難波功士『ヤンキー進化論』

一言で「ヤンキー」と言っても、歴史的な意味を含めて非常に広いものを指している。
私たちが子どもの頃で言えば、それは、学ランの「改造制服」や、髪にそりこみを入れることであったり、つまりは、そういったセレブ層とは反対の「ファッション」を、主に、示唆していた言葉のように思われる。それは一頃で言えば「不良」というレッテル貼りをされることのアイデンティティ意識であったわけで、授業をさぼることであったり登校拒否や学校退学とも関係してくる。
また、暴走族のようなものに求心されていく感性もあるであろう。もう少し違った観点で言えば、ロックを聞くことであったり、もっと言えば、アイドルの応援団的な感性にも近かったりするのであろう。
最近でいえば、ヒップホップであったり、チーマーのようなものであったり、なんらかの変化はしてきているということはあったとしても、ある「ヤンキー」と呼ばれるような「感性」の汎歴史的な様相を考察することには、意味があるように思われるわけである。
掲題の著者は、そういった「ヤンキー」という言葉の含意を、ナンシー関のエッセイから始めている。

<書き出しからナンであるが言わしてくれ。「けっ」と。ついでに手鼻もかましてもらう。「ちーん」とくらあ。/『VERY』と『Grazia』。共に『JJ』を卒業した35歳前後の女性をターゲットとした雑誌らしい。結婚7年で子供も手がかからなくなった(だいたい幼稚園)35歳、というのが平均像か。いわゆる「コマダム」というやつらしい。自分たちでは「VERY世代」と言っているが。......しかし、みんなお金持なのかなあ。どうしてんのかな。テーブルセッティングのお教室なんかに通ってさ。わからんな。私、ロウワーっすから。二子玉のカフェも玉高もいいが、また多摩川あふれるぞ。『岸辺のアルバム』知ってんだろ。ユリエ・ニタニのバッグもコツコツ集めたシャネルエルメス多摩川の底だ。何言ってんだ>
ナンシー関『何が何だか』世界文化社、97年、154〜156頁)

掲題の著者がこれ以降で描こうとする「ヤンキー」文化とは、いわゆる「典型」的なファッションであり、そういったサブカルチャーであるわけだが、むしろ、掲題の著者は、その

  • 一般的なヤンキー(的感性)

のその源泉つまり、上記の引用で言えば、「ロウワー」という感覚から来る、なんらかの「労働倫理」のようなものの方に、関心があるのではないか、という印象を受ける。

ヤンキーという語の多様な側面の一つに、「その多くは現場仕事に従事する労働者(予備軍)、ないし小規模な自営業者(の後継者)である(人々が帯びがちなものである)」という用法がある。産業構造の変化の中で、現在苦境へと追い立てられている業態・職種の多い領域ではあるが(筒井美紀・阿部真大「文化は労働につれ、労働は文化につれ」広田照幸編著『若者文化をどうみるか?』アドバンテージサーバー、08年)、これらの仕事での志気(モラール)の高さこそが、この社会の安全と活力の基盤であることは間違いない(鉄筋きちんと組もうよ、こぼれたガソリンはちゃんと拭こうよ、食品の表示を貼りかえるな!)。また誰もが上品・洗練・高尚の文化資本(乱暴に言えば趣味のよさ)を受け継げる階層に生まれ落ちるわけではない以上、「バッドテイストですが、何か?」という強さも時には必要なのではないだろうか。

私たちの社会が回っているのは、つまりは、「ロウワー」であり「バッドテイスト」であり、そういった「労働者階級(ワーキングクラス)」の人たちの

  • 志気(モラール)の高さ

に「全て」があることに気付くのではないであろうか。もしもあなたが比較的に日本が住みやすい国だと感じているとするなら、それは、こういった階級の人たちが提供している

  • 労働の質

が抜群に「良い」からに決まっている。私たちがこの日本を「住み心地が良い」と思うのは、そのことを支えている、なんらかの労働者たちの

  • 倫理

が、そこにあるから、というわけなのである。では、そういった感性の「源泉」を私たちは、どのように考えればいいのであろうか?

それまで格別興味もなかった「ヤンキー」が、なぜか心に引っかかり始めたきっかけは、丸の内のサラリーマン時代に書店でふと目にした『ハマータウンの野郎ども』(ポール・ウィリス著、熊沢誠山田潤訳、筑摩書房、85年)にある。この本の原題は、”Learningu to Labour:How workingu class kids get working class jobs(労働を習得する:いかにして労働者階級の子どもは労働者階級の仕事に就くか)”であり、原書は77年に刊行されている。若い研究者が、イギリス・ミッドランドの工業地帯の一画にあるハマータウン(仮名)の十代(の生徒および就業者)、とりわけ「野郎ども(彼あの自称である”the lads”の訳語)」の中で入り込んで調査を行い、学校文化に対して反抗的である彼らが、いにして高等教育機関への進学ではなく、肉体労働(マニュアル・ワーク)への就労という道を選んでいくを考察したものである。

  • ラッズは、彼らの対極にあるものとして、学校・教師に従順な生徒たちを”ear'oles”と侮蔑する。既存の権威の言うことに素直に耳を傾ける、という意の”ear holes”であり、そこからh音を欠落させるのは、ラッズたちが標準英語よりも、労働者階級のアクセント(訛り)に価値を置いているからである(96年刊の文庫版、37〜38頁)。
  • <資本主義的な商品として供給され、労働階級によって一種独特の消費のされかたをする三つの財貨>である<衣服とたばこと酒>を、やはりラッズ特有のやり方で消費する。たとえば<しょっちゅうブラシがけする長めの髪型>(46〜47頁)。もしくは<あのころ、ちょうどスキン・ヘッドがはやり出したっけ......リーヴァイス(ジーンズのブランド名)やモンキー・ブーツをはき始めたんだ>(154頁)。
  • <文字通りの暴力や暴力を匂わせる言動、荒々しい風采、男っぽさを誇示しようとする衝迫感、これらは《野郎ども》に終始つきまとっているけれども、それがいよいよ露骨に現れるのは夜も街中においてであり、なかでもディスコがその格好の舞台となる>(95〜96頁)。
  • ラッズの一人は<男っぽい野郎どもはレゲエが好きだよ、わかるかな、レゲエやソウル聞くのが好きなんだ。オカマみたいな優さ男どもはそんな風変わりな音楽を聞こうとはしないね。あいつらの好みはオズモンド・ブラザーズだとか、わかるだろ、ゲアリ・グリターだとか......>と一般ウケする音楽を好む”ear'oles”たちをバカにし、グラムやヒッピーについてもピンとこないと語っている(99〜100頁)。
  • <女性を見る彼らの眼差しには、相矛盾した因襲的な考え方がこびりついている。つまり、女性はセックスの対象であると同時に、家族的なやすらぎの源でもなければならないのだ>(112頁)。
  • <反学校の文化がふくむ人種差別は、白人社会の化石化した偏見を踏襲しながら、いくぶん独自の様相を示す>。ラッズがもっとも嫌うのは、アジア系、とくにインド亜大陸からの移民たちであり、それらの人々の価値観が”ear'oles”と類似していると彼らが捉えているためである。<これとくらべれば、西インド諸島出身の黒人たちはまだよいと《野郎ども》はみる>。その理由は、<この黒人たちはそれなりに反抗的で、男性的な攻撃力をもち......ディスコで踊り、ソウルやリズム・アンド・ブルースやレゲエに興じる>上に、<うらやましいほどの生命感と異性関係のいかがわしさがつきまとっている>からである(127〜128頁)。
  • <反学校の文化は、その担い手たちがきまりきったように落ち着いてゆくさき、つまり工場の職場文化とのあいだに、いくつかの意味深い共通項をもっている>(131頁)。<タイヤの取り付け、カーペットの貼り替え、家具工場の徒弟機械工、配管工や煉瓦積み工の助手、自動車座席の組み付け、クロム鋼板工場での積み降ろし、塗装・内装。ざっとこういった職種に《野郎ども》は就職していった>(262頁)。

学校文化に対抗する「悪ガキ」文化と、工場などマニュアル・ワークの現場(での労働者たち)の文化とは共通性も多く、それを身近に見聞きする機会も多いため、「野郎ども」は労働者階級の仕事に就いていく、というのがこの本の骨子である。

おそらく、このことは、日本のヤンキー文化についても、同様のことが指摘できるのではないだろうか。
私が上記の本に不満なのは、つまり、その「スコープ」は、いわゆる、「つっぱり」といったようが、70年代以降の、改造学ランと剃り込みやリーゼントが代表するような「学校反抗」の若者文化「から」、考察を始めているために、その「深い意味」が問われることなく、最後まで行ってしまう。
しかし、その「外面」的なファッションに拘泥することなく、その「思想」的に意味することを考えるなら、より広く「普遍」的に意味していることが見えてくるわけであろう。
ヤンキーという若者のスタイルの先には、言うまでもなく、「不良」というカテゴリーが見えてくる。そして、その近隣にあるものが、「ヤクザ社会」といったような、アンダーグラウンドの勢力なわけであろう。
しかし、そういったものと、日本の明治以降の政治勢力としての保守主義でり、また、「右翼」というものは、そんなに簡単に切り分けられないわけであろう。そして、こういったものとそれほど区別されない感性のものとして、明治の志士たちが考えられていたわけであろう。ここまで来ると、今度は、

  • 江戸時代

にスコープが入ってくる。国定忠治が分かりやすいのであろうが、こうやって遡ってくると、こういったカルチャーにおける「儒教」的な価値観の影響が、見えてくるわけである。そもそも、山崎闇斎の弟子の浅見絅斎の「靖献遺言」は、中国の儒教における「志士」を称揚する文化の再生産であったわけであるし、ここにきて、こういったものの文化的ルーツとして、三国志などの中国における社会秩序を構成した底辺の労働階級の「倫理」が、どこか「儒教」という支配階級の道具としての「道徳」体系の中に、雑種的に混在して、継承されてきた何かとして、さまざまに影響を与えているんじゃないのか、というふうに考えられてくる(伊藤仁斎のように、こういった儒教的な体系と、

  • 商人倫理

のようなものとの関係を考えることも日本では興味深いかもしれない)。

たとえば04年9月号『blast』のインタヴューにて、妄走族のKENTA5RSは、「自分にとってのヒップホップとは」の問いに<人生であり、Vシネだな>と答え、剣桃太郎は映画では任侠モノが好きであり、マンガが『魁!!男塾』が<ブッ飛んでましたね。小学校の頃の俺のカバンの中には『男塾』の単行本しか入ってなかったからね(笑)>と語っている。80年代以降のヤンキー・メディアに囲まれて育った世代が、自らが何かを発信する側に回ったとき、ドメスティックなヤンキー・コンテンツに影響を受けつつも、彼らは新たな表現の機会およびツールとして、ラップやダンス、ターンテーブル、グラフィティ、スケートボードサウンド・システムなど、海外出自のアイテムや文化を選択・援用していったのである。

私が日本の左翼に不満なのは、こういった労働階級の「倫理」を、どこまで歴史的に真面目に考察したのだろうか、という疑いにあるわけである。「労働」はたんに、「労働」ではない。それを行う個人の「動機」が非常に深く関係している。もし、労働者が真面目にやりたくなければ、たんにやらないし、手を抜くわけであろう。ところが、日本の多くの現場において、多くの労働者は、真面目に働いている。その「倫理」は、なんなのか。なにに、モチベートされているのか...。

ヤンキー進化論 (光文社新書)

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