國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』

もしも「主体」なるものが「ある」というふうに「言った」とき、果して、そこで、何が起きていると言えるであろうか?
子供は、産まれた時点では、「何者でもない」。ジョン・ロックはそれを、タブラ・ラサ(白紙)と言ったわけだが、ということは、私たちは、大人になるという過程を経ることで、「何者かになった」ということになるであろう。これが、

  • 主体

である。主体は、「何者か」を現わす。つまり、私たちが、ある人を「主体」と呼んだ時点で、その発話「自体」が、相手を、なんらかの「主体」として、

  • 既に

扱ってしまっていることを含意しているわけである。
私たちは、人を「何者か」として扱わずにすますことができない。その人が「何者であるか」を「既に了解している」から、私たちは、その人を「主体」として扱うことができているのであるから。だとするなら、問題は、

  • すでに「どこか」の時点で相手を「主体」として扱ってしまっている

という事実性だと言えよう。いつなのか、どこでなのかも判然としないが、間違いなく、ある時点で、ある「事前の了解」を経て今の自分による、相手の「主体化」がある、ということである。しかし、

  • 果して、そのこと(態度)は、正当化しうるものなのか?

他者の主体化は、私たちが子供から大人になる過程で避けて通ることはできない。しかしながら、問題は、果してそのような他者のキャラ付けが、どこまで、

  • 妥当

なものであり、この事態を説明するのに、オーソライズされうるのか、ということになるであろう。

ドゥルーズは、カントによって創始された超越論的哲学のプログラムを極めて高く評価していた。しかし同時に、カントが(更にはその後継者っちが)超越論哲学を運用するにあたって問うのをやめてしまった問いがあることに気づいていた。それが発生の問いである。超越論哲学のカント的運用は「超越論的統覚」という概念によって特定の主体を想定し、その特定の主体によって諸能力の一致(共通感覚)を根拠づける。カントは主体の発生を問わない。ゆえに、諸能力の発生も問わない。
ドゥルーズは、カントに先立つヒュームの哲学に、この発生の問いへの視点を見出した。

前回も書いたように、カント哲学とは、

  • 今、事実として自分が「こうある」ことについての哲学

であると言えるであろう。私たちが今、このようにあることは、なんらかのさまざまな所与の条件が重なることによってそうであるわけだが、そうだとするなら、私たちは、どのような条件によって「規定」された存在であるのかを説明する。
つまり、そういった諸条件を「超えて」自らを考えようとすることを、カントは「理性の越権行為」とか「形而上学」と呼び、「批判」するわけである。
しかし、だとするなら、素朴に思うことは、いつ、どうして「そうなった」のか、つまり、その「主体」が、そのように「主体」であることが、どのように、

  • 発生

したのか、ということを問いたくなるわけである。
しかし、である。
ドゥルーズは、その「発生」を、どこか逆説的であるが、

  • 「暴力」「強制」

といったような、

  • 受動性

において考察するわけである。

ドゥルーズにとってプルーストの作品に描かれた経験が重要だったのは、それが思考なるものの新しい像を提示するものだったからである。読み取り方が習得されねばならないシーニュとは、偶然の出会いの対象である。シーニュは、それを受け取る者に対して強い働きかけを行う。マドレーヌは「私」に非意志的・無意識的な想起を強いる。それは一種の「暴力」、「強制」である。この暴力ないし強制の働きによってこそ、人は思考し始め、そして真理へと至る。先の引用が言わんとするのは、そのようなことである。人が積極的意志(「......をしよう」)によって真理に至ることはない。真理は常に、思考を余儀なくされたことの結果として獲得される。人は思考するのではない。思考させられる。思考は強制の圧力によってのみ開始されるのであり、それを強制するシーニュは常に偶然の出会いの対象である。

主体は最初から主体ではない。主体は「あるとき」から主体に「なる」。ではなぜ、主体は主体になったのか。ドゥルーズは、そこにはある種の

  • 受動性

を避けることはできない、と考える。つまり、他者の「強制」や「暴力」と無関係に、主体の「発生」を考えることは、反動的だと言うわけである。
子供が言語を覚えていくとき、必然的に他者との「言葉」を介したやりとりが必要になる。言葉を習得するということは、別に言えば「主体になる」ということでもある。
なぜ、私たちは子供時代に、「言葉を覚えた」と考えることができたのか。それは、私たちが相手の言葉(=命令やゲームのルール)に

  • 従った

からである。大事なことは、この過程を経ることなしに、私たちは言葉を学習できなかった、ということである。言葉の意味とは、私たちが「他者の命令に従った」ことの

  • (実践的)結果「そのもの」

と区別できない。つまり、そのような形で「身体化」していない「言葉はない」ということである。
このことが重要なのは、本質的に、私たちの「主体化」は、

  • 他者の行動=「偶然」

なしには「定義できない」ということなのだ。
ドゥルーズは、この延長において、フーコーの権力論も考える。

あるいは、規律訓練型権力。それは監視することで人に行為させる。しかし、なぜ監視されると人は一定の行為をしようとするのか? それは、そのような行為をしたい、という欲望を抱くからである。だが、一定の戦略をもって監視された人間は、必ず一定の方向に向かって行為するものだろうか? たとえば、『監獄の誕生』は学校でのテストや段階的学習の役割を強調していた(第三部、第二章「よき訓育の手段」)。学習成果を可視化するそうした方式が生徒たちを一定の方向に向けて行為させるのだ、と。ところで、そうした学習成果の可視化が生徒たちを動かすのは、生徒たちの中にそもそも「自分だけ取り残されたくない」という欲望があることが前提になっている。そうした欲望のアレンジメントが広く社会に行き渡っている時にのみ、この権力装置は作動する。だから、欲望のアレンジメントがひとたび変化してしまえば、この権力装置は作動できない。

ドゥルーズフーコーの「権力」概念を評価しながら、その概念の、さらなる徹底化に向かうなら「欲望」概念を問題にしないわけにはいかなくなる、と批判する。つまり、そういう意味で、フーコーの「権力」論は不徹底だと考える。
しかし、そのことは、他方においては、「権力」概念のドゥルーズ化とも考えられる。つまり、権力=欲望を、

  • 受動性=偶然性

において考える、ということであろう。例えば、最近読んだ、水野和夫さんの以下の本でも、ある種の欲望が、注目されている。

その概念とは、「蒐集」(コレクション)です。「蒐集」とは「『蒐める』行為そのものを持続化させる営み」(松宮秀治『ミュージアムの思想』)ですから、静態的なものではなく、あくまで動態的プロセスなのです。だから、「蒐集」には終わりがなく、必ず「過剰」に行き着くのです。スーザン・ソンタグは『火山に恋して』で鋭く見抜いているように、「蒐集家が必要とするのはまさしく過剰、飽満、過多なのだ」。だから、彼女いわく「完成したコレクションとは死んだコレクション」問いうことになります。

世界経済の大潮流 経済学の常識をくつがえす資本主義の大転換 (atプラス叢書)

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水野さんがリフレ派を口汚くののしる理由は、こういった「悟性」に関係しているわけであろう。資本の「蒐集」(コレクション)運動を止められるわけがない、と。だったら、リフレ的政策がうまくいくわけがない、と。絶対に、その裏をかいて、自らの資本の「蒐集」(コレクション)を成功させようという「欲望」をもつ人があらわれて、私たちの努力を水泡に帰させようとしてくる、と。
水野さんが、上記の本で書いているのは、その説明が、いかに「説得的」かを、人々に教える話題が次々と「蒐集」されている。つまり、この水野さんも、

  • リフレを否定する「欲望」の「蒐集」(コレクション)活動

に「取り憑かれた」欲望の従属者だということになるであろう。
普通に考えて、水野さんは、一体、「誰」に向けて、この本を書いているのであろうか。この人が大学なりで学生に、えらそうな経済学を教育していながら、その卒業していく学生が、就職先もなく、路頭に迷っていることに、なにか言いたいことはないのだろうか。
この人にとって、なんの親のコネもない若者にどのようにして、若い頃に、お金を稼がせるのか、ということが、どれだけ重要なことか分かっているのだろうか。
子供は、なにも持っていないのだ。だから、彼らに、お金を稼がせなければならない。
私は水野さんが、その「手段」を、まっさきに、この本の最初に書いてあるのなら、別に、リフレを否定しようが、なにをやってようが、どうでもいい。しかし、そういった若者への雇用政策をまともに提言する前に、自分がいかに頭がいいのかを延々と書いている、このデリカシーのなさが、まったく、耐えられないまでの、「お坊ちゃん」にしか思われない。
水野さんの言う「蒐集」(コレクション)とは、ようするに、功利主義の「仮定」であろう。つまり、経済学の「前提」にしかすぎない。しかし、それはなんだろうか?
特に、近年、例えば、人間を「動物の比喩」で語られるとき、必ずセットで話される議論が、

  • コンピュータ

の問題である。データベースにしてもそうだが、つまり、ここで「動物」と言っているのは、本当に動物なのではなくて、そういった動物の幾つかの単純なパターンに分類できる行動様式を

  • コンピュータが「模倣」したもの

へと、人間を「家畜化」していく「比喩」として、対応させる、ということと考えられる、ということである。
水野さんの言う「蒐集」(コレクション)とは、コンピュータ・プログラムのことと言える、ということである。
近年のコンピュータ・プログラミングの「大衆化」は、人間を

  • コンピュータの比喩

として、「情報の縮減」が可能であるかのような言説が流行する。コンピュータの特徴とはなにか。それは、

  • 絶対にやめない

ということである。例えば、無限ループをするコンピュータ・プログラムを書いて、実行させたとしよう。昔のコンピュータでは、

  • ずっと計算し続けていた

わけである。何回繰り返しても止めなかった。ずっとCPU100%で、計算し続けて、マシンが熱くなっても、止まらない。しまいには、マシンを「壊れる」ことによって、止まるわけだが(最近のプログラミングは、あまりに、無限ループがひどいと、勝手にエクセプションを出しやがるものが多くなったが)。
水野さんが思い描く「蒐集」(コレクション)活動とは、いわば、この地球を破壊し続けて進み、この地球上に人がいなくなっても終わらないような、コンピュータのような運動を考えているわけであろう。つまり、

  • 終わらない「蒐集」(コレクション)活動

は、「消尽する」存在であるわけだ。しかし、人間はコンピュータ、つまり、ロボットなのだろうか? 最初のドゥルーズの議論に戻ろう。彼は、人間の学習活動の「発生」を、その受動性において考えようとした。水野さんの認識に決定的に欠けているのが、これであろう。つまり、

  • なぜ「蒐集」(コレクション)を始めたのか?

その「発生」が問われていない。つまり、これはコンピュータの「比喩」なのだ。コンピュータがなぜ、「動き始める」のか。それは、自明である。つまり、

  • 人間が動かしたから

に決まっている。人間がそのコンピュータを動かすためのプログラムを書いて、実際にその命令集の「通り」にコンピュータが動き続けているにすぎない。
しかし、なぜ人間は「蒐集」(コレクション)を始めようとするのか。それは、その「蒐集」(コレクション)を始めた人の中で、その「動機」が

  • 閉じない

ドゥルーズは言っているのだ。じゃあ、その「蒐集」(コレクション)が、どのように終わるのかも、その終わる「動機」が

  • 閉じない

ことを意味するということであろう。

彼自身がここまで無変化だったのは、出会いの偶然に賭けるという彼の身振りが、やはり何らかの真理を含んでいたからだと思えてならない。この真理は、「出会いがありうる」という意味では、希望を与えてくれる。しかし、「それは偶然に左右されるのだから、結局は何もどうにもならない」という絶望をも与える。そんな真理を生きるとは、つまり希望も絶望もない世界を生きるとは、どういうことなのだろうか。希望も絶望もない世界。それは可能性がない世界である。人は可能性を信じるから、希望をもったり、絶望したりする。ドゥルーズは希望も絶望もない世界でサミュエル・ベケットの作品に見ていな。ベケットを論じた「消尽したもの」という文章で、彼は「疲労したもの」と「消尽したもの」を区別する。「疲労したものは、ただ実現ということを尽くしてしまったにすぎないが、消尽したものは可能なことのすべてを尽くしてしまう」(E, p. 57\七頁)。疲労したものは、まだ可能性を信じている。ただそれが実現できないだけである。消尽したものは、可能性そのものを尽くしてしまっている。もう何一つ可能ではない。

ここで、「消尽したもの」とは、コンピュータの比喩としての「人間」が、この地球を破壊し尽した後のことを言っていると考えられるであろう。他方において、「疲労したもの」とは、

  • リアルな人間の存在様態

だと言える。

かつて日本人にとって、企業活動は利益の追求ではなく社会貢献だった。社会に貢献するためには何をすべきかを考えた時、政治家や官僚ではなく、経営者になるのが一番役に立てると考える人も多かった。松下幸之助端的に述べている。「日本の目標は、日本国民の幸福である」「企業の役割は、日本国民の幸福につながる製品やサービスを購入するめに必要な収入が得られるよう、幸福につながる雇用を提供することである」そして本人は年度末の毎に、納税額が日本一であることに満足し、それを誇りにしていた。ここには人間を慈しむ思想が息づいている。企業活動は仲間との共同作業だ。その利益を分かち合おうと年功序列制を敷き、それぞれの人生を尊んで終身雇用を約束した。これが高度経済成長を支えた日本人の勤労観、人間観ではないか。
ビル・トッテン「国民を貧困化させる労働規制緩和」)

月刊 日本 2013年 06月号 [雑誌]

月刊 日本 2013年 06月号 [雑誌]

水野さんへの不満は、「蒐集」(コレクション)が「発生」する「受動性」についても、「蒐集」(コレクション)が「終焉」する「受動性」についても、非常にナイーブに考えている(つまり、なにも考えていない)ように思われるところであろう。
それは、水野さんが、人間を、

  • コンピュータの「比喩」

として考えているから、と考えられるであろう。もしも人間が「ロボット」なら、水野さんの言っていることは正しいわけである。しかし、人間はロボットではない。「疲労する」存在である、何か、なわけである。
それは、上記の引用にあるように、私たちが、戦後どういった存在で「あった」のかにも関係している。私たちは、過去から「蓄積」された、規範的存在である。
人間の「幼児化」が進むのと比例して、「道徳」、つまり、社会的命令パターンの「多様化」が進むと考える私の立場において、水野さんがイメージするような「ディストピア」を、ナイーブに受け入れられないのは、彼が、上記にあるような、ドゥルーズの言う「受動性」を本気で考えているように思われないし、まるで、人間を「コンピュータの比喩」として考えているように見え、人間を「疲労する」存在と考えていないようにも思われる、という意味で、さて。経済学という「功利主義」との理論的な戦いは、あと何世紀繰り返えせばいいのでしょうかね orz...。

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)