内から外への自己展開なのであって、けっして外から内への受容ではない。したがって「印象」あるいはスコラの「可感的形象」を受け容れるための「窓」をもたない。そういう実在的無窓性の論点は一六八六年の所謂『形而上学叙説』以来のものである。「われわれの精神の中へ外から自然的な仕方で(naturellement)入ってくるものは何もない。あたかもわれわれの精神が何らかの情報をもらす形象(especes messageres)を受容し(recevoir)、[そのための]戸や窓(fenetres)をもっているかのようにわれわれわが考えるのは、悪しき習慣である」(DM.$26, GP.4, 451)。「モナド」なる語がライプニッツの著作に登場するのは一六九五年以降のことであるが、「窓」はそれよりも一〇年近くも前に現れているのである。
個性的な実体が、知覚されるべき内容を予め内包し、外から受容する必要がないとするとき、ライプニッツは自説がプラトンの「生得観念」(idees innees)説 - 想起説に続くものであることを強く意識している。

『叙説』を書いた四年後の一六九〇年に、ロックの『人間知性論』が世に出ると、ライプニッツはこれに対し批判的論陣を張り、急ぎ『人間知性新論』(一七〇四年)を執筆するのである。
ロックによれば、精神はもともと生得観念を含まず、外界からの光が遮断された「暗室」(dark room)のようなもので、この「未だ空の小部屋」(the yet empty cabinet)に外的事物の観念を最初に供給するのが感官(senses)である。この感官、または感覚的知覚(sensations)を、ロックはそれを通じて光がこの暗室に導入される「窓」(window)であると言う。つまり精神は、外的事物を受容するための窓を必要とするのである。ロックの「窓」概念の根本には、精神と世界が<部屋の内と外>という空間的な仕方で対立し、精神はいわばカプセルの中に存し、その外に広がる世界からは遮断されている、という見方が定在している。
しかしモナド主観は知覚されるべき内容を先験的に内包しており、<外から内へ>対象の印銘を受け取る必要も、またそのための「窓」も必要としない。知覚はライプニッツにおいて「印銘」(im-pressio)ではなく、「表出」(ex-pressio)でる。「一般に知覚は一における多の表出である、と言える」(An Bayle um 1702, GP.3, 69)。

今、本屋に行って比較的、簡単に手に入るライプニッツの翻訳として、中公クラシックの新書があるが、ここには、「モナドジー」と「形而上学叙説」が最初に載っている。「モナドジー」は、ライプニッツの最晩年のものであるが、なんというか、非常に薄い、メモのようなものでしかない。しかし、その最初の方で、すぐに、「モナド」には「窓がない」という話がすぐにでてくる。
そして、「形而上学叙説」を読んでいると、上記にもあるように、すぐに、プラトンの想起説への、共感を吐露する場面がでてくる。
つまり、言いたかったのは、最晩年の「モナドジー」における、「モナド」に「窓がない」という断りが、あれほど強い形で書かれているのには、間違いなく、「形而上学叙説」におけるプラトン想起説への共感の延長で書かれているし、そのことが、ロックの『人間知性論』への反論(ロックの言うタブラ・ラサへの論破)へと繋がっていると思われる。
ライプニッツは上記のロックの本を読んだ後、すぐに、ロックに手紙を書いている。ところが、ロックはそれを読んで、完全に「無視」をしたそうである。しかし、読んですぐというのは、なにかあせっているんじゃないか、と言いたくはなるが。
つまり、それを受けて、ライプニッツは逆ギレで、あれほど、ぶ熱い『人間知性新論』という本を書いたのであろうし、「モナドジー」において、「モナド」に「窓がない」ことを、強調せずにはいられなかったのであろう。
それにしても、ライプニッツの「モナド」に「窓がない」ことと、プラトンの想起説が、ロックの『人間知性論』への批判的論陣という、ロックと対立する形で、深く繋がっていたことは、あまり意識されていないのではないだろうか。
つまり、ライプニッツ以降のドイツ哲学、カント、ヘーゲルフッサールハイデッガーと、非常にライプニッツにこだわった哲学者は少なからず、このライプニッツ直伝の「プラトン想起説」を継承していた、と考えられるであろう。
私が上記の話に最初に違和感をもったのは、以前から紹介している、一ノ瀬さんの本で、明確にこの本が、

  • ロックの側から

書かれていたから、なんですけどね。

ともあれ、少なくとも次のことは言える。すなわち、ロックは、勤勉で責任ある者、つまりは自律的に努力探究し理性的な「同意」を行える真の理性人・自由人にこそ知識にあり方を結像させようとしていたこと、これである。そして、ここに至るならば、さきにライプニッツのロックに対する反論点として挙げておいた一つ、つまり、生得説は不可能ではないという論点に対して、さらにロックの側から応答することはもはや困難ではなかろう。ロックは、知識とはそもそも人に宿る人格的なものでり、したがってまさしくそれは「行為」であり実践であると捉えてい。つまりは、知識はそのまま社会的営みであり、知識を持つ者のみが理性人として社会に参入できる、と考えていたのである。その場合、現に知識を得ようとする実践があるかどうかこそが、真の問題である。不可能ではないかといって、たとえば潜在的な知識を認めてしまったら、社会は形成される、そもそも知識成立の基盤が失われるという自己破滅に至らざるをえない。したがってロックは、生得説は不可能であると、積極的に断じなければならなかったのである。

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

さてでは、ライプニッツのロックに対するもう一つの反論点、つまり、論理的先行性や論理形式は生得的というべき根源的なものである、という論点についてはどうだろうか。この点についてのロックの側からの応答は、さきに知識の変容の可能性を論じたところで大体示されていると言えるが、次のように言い換えてもよい。すなわち、こうした問題に対するロックの側からの応答は、今日「純粋な規約主義」(full-blooded conventionalism)あるいは「過激な規約主義」(radical conventionalism)などと称される立場に近い視点かんされることになろう、と。この「純粋な規約主義」とは、ダメットのウィトゲンシュタインの数学の哲学解釈([19] esp. p. 170)やグッドマンなどによって示唆された立場で、論理形式や論理的必然性そのつど承認されることによって成立する、とする刺激的な立場である。グッドマンの言葉を引いておこう。「演繹的推理の諸原理は、受け入れられた演繹的実践と合致することによって正当化される。それらの妥当性は、われわれが現実に行い是認する個々の演繹的推理との一致に依存する」([23] 63)。ロックのライプニッツに対する応答もほぼ同義なものになるはずである。しかし、では知識の普遍性はどうなるのか。各人が各人の論理を勝手に作り上げてよいのだろうか。断じてそうではなかろう。ロックにおいてすべての知識は同時に、その知識を獲得する「人格」による社会制度への「暗黙の同意」を通じた社会的実践でもあるのだから、社会的な妥協や調和が当然求められて然るべきだからである。すなわち、論理形式や論理的必然性でさえ、原理的には、特定の言語と特定の文化やものの見方のなかで生きることを暗黙に受容したわあれわれがそうし形式や必然性をそれとして受容し使用する、という二相の「同意」の実践へと帰着していくのである。こうした非常にドラスティックな捉え方をロック哲学は確かに指し示していた。ロックの着想に従う限り、知識論は必然的に社会論にならざるをえないのである。
人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

まあ、はっきりしていることは、ライプニッツはスコラ哲学を衒学的にやっているわけで、そういった、哲学「趣味」の延長で、ロックに

  • 論戦

を挑んだ「つもり」になっているわけですね。ところが、ロックにとって、そんなスコラ哲学的な衒学は、もう、どうでもいいわけでしょう。彼が考えているのは、具体的な議会での論戦とか、そういった「政治家」の関心の実践的な場面なわけですね。
だから、彼は「生得説」を明確に否定する。王権神授説と戦う。もう、はっきりしているわけでしょう。彼からしてみれば、ライプニッツの言っていることは、「だからどうした」くらいにしか、思わなかったのではないか。古くさいスコラ哲学をやっているとしか、聞こえなかったのではないか。まあ、ガン無視されるよなあ、と思うんですけどね。
しかし、そういった態度をとられた、ライプニッツは、相当、頭に来たんじゃないですかね。俺を無視するのか、上等じゃねーか、と。それが、『人間知性新論』の、あの分厚い執筆であったり、「モナドジー」の最初での「窓のない」ことの、いきなりの強調ということだったのではないか、と。
しかし、他方において、『人間知性新論』が生前に出版されなかったことには、彼なりに、少しずつ、この本を出版することのモチベーションを感じなくなっていた、ということはないんですかね。というのは、ロックの死ぬでの活動を見ても、『人間知性論』を少し冷静になって読み直しても、これは、どう考えても、ライプニッツの文脈とか関係ない本だということに、少しは気付いたんじゃないですかね。むしろ、対決するような話じゃなくて、ライプニッツが、こういった社会的な本を読んで、どんなふうに影響を受けたのか、を考える方が有意義なんでしょう。
上記でも書いたが、このことが深刻に思われるのは、ライプニッツこそ、それ以降のドイツ哲学に大きな影響を与えているから、なんですね。特に、フッサールは、ライプニッツの側に自らを置くと共に、ロックと対立することを明確にしていたわけで、また、こういった関係は、ハイデッガーにおいても、同様であったと言えるであろう(つまりは、明確なプラトニストだったということになるのだろうか)。

フッサールは、最初ボルツァーノフレーゲに刺激されてライプニッツの論理学や数学の著作に取り組んだのに続いて、一八九七年から一九〇五年にかけて『人間知性新論』を集中的に読み、ロックの経験論的な心理主義に反対するライプニッツの論点を知るようになる。そして論理的諸原理を事実から証明し、理性真理を事実真理に基づかせようとするロックの立場を捨て、明確にライプニッツの側に立っていた。

つまり、私なりに言わせてもらえば、ライプニッツがロックに反論を書いたのに、完全にシカトされて、ちょっと、頭に来たんじゃないかな、と。『人間知性新論』というような、あんなに分厚い本を書くまでのことなのか、と。そして、最晩年の「モナドジー」で、「モナド」に「窓がない」ことに、ここまでこだわることなのか、と。
そして、そういった(プラトニズム的な)態度が、間違いなく、その後のドイツ哲学に大きな影響を与えたことを考えると、なんだったのかねえ、と思わなくもない、ということである。
こういった状況に対して、掲題の著者は、サミュエル・ベケットライプニッツの「無窓性」にこだわったことに注目する。

ベケット研究者の森尚也氏は、ベケットが「無窓性」(windowlesssness)概念を三つのレベルで使い分けていると指摘されている。すなわち、[1]作品中に置かれ、無窓性を強調する装置(例えば、「小さな曇りガラスの天窓」)、[2]コミュニケーションを欠いた空虚なモナド的自我の内部、[3]作者と語り手との間、語り手と登場人物との間にそれぞれ指定される無窓性(窓がないということは作者や語り手のモノローグ、夢想を暗示する)、というレヴェルである。明らかに、ベケットの「無窓性」には、そのどのレヴェルをとってみても、フッサールハイデッガーの「志向性」や「脱自性」の入り込む余地はない。
ベケットにはそうした自閉症モナドのモティーフだけでなく、さらに「窓」そのものの性格についても鋭い議論があり、今後現象学でも検討に値しよう。『モロイ』では、脳に多くの窓がある様が描かれている。しかしそれらは外へ向けた窓ではない。「ここには窓がない」。すべての風景は imago なのである。部屋とは脳の内部であって、その薄暗い部屋の上方には二つの曇ガラス(すなわち両眼)がはめ込まれている。おそらくはひとは自分の頭蓋の内部を覗いている。否むしろ他人が窓から自分の脳内を覗き込んでいるかもしれない。

ベケットは、さまざまな作品で、このライプニッツの「無窓性」を揶揄するわけですけど、私にはどこか、それは、ライプニッツ以降のドイツ哲学が、素朴な政治家でしかなかったジョン・ロックと戦った、その労力が、どこか、

  • ピントがずれていた

ことのパロディのようにも思えるわけであるが、どうなんですかね...。

ライプニッツのモナド論とその射程

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