仲正昌樹『今こそルソーを読み直す』

ルソーの社会契約論は、それ以前の「不平等論」をふまえた形になっていることが注意がいる。

恒久的な戦争状態では、ホッブズの言うように生命の危険は共通であるが、財産の危険はそうではない。富者ほど失うものが大きい。そこで富者っちは、あたかもみんなのためを思っているかのような外観を装って、みんなに呼びかける。みんなの力を一つの最高権力の下に集め、全員を保護し、共通の敵を退けるための、正義と平和の規則を打ち立てよう、と。そうやって彼らは、粗雑で煽てにのりやすい人たちが、自らの自由を放棄して、進んで鉄鎖に繋がれるように仕向けたわけである。

不平等論は、ある意味、ホッブズリバイアサンを踏まえた考察になっていると考えられる。しかし、その場合に、ルソーは、その歴史的過程を

  • 堕落

としてとらえるわけである。つまり、自然状態という

  • 理想

が想定された後の、現代社会という「奴隷状態」と。
しかし、ルソーはこの考察の過程で、あるアイデアに到達する。それは、つまりは、彼の言う「不平等」が「完成」すればするほど、実は、ある意味での、

  • 自然状態の「自由」

が、別の形で「再現」するんじゃないのか、という着想である。

ルソーは不平等の制度化は三段階で完成に至るとしている。第一段階では、法と所有権が設立され、富者と貧者の状態が正当化され、富者と貧者の状態が正当化される。第二段階では、為政者の選任の仕方が決まり、強者と弱者の状態が正当化される。第三段階では、合法的権力か専制的権力への変化が起こり、主人と奴隷の状態が正当化されることになる。
この第三の状態に至った時、逆説的なことに諸個人は再び自由となり、ある意味、自然状態が再現するという。なぜかと言えば、首長が僭主となった瞬間に、人民は彼に盲目的に服従するだけの奴隷になってしまうからである。

ルソーは、自然状態における「自然人」を、ある意味での「理想」的ユートピアとして定義しておきながら、歴史法則によって、現代社会は「堕落」した、ととらえる。ところが、この「堕落」が究極的に完成すればするほど、今度は逆に、その状態が、自然状態の「自然人」に、

  • ある抽象的なレベル

において「似たものになる」と言っている、のである。
そして、このアイデアを、より具体的に説明したのが、ルソー社会契約論だと言えるであろう。その場合に、ルソーの考察の特徴は、ホッブズで言うところの「リバイアサン」を、より

  • 実体化(=物象化)

しているところにある、と考えられるのかもしれない。ホッブズやロックにおいて、そもそも、社会契約とは、「自然権」の話だったはずである。そういう意味で、それは、

  • 伝統

と深い関係があった。ホッブズは伝統的な王権への服従に、「万民の万民に対する闘争」からの「離脱」という「有益性」を対置したものであったし、ロックに至っては、そもそも、そういった「秩序」自体も、各個人の

の過程によっては、クーデター権のようなものを認め、いくらでも「流動的」に変化していく「暫定的」なものである性格が、色濃く現れるようになる。
他方において、ルソーは、そもそもの「社会契約」であり「リバイアサン」を、より物象化していくことを求めていっている印象を受ける。つまり、ホッブズやロックが、そのように「指示」した、その具体的な「対象」が、実際のところ、

なのかに、徹底的にこだわった、ということである。そういう意味では、デカルト的な科学的アプローチだと言えるのかもしれない。また、他方において、そういった抽象的な思考物を、より「スタティック」な対象として、実体化させたことで、20世紀の

のルーツとして、危険視される運命となった、とも考えられるであろう。
私はよく、憲法第9条を「子供でも分かる嘘」と言う連中に、じゃあ、なぜ、そういった連中は、社会契約論を、「子供でも分かる嘘」と言わないのだろう、と思うことがある。

まず既に延べたように、「人民」の範囲をいかに確定するのか、という問題がある。「一つの人民」になることに合意した人たちだけで、人民になるのが原則のはずであるが、一つの政治共同体を構成するほどの多くの人数が、一つの場所に集まるのはかなり難しい。たとえ、何とか一つの場所に集まることができたとしても、そこでルソーの言う「満場一致」を確認しなければならない。その「満場一致」というのは、単に漠然と、「”みんな”で『一つの人民』になろう!」ということではすまない。「人民としての意志」の決め方を始めとして、どういう人民になるのか、最も基本的な事柄について取り決めるための「満場一致」でなければならない。そうでないと、人民としての共同の行動を取ることができない。
しかし、政治的共同体を構成するほどの大人数が集まっているのに、人民の在り方についての各人の意見が一致していることを、どのように確認したらいいのか? 数千人以上の規模で集まったら、一人一人が他の全員の意見を直接的に知ることは無理である。それぞれがてんでんばらばらに自分の意見を述べ続けるだけだったら、そもそも何が全体として話題になっているのさえ確定されず、いつまで経ってもまとまらない。神の霊によって導かれでもしない限り、人民の基本的在り方についての満場一致と言い得る状態に到達するのは無理である----そもそも、それだけ多くの人間が、「人民になろう」という意志を、ある特定の時期に抱いて、ぞろぞろと一か所に集まってくること自体が、神の導きによる奇蹟のような話である。

人民になるための議論のプラットフォームが一応できたとしても、連絡漏れなどでその場に集まっていない人、その提案内容を誤解している人、正確に理解していない人、どういうことが問題になっているのかさえ理解できない人、自分の意見を明らかにしない人などをどう扱うのか、明確に反対の人には出て行ってもらうのか......といった問題がある。それらの人にどう対処すべきかも、満場一致で取り決める必要がある。
このように考えていくと、満場一致の成立を確認するための正当な手続きを満場一致で確認するための正当な手続きを満場一致で確認するための正当な手続きを満場一致で確認するための正当な手続きを満場一致で確認するための正当な手続きを......と無限に連鎖することになり、どこで行っても、満場一致で「人民になる」ことはできない。

社会契約論は、ある、抽象的な思考の「仮説」と考えられる。もちろん、上記の引用が示唆するように、その「存在」を主張することは、一種の

  • トンデモ

である。デマであり、嘘でありながら、なぜあきることなる、こん概念が、次々と哲学者によって主張されるのかは、この概念が、「仮説」という理由で、捨て去るには、

  • なにか不満足に思わせる

ような「説得力」を、反面において、もっていると考えられてきたからだ、と言えるであろう。
このことは、カントにおける「超越論的動機」と、ほぼ同義に考えられるであろう。私たちは、確かに、どこかの時点で、なにかの契約をやっているはずがない。もちろん、なにかの契約があったことが、歴史上証明されたとしても、上記で言っているようない意味で、社会契約論を立証するのに十分な事実であるわけがない。しかし、だとしても、

  • 私たちが生まれてから、今まで、振る舞ってきた行為が、まるで「社会契約」があったかのように、規則従順的であったこと

自体がなくなるわけではない。つまり、過去蓄積的に私たちが、事実として、幼少の頃から「ルールに従っていた」事実は、なにも変わることなく、あるわけである。

すぐに気付くように、会社とか組合、学校、宗教(の教団)などは、法的には「法人」という形で「人格」を認められ、独自の権利を行使することができる。国家は規模がはるに大きく、事実上の強制加入である点は違うが、団体であり、それ自体として生物学的な生命は持っていないにもかかわらず、一つの意志を持った公的人格と見なされ、振る舞う点では同じである。
法人を始めとする各種の団体は、通常、自らの意志の決め方のルールを持っており、それは約款などの形で明記されている。そのルールに則って団体の意志が決められた時、その団体の構成員である「私」は、団体に加入した時の契約に基づいて、その意志に拘束される。
それだけに留まらない。その団体に関する業務に従事している時、「私」は、外部に対して、その団体を代表する立場を取らねばならない。団体としての意志が決定されている事項に関して、それを無視して、自分個人の意志(=個別意志)を、公的人格としての団体の意志であるかのように装ったり、そのように振る舞ったりすることは許されない。会社や学校などが、何らかの行動方針を公表したり、不祥事に対する謝罪会見を行ったりする時に、その団体の代表者が、個人的な見解を差し控え、団体の意志を代表することに徹しようとするのは、団体の人格を代表して行為する場面では、自らの意志を団体の意志に一致させる----その団体に参加した時の最初の「取り決め」に基づく----義務があるからと考えられる。
このように、契約に基づいて創設された団体に公的人格を認め、その人格が自然人と”同じように”自己決定・自己表明し、自らの意志で他の公的人格や人間と契約を結び、権利/義務関係を担うこおができると見なすことによって、私たちは複雑に入り組んださまざまな問題を処理している。当事者一人一人の意志をいちいち確認していたから、やたらに時間ばかりかかって、とても決着がつかないような問題が、当事者たちから成る団体を一人格扱いすることで迅速に解決できるわけである。

ルソーの社会契約論は、いわば、現代における「法人」の概念に近いわけである。私たちが、現代社会で、会社などの「法人」を、あたかも「人」であるかのように扱うことを不思議に感じていないことと同様の意味で、ルソーの社会契約論は、言わば、現代における

  • 法人的存在

として、指示されるとした場合の「条件」を列挙している、と考えることもできるであろう。
こういった意味で考えるんら、ロールズの正義論は、ルソーの社会契約論の一つの継承形態と言うこともできる。

こうした読解に基づいてロールズは、一般意志を「社会契約とともに存在するようになった団体、あるいは公的人格(政治体)の構成員である市民に共有され、かつ行使される熟慮=討議的理性(deliberative reason)の一形態」と解釈する。一般意志が意志する=望む(will)のは、「市民たちが自らの共通の利益を実現することを可能にする社会的条件という意味で理解される共通善」である。「共通善」を可能にするのは、「共通の利益」であり、「共通の利益」を可能にするのは、共通の人間本性ゆえに私たちが共有している「基本的な関心」である、という。

ルソーの社会契約は、その法人としての「人格」が、どういった「条件」を満していなければならないのかを、吟味していく論述だと考えるなら、その「条件」の一つ一つは、非常に、ロールズの考える

  • 正義論

と、対応していることが分かる。つまり、ロールズが「無知のベール」によって、人々の「なんらかの共通している人間本性」性を、その条件として推論したように、ルソーの議論も、同様の考察を行っていることが、よくわかる。
例えば、次のような、素朴な指摘も、よく考えてみると、果して、どこまで「自明」なのか、と思ってもみたくなるものであろう。

例えば、刑法で犯罪として処罰される行為として「一般的」に規定されているのは、殺人、窃盗、暴行、障害、名誉毀損など、ほとんどの人が犯す可能性のある行為類型である。「Aさんが、Bという行為をしたとすれば、Aさんは、Cという制裁を受けるものとする」というように、最初からAさんのBという行為だけを取り締まるような規定を設けることはできない。特定の人物にしか適用できないような特殊な規定を持った”法”があるとすれ、それはきわめて不公正であり、「法の下の平等」という近代法の大原則に反する。

なぜ「固有名」でないのか。このことは、大変に興味深い命題を含んでいるように思われる。なぜなら、多くのレイシストは、そもそも、

  • 敵と味方の区別

が、「恣意的」であることに本質があるからである。レイシストは、自分気に入らない相手を「敵認定」する。そして、自分が気に入る相手を「味方認定」する。ところが、そう行った一瞬後には、自分が「味方認定」をした相手を、

  • 自分に悪意のある行動をした

と自称宣言して、「敵認定」に変える。しかしもし、そういうことを続けるのだったら、法律に、「私(=固有名)」が敵認定した奴が敵である、と書いておけばいいのである。
しかし、逆に言えば、「だからこそ」私たちは、ルソーの不平等論に「反して」、平等になるわけである。
ルソーは不平等論において、歴史は、自然人による「理想」的な自然状態から、不平等で奴隷的な方向に「堕落」した、と主張する。ところが、おかしなことに、この「堕落」形態が完成すればするほど、人々は、

  • 逆に自由になる

と言うわけである。そして、その一つの証左が、この社会契約論である。なぜ、私たちは、不平等で奴隷的でありながら、「自由」なのか。それは、上記の例で言うなら、

  • 命令の「非固有名」性によって、あらゆる命令が、貧者だけでなく「富者」自体をも縛るから

である。それは、「奴隷」の形態を見せながら、他方において、そのルールが「富者」をも縛らざるをえないことになることによって、逆に、あらゆる「奴隷的ルールは命令」できない、ことになってしまったのである。なぜなら、その命令をすることによって、富者である自分自身をも「奴隷」にしてしまうから。よって、「貧者」に対してまでも、

  • 一切の奴隷的制約を課すことができない

という意味で、「消極的自由」が、結果として保証されてしまうわけである。

例えば、みんなの共有しているある土地をどのように利用するかをめぐって、みんなで共同で耕作する農地にしようとするAさんと、農地を分割しようとするBさんが、妥協の余地なく激しく争っていたとしても、そこに農地ではなく牧草地として利用しようとするCさん登場してくると、AさんとBさん双方は、自分たちにはCさんとの対抗関係で、当該の土地を農地として利用しようとする「共通の利害」があることを発見するかもしれない。
そこにさらに、農地として利用しようとすることは同じだけど違った作物を作付しようとするDさん、商業地として利用しようとするEさん、誰か第三者に売却してしまおうとするFさん......など違うタイプの人が次々と表われてくることで、各人がお互いの間の利害の違いと共通性を多角的かつより客観的に把握できるようになる。その共同体にとって何が利益であるかという意味での、「共通の利益」が次第に構成されてくるわけである。
「プラス・マイナスの相殺」というのは、お互いの利害を多角的・総合的に比較検討することを通して、全員にとっての共通の利益を明らかにしていくプロセスを指していると思われる。

これが有名なプラス・マイナスの相殺であるが、こうやって見ると、なんの神秘的な色彩もないことが分かるであろう。つまり、ルソーが

  • 定義

する一般意志は、それが

  • 何なのか?

と、その具体性を追求されると、それを確定することには、まったくもって、絶望的なまでに意味のない話に思われるわけだが、実際に、私たちが、どうやって社会的な意見にコミットしているのかの場面に即して考えるなら、それを一般意志と呼ぶかどうかはともかくとして、実に、

  • 当たり前

やっている「行為」だということである(もちろん、そのことが、ルソー社会契約論の本全体において、どう神秘的に使われているのか、ということとは別であるが)。

そうしたルソーの「政治」に対するアンビヴァレント(両義的)な姿勢は、『社会契約論』の実質的な最終章である第四篇第八章に当たる「市民宗教」に端的に現われているように思われる。ここでルソーは、古代の政治は全て基本的に「神政政治」で、政治が神々への礼拝と不可分の関係にあったことを指摘したうえで、近代においても安定した政治を行うには、宗教との再融合が必要かもしれないと示唆している。
しかし、既に見たように、社会契約を通して誕生する「主権者」(=公的人格)はその定義からして、国家の運営に関わること、公的事柄以外は臣民に命令することはできない。彼岸の世界に対する信仰は、主権者の与り知らぬことである。しかし、ルソーに言わせれば、主権者がその項目を定めるべき、純粋に市民的な「信仰告白」がある。

それは厳密に宗教の教理としてではなく、それなくしては良き市民、忠実な臣民たりえぬ、社交性(sociabilite)の感情としてである。それを信じることを何人にも強制することはできないけれども、主権者は、それを信じない者は誰であれ、国家から追放することができる。主権者は、彼らを、不信心な人間としてでなく、非社交的な人間として、法と正義を誠実に愛することできぬ者として、また必要に際してその生命を自己の義務に捧げることのできぬ者として、追放することができるのである。(前掲書、一九一頁)

このようにルソーは、法や正義に対する愛、国家への忠誠心など、市民としての基本的な信条に内容を限定した「市民宗教」を提案する。

上記での最初にも言ったように、ルソーは社会契約論の最初において、この「仮説」を、

  • 証明

することによって、あの本を書き始めたのではない。むしろ、証明することなく、「もしこういうものがあるとしたら、どういった条件を備えていなければならないのか」を、延々と列挙していったのが、あの本だと考えられる。
上記の引用にもあったように、そもそも、その「実体」に迫ろうとすればするほど、この概念が「嘘」としか言いようのないものであることが分かってくる。そして、そのことを十分に理解していたルソーは、当然、この本の最後において、その問題から逃げることはできなかった。
そして、そこで彼が最後に言った「アリバイ」が、

  • 市民宗教

である。つまり、近代憲法の「幾つかの条文」

  • そのもの

を「神」とする宗教である。ルソーは一方において、社会契約が満たさなければならない条件を検討しながら、そもそもこの社会契約は、「祭政国家」でなければ実現できない、と考えていた。つまり、この条件と

がどこまでの距離のものであるのかは、かなり疑問だということである。ルソーはそもそも、社会契約は「宗教なしには無理だ」と言っているわけである。しかし、この場合に言っている宗教は、言わば、

である。ここには、人格神としての、イエス・キリストもいない。天皇という現人神もいない。ここにいるのは、

という、ただ「命令」だけが存在する、不思議な「宗教」である。ルソーは、それによって「どうしてこれが宗教になるのか」を説明しない。説明しないが、なにか、こういった「伝統的」な枠組みがない限り、社会契約論は、矛盾でしかない、と考えていた、ということである。
しかし、このことは逆から言えるのではないか、と思わないだろうか?

ルソーは、諸個人が一般意志に完全に支配されて、あらゆる葛藤から解放されるとも、そのためにマインド・コントロールのようなことをやるべきだとも言っていない。既に見たように、ルソーは、私的事柄は、一般意志の管轄外だとしている。
ただ、その一方で、ルソーが示した一般意志を成立させるうえでの理論的な困難を何とか解決しようとする場合、諸個人の意識を改造し、”一般意志”に強引に適合させるというやり方がすぐに思い浮かんでくるのは確かである。

つまり、ルソーのプログラムが著書の最後の最後で、自分が目指したプログラムは、国民を、ある「市民宗教」の信者にすることによって以外には達成できないような

  • 瑕疵

がある、と言った時点で、彼が、このプログラムの「なんちゃって」をやっちゃってたという事実に「耐えられない」人たちは、そのアポリアの解決を

  • 未来

に託す、というアイデアがありうるであろう。もう一つが、上記の引用にあるように、

  • 本当の意味での「奴隷」

つまり、不平等論での「奴隷」化の「完成」による「国民の一般意志化」である。この方向こそ、オウム真理教が目指した、一種の「教祖のコピー」化に近いものがあるであろう。
ようするに、ルソーの一般意志論の不可能性を面前にして、現代人は、

  • やっぱり一般意志を目指すのか?
  • そもそも一般意志を捨てるのか?

のどちらを選ぶのかを迫られている、というわけである。

ルソーを全体主義と結び付ける議論を広めるきっかけになったとされるのは、ポーランド生まれのユダヤ人、英国やイスラエルで研究・教育活動に従事した歴史学者ジェイコブ・タルモン(一九一六 -- 八〇)の著作『全体主義的民主主義の起源』(一九五二:邦訳タイトル『フランス革命と左翼全体主義の源流』)である。この本でタルモンは、『不平等論』と『社会契約論』を直接的に結び付け、さらにそこにルソー自身の生い立ちを投影する形で、ルソーの思想自体が全体主義的な傾向を持っていたと示唆している。
母なき浮浪児であったルソーは、温かみや愛情に飢え、親密な人間関係を築こうとしたが、何度も現実の社会の中で人間の冷たさを味わわされ、挫折してきた。彼の著作は、自然状態を離脱した時、(自然に回帰したいという)衝動と、文明社会が課す義務の間で葛藤し、苦悩する人間の姿が描かれているが、そこにはルソー自身の苦悩が託されている、という。

そもそも、ルソーのこの不平等論から社会契約論を導出するスタイルの何が問題なのか。
そのことを、掲題の著者は、ルソーの奇妙な、

に見出している。ルソーは、なぜか、はるか太古の自然人は「幸せ」だった、と仮定する。つまり、そこには「ユートピア」があった、と仮定するのである。
つまり、掲題の著者はそれを、「母なき浮浪児であったルソーは、温かみや愛情に飢え、親密な人間関係を築こうとした」そのことの

  • 挫折

をイマジナリーに回復しようとした、ことに「原因」を見出そうとする。
こういう意味において、ルソーの議論は、どこか、ニーチェによるキリスト教批判を思わせるものがある。

『人間の条件』でアーレントは、アリストテレスの議論などを参照しながら、「公的領域」と「私的領域」が厳格に分離されていることが、人が「人間」として自己形成するうえで不可欠であった、と論じている。「公的領域」とは市民たちが言論によって相互に働きかけ、説得し合いながら、ポリスの在り方をめぐる共通の物語を紡ぎ出していく領域、言い換えれば、「政治」の領域である。市民たちが、物質的な利害関係に囚われることなく自由に「活動 action」することのできる公的領域は、間主体的に構成される「自由の空間」である。この「自由の空間」で各市民は、他の市民たちと向き合って、互いの意見を提示し、「善き市民」を演じ合うことで、物事を他者の視点ら複眼的に見るまなざしを獲得していく。このように、自分とは違った味方をする他者たちと、言語を介して繋がっていることを、アーレントは「複数性 plurality」と呼ぶ。
それに対して、「私的領域」は、具体的には、市民たちが生活する「家 oikos」の領域である。

伝統的かつ一般的に、「政治」とは、ここでアーレントが言っているような「公私の区別」、それによってもたらされる「複数性」をベースにしている、と考えられている。
そのように考えると、ルソーの言っていることは、どこか、

  • 政治ではなく「宗教」

のようにしか思えなくなってくるわけである...。

リバティの方は、語の作りから見て分かるように、「解放 liberation」と繋がっている。「解放」は、各種の左派・反権力的な運動の名称やスローガンになっていることからも分かるように、抑圧や貧困などの負の要因から「解き放たれる=自由になる liberate」ことを意味する。「解放」というニュアンスを強く帯びているリバティは、人々を”不自由”にしているもの、行為の妨げになっているものを取り除くことで、”自由”にする、というような文脈で使われることが多い。そこに、人間は本来”自由”な存在として生まれてきたが、社会のさまざまな「外観」(=習俗)のおかげで不自由になっているというルソーの議論が加わることで、人々を苦しめる歪んだ制度を破壊することによって、各人は、自然状態のように”自由”になれる、という「解放の思想」が生まれてきた。

アーレントはまず、合法的統治の前提条件としてルソーが呈示した一般意志論、「合意 consent」をその条件とする古代の理論とは質的に異なったものであることを指摘する。「合意」というのは、異なった立場の人々が意見交換して、慎重に相互を調整し、最終的に一致に至るというようなことを含意する。それに対して、「意志 will」という言葉は、それが最初から”一つ”であり、不可分のものであることを含意している。

アーレントに言わせれば、「偽装の仮面」を取り除くということは、法によって各人に付与される「人格 person」を剥奪することでもある----<person>の語源であるラテン語<persona>の原義は、「仮面」である。「法的人格」があるおかげで、市民は権利・義務の主体として公的舞台に現われることができるわけだが、(既存の「法=権利」の体系の不当性を強調する『不平等論』の影響を受けた)ロベスピエールたちは、その「人格=仮面」までも破壊しようとした。彼らにとっては、人が市民として活動することを可能にしてきた「人格=仮面」も、「同情=共感」する能力を妨げる要因だったのである。

母なき浮浪児であるルソーは、どうしても、人間に、「ほんとう」を見ようとしてしまう。つまり、人間を「存在しない母親の代替者」として、仮託してしまう。母と子が、終生繰り返す、

  • なんの遮るもののない「ツーカー」のコミュニケーション

の「理想」を見ようとしてしまう。だから、そこに「嘘」があることが耐えられない。
しかし、彼が理解していないのは、そもそも、母と子の間に行われる「信頼」のコミュニケーションは、子供が産まれてから今に至るまでの、

  • 蓄積

の産物だ、ということである。つまり、この蓄積なしに、ああいった「ツーカー」はありえないし、事実、産まれてから離されて暮して、大人になって始めて会った二人の会話は、普通に、「他人同士」であろう。

ルソーの思想全体の展開を、『告白』(一七六五 -- 七〇)や『ルソー、ジャン=ジャックを裁く』(一七七二 -- 七六)などの自伝的エクリチュールで語られている彼の人生の重要な諸局面での経験と重ね合わせる形で分析し、ポスト構造主義的なルソー読解の方向性を示した文芸批評家のジャン・スタロバンスキ(一九二〇 -- )は、その主著『透明と障害』(一九五七)で、まさにそのタイトル通り、(言語的)コミュニケーションの「透明性」とそれを妨げる「障害物」という視点からのルソー理解を試みている。
スタロバンスキによれば、ルソーはその生涯にわたって、「外観」や「見せかけ」のような不純物を含まない純粋なコミュニケーション、観念的な「記号」を介さないで通じ合えるような、他者との純粋な交わりを求め続けた。

こうしたスタロバンスキ=デリダ的な視点か見れば、半教育小説の体裁を取る『エミール』や、プラトニックな恋愛小説である『新エロイーズ』(一七六二)などと同様に、『社会契約論』も、ルソーが夢想した”透明なコミュニケーション共同体”の一つの可能性を具象化した、一種の壮大なフィクションであるように思えてくる。

私も、こういった「純粋主義」が、いかに、現代の民主主義を「歪んだ」視点で人々に見させているのか、を説明しているように思えてならない。
アーレントが言うように、私たち人間は、「仮面」をかぶっているから、始めて、

  • 自由

なのであって、お互いが「ほんとう」をされけだしてはならないのである。もしも、お互いが「ほんとう」をさらけだしたら、その「ほんとう」が、

  • 共感「すべき」規範

になってしまう。つまり、もしも、お互いの「共感」が、

  • 常にある社会

が実現したと考えたとき、それは「何が起きている」と考えられるか。
お互いが「共感」するということは、お互いの「本質」が

  • 同じ

ということを意味してしまう。つまり、お互いを「区別」することに意味がなくなってしまう。つまり、

  • 世界のフラット化

が起きてしまう。世界中の人を区別する意味がなくなってしまう。
つまり、「一般意志」が実現してしまう、のである。
ということは、アーレントの言う意味で「政治の終わり」である。アーレントの意味において、政治とは、人々が「隠している」ことを本質とする。人々が互いに「不透過」であること、「不透過」であるとお互いを

  • 扱う

ことを本質とする。それが「倫理」である。他者を不透過な存在として扱うことなしに、倫理学はありえない。
そういう意味で、政治学は、「不可知論」と切っても切れない関係にある。
例えば、3・11以降、福島の放射性物質の健康への影響について、さまざまに、「デマ」や「嘘」や「トンデモ科学」というレッテル貼りが使われた。しかし、

  • デマ「だから」悪
  • 嘘「だから」悪
  • トンデモ科学「だから」悪

という立場を、アーレント政治学はとらない。というのは、アーレント政治学は「仮面」の倫理だから、だ。もしかしたら、ある状況においては、

  • デマを言うことこそが倫理

かもしれない。

  • トンデモ科学の態度をとることによって、一時的にでも救われる人々がいるかもしない

ならば、それが、一時的にせよ「倫理」かもしれないわけである。
アーレント政治学が、政治を「仮面」とすることは、人々を「自由」にするため、である。そのことによって、始めて、政治の「複数性」が担保されると考えるためである。逆に言えば、政治の複数性の担保をもたない政治はすべて、全体主義なのである。
プラグマティズムとは何かを考えたとき、私はそれを、「困っていないのに困っているかのように振る舞わない」ということではないか、と考える。
つまり、「杞憂」である。空から、天空が落ちてくる、と職業哲学者は、言う。彼らは自分の実感として、そんなことを心配していないが、

  • お金儲け

のためには、なににおいても「ネタ」が必要なのである。人々を不安に落としいれて、自分の本を売らなければならない。そのために、自分が本当はそれほど「心配」していないことを、さも「地球が滅ぶ」と言いたいかのように、問題視するわけである。
プラグマティズムとは、いわば、「こういった連中の

  • ためにする

お金儲けの、いい金づるにならないこと」を誓うことである。
昔、今は亡くなったが、数学者の森毅が、なぜ古代ギリシアで公理主義が発達したのか、ということを、なにかの対談だったかで書いていた記憶があるが、ようするに、古代ギリシアのポリスというのは、「国際都市」だから、いろいろな出自の人たちが集まってくるので、なにが

  • 自明

なのかが、そんなに自明じゃないんだ、と。そこで、ある幾つかの

  • どんな出自をもった民族の人たちでも

合意できる、非常に簡単で少ない規則(=公理)から、話を始める、という慣習が、比較的に納得を得られたのではないか、と。
こういった態度は、言ってしまえば、すでに、ルソーの夢見る「理想的な透明コミュニケーション」をあきらめた結果だと考えられるであろう。つまり、すでに数学の世界では、古代ギリシアにおいて、ルソー流「透明幻想」は、放棄されていた、ということである。
対して、アーレントの「仮面」政治学は、最初から、そういった「幻想」を仮定していないだけでなく、目指してすらいない、ということを意味していることが分かるであろう。
確かに、アーレントの立場は、倫理的に正しいということになるとしても、ルソーがそのように思わずにいられない「幻想」があることは、きわめて、

  • 現代的

な問題だとも言えないことはないのであろう。つまり、現代人は少なからず「不安」を生きている。その、どこからともなく、自分の中に湧いてくる「不安」を一瞬にして、吹き飛ばしてくれる「特効薬」が欲しいのである。そういう意味で、アーレントの態度は、やはり「貴族」的なのであろう。かといって、ルソーのように自分の「耐えられない」欲望から、「幻想」をまるでリアルな代替物であるかのように生きる未来が、本当に幸せなのかは、大いに疑問なのであって、ハイデガーではないが、現代という機械文明時代に、

  • なんとなく

内から湧いてくる「不安」に、現代人は「耐えられない」という本質にこそ、現代という時代の弱く「傷付く」時代の風潮がある、ということなのであろう...。

今こそルソーを読み直す (生活人新書)

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