悪のマーケティング

つい最近、大澤信亮さんの「復活の批評」を読んだのだが、どうも、私の関心とずれた議論をしていることが、気になる。
もちろん、自分がどう思ったとか、どうでもいいことであるが、結局、こういうことが言いたいのであれば、それは、「批判」になっていないんじゃないのか、ということは、素朴に思うわけである。

一般論として、書いているもの(メタレベル)と書かれているもの(オブジェクトレベル)は、分けて考えられている場合が多い。たとえば、ある情報を得ようとするとき、それを書いた人間がそこで問われる必要はないし、むしろ問う必要がないように書くべきである。しかし、書くという行為を突き詰めていくと、そのような区別では片づけられない領域に触れことがある。たとえば、書くとはどういうことかと考えるとき、それを書いている「この私」自身が分析の対象に含まれざるを得ない(ここでは話をあえて日常言語のレベルに単純化しているが、厳密に言えば、これは科学的観測問題量子力学]、数学基礎論不完全性定理]、システム論[自己組織化]において考えるべきである)。
これは、書くことのなかに絶えず自分を織り込むタイプの記述がもたらす感覚だが、べつに方法的なトリックによるものではない。目の前の現実を問おうとすれば、その現実を見つめつつ、それを疑う「この私」が要請されるだけだ(だから、「私」と書けば疑っていることになるわけではないし、必ずしも「私」と書かれる必要もない。そこから問いが始められているのか、単なる知的パズルなのか、情報の整理なのか、あるいは自己懐疑を偽装した自己肯定なのかは、記述と分析の過程において示されるほかない)。
このような、対象自体に自分が含まれる記述を続けていると、やがて能動と受動、主体と客体が入り乱れる瞬間がやって来る。自分が言葉を書いているのか、言葉が自分に書かせていのか。あるいは、自らが認識の条件を問う過程で、それを問う自分自身が、疑うべき条件を前提にしているというパラドックスにはまり込んでいく。柄谷氏の「内省と遡行」や「言語・数・貨幣」は、このような異常感覚やパラドックスに曝されながら、それを何度も突き放すことで書き進めたれて行く、凄まじいテクストだった。
しかしこの試みは柄谷氏自身によって失敗の烙印を押される。それは結局のところ自己に閉じているのだと。自己をいくら問うても、行き着くのはパラドックスであり、その決定不可能性こそが現実なのだという議論は、確かに何か閉じている。東氏はこのような思考のタイプを「否定神学」と名付け、それに対する抵抗を中期デリダに見ようとした。それは柄谷氏の自己規定もあって、何となく、正しい道筋として理解されてきた。しかし私は、『探究』シリーズや『トランスクリティーク』その他に見られるキャッチ・コピー的な文句よりも、この時期の柄谷氏にこそ何かがあるという感触を禁じえない。

新世紀神曲

新世紀神曲

上記の主張が、明らかに変なのは、東氏の「否定神学」という「キャッチ・コピー」を、柄谷氏が自称した、「内省と遡行」や「言語・数・貨幣」における、

  • 失敗の烙印

の方のことを言っているのだと整理していることであろう。『存在論的、郵便的』の前半に書いてあることは、これとは、

で、柄谷氏が「失敗の烙印」を押して、次に始めた、「探究」における姿勢(ウィトゲンシュタインクリプキなどを介して、追求される、いわば、「他者」論)の方が、「否定神学」的な構造になっている、ということであったわけであろう(どうして、大澤氏は、こんな勘違いをしたのだろう?)。
だから、むしろ、大澤氏がここで言っていることは、東氏の主張に近いわけである。
お互いに共通するのは、なんらかの「大文字の哲学」を追求し、それを、お互いとも、あきらめていない、ということではないか。なにか「教科書」的な「哲学」と呼ばれるべきものがあるんだ、ということについては、お互いとも、捨てていない。
しかし、私の視点から見させてもらうなら、大澤氏のように、こういったことが言いたいのなら、はっきり言って、東氏が言っていることも、やっていることも、「どうでもいい」わけである。
私がこだわっているのは、全然そんなレベルの話じゃない。
例えば、井上達夫さんの『世界正義論』という本があったが、あそこに書かれていたような、

  • 消極的正義(正義を行うと言っている人自身が、首尾一貫していない矛盾した(=問題のある)行動をしている限り、それは、正義じゃない、と考える姿勢)

のレベルを満たしていない、そういった、低レベルの問題をずっと言っているわけであるが、そういったことは、あまり、学校の先生たちは、真面目には受けとられないようだ。

生活保護に対して、それこそ2ちゃんねるみたいにネット上で、「あいつら不正受給でうまい目満てるんないか」という嫉妬の怨嗟が出てくるのは、結局情報が公開されてないからです。BIというだけではダメで、使途を原則公開するしかないと思います。極端な話、万人が万人のBIの使い道を監視できるようになる必要があるかもしれません。そうでないと、「あいつはBIをガメてて、子供を放置してパチンコばっかり通ってる」とか、変な詐欺が横行するだろうと誰もが予測してしまう。そういう告発や怨嗟に対してこそ、オープンネスを使えば良いんじゃないでしょうか。あそこの家はおかしいよ、と考える人が所定の法的な手続きを経て、検査機関に訴えたり、チェックできるようにすればいいと思います。

ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

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ただ、僕がいっているのは、オープンになるのは結局ギリギリの生存のお金だけであるような世界です。すべてを丸裸にする監視社会の話はしていない。オープンネスとセットになったBIなんて気持ち悪い、自分は絶対匿名的なところに行きたいんだという人は、それとは別の市場で金を調達し、プライバシーを買ってもらえばいい。これも、いまだって実際にはそうなっていると思いますけどね。
ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

ようするに彼は、生活保護とは「トレードオフ」だと言っているわけでしょう。というか、プライバシーは国民の権利「じゃない」と言っているわけですね。そういう意味で、ハンナ・アーレントの政治の定義に真っ向から、反対しているわけです。
つまり、一種の「奴隷」制なんですね。じゃあ、なんで、ここでわざわざ、奴隷制の話が出てきたのかというと、上記の引用で、ネトウヨが、生活保護を受けている人が「ずる」をしていると、疑心暗鬼になっているからなんだ、と言うわけです。
でも、この議論は明らかに、おかしいでしょう? だって、そういったネトウヨだって、稼ぎがなくなれば、生活保護を受けることになるんでしょ? そして、自分が生活保護を受ける立場になったときに、

  • どう思うのか?

が問われているんじゃないんですか(それが「当事者」という意味でしょう orz)。
お金がなくて、むしゃくしゃして、パチンコがやりたくなるのは、「人情」じゃないですか! それの、なにが悪いっていうんでしょうか。心の弱い人は、そりゃ、やるでしょう。しかし、だとしても、その人の「プライベート」を守ることが、その人を「奴隷」として扱っていない、という証明なわけでしょう。
(実際に、日本において、本当は生活保護を受ける権利があるにもかかわらず、多くの人が受けていない現実があることの方が、「圧倒的に」数の上も深刻であるわけで、ネトウヨの心配をしている場合なんですかね orz。)
ハンナ・アーレントの人間の「条件」からしてみれば、「プライベート」があるから「人間」として<扱っている>わけでしょう。この一点においても、この人は非常に危険な「全体主義者」であることが分かるんじゃないでしょうか。

それとは別に、おそらく日本でそういう議論が高まるのは、やっぱり日本が基本的に天下り特殊法人、そしてその周りのファミリー企業国家であって、いまの日本における「公」に対して、誰も信用していないからでしょう。だから、いまの日本で無料サービスとかいったら、「また特殊法人増えんのかよ」と誰もが思うわけですし、実際にどんどん太っていくわけです。いまは保育園が足りないけれど、あと20年もしたら、今度は子供もいないのに、保育園ばかりつくられていたとか。そういう意味でも、やっぱり民営化とクーポン化の方が良いんじゃないでしょうか。日本でスウェーデンみたいなタイプの方向に舵を切ると、保育園公団みたいなものが現れ、大変なことになっていく可能性もあると思います。
ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

でもこれも当たり前で、保育園って人生で一、二回しか行けないわけですよ。何回も保育園を選んで失敗するという蓄積はありえないから、親もリテラシーがない。でも、駅から近い保育園は、雑居ビルの三階とかで、園庭もなくて、子供にとっては必ずしもベストでなかったりするわけですよね。
現に保育園の認可基準の鉄扉で揉めていて、一方には待機児童が山ほどいて、他方には質の低い保育園が増えるだろうという気がすると。でもそれは、市場に任せたからではなく、親たちの心の貧しさ、見る目のなさみたいなものだと思います。
ベーシックインカムは究極の社会保障か: 「競争」と「平等」のセーフティネット

上記の引用は、さらに、異様な印象を受けないだろうか。今、現に、多くの待機児童がいて、その人たちをどうするか、また、少子化で若者が子供を産まなくなっている現実があって、少しでも、育児の不安を解消していくことが求められている、この今において、

  • ベストの保育園を選ばない親は馬鹿だ

みたいなことを言っているわけであろう。むしろ、状況は絶望的なまでに逼迫しているでしょう? だったらなら、なおさら、

  • 暫定的な、多少、規制から外れる場合でも、柔軟に認めていく(そのリスクを、ヒューマン・セキュリティでチェックしていく)

という姿勢が重要であるはずなのに、よく分かんない「理想論」を延々と述べている(なんか、自慢がしたいんですかね orz)。多くの親は、駅前にもっとあれば「便利」だと思っているんでしょ? 当たり前じゃないんですかね? 子供なんて、親がいようがいまいが、勝手に育っていくわけで、余計なお世話であろう。
ところで、炎上マーケティングステルス・マーケティングという言葉は、アカデミックには、「承認」された概念なのだろうか?
ステルス・マーケティングについては、一部のブログの「やらせ」が発覚したとき、その問題性が、大いに指摘されたこともあり、それなりに、

  • 負の概念

として、一定のアカデミックな考察対象として、認められたように思われる。
ステマは、確かに「悪質」であるが、ある意味、「桜(さくら)」と称して、昔からある手法ではある。比較的、その意味は考えやすい。
では、炎上マーケティグについてはどうだろうか? 私は、この炎上マーケティングという概念は成り立たないんじゃないかと思うわけです。つまり、「反語」だと思うわけです。つまり、これは「マーケティング」ではない。というのは、炎上マーケティングの特徴は、いずれにしろ、その発言者は、その発言の

  • 責任

をとらされるように思われる、ということである。人間的に悪質なことを言えば、当然、その人は「悪質」な人だと思われる。つまり、なんにしろ、その「責任」は本人が取らされる、ということである。
例えば、東さんの以下の発言は、わざわざ「観光」という言葉を使うことが、福島の避難している人を

  • 挑発

する、「軽薄」な、「他者を侮辱」する発言であることを、

ことを認めている場面である。

昨年8月に、週プレが初めてこの観光地化計画を報じて以後、東は何度もテレビや新聞に登場し、計画の説明に言葉を尽くしてきた。しかし、「観光」という、ある意味で軽薄な言葉が持つ負のインパクトは大きく、さまざまな場所で痛烈な批判の声が上がった。今年9月に「Yahoo!Japan」が独自に行なったアンケートでは、「福島第一原発の観光地化、どう思う?」という質問に対して、5万人もの回答者のうち64・9%が「観光地化はそぐわない」と答えている。
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全然いい結果だと思います。僕は、批判的な感情も込みで、この計画に関心を持ってもらうために「観光」という軽薄なキーワードを使いました。だから大成功ですし、むしろ反対がこれだけだったことに驚いています。
screenshot

さて。日本観光団体は、こういった(侮辱的)「態度」を続けている、彼らを、まともに、「自分たちの仲間」だと考えるであろうか?
ポット出の、観光コンサルが、自分たちが

  • 目立ちたい

がために、福島の避難している人への「侮辱」発言になっていることを

  • 自覚

しながら、あえて、こういった発言をしているわけだ。
ここで、重要なポイントは、その発言の文言が、「侮辱を意味していると解釈できる」ではなく、本人が「侮辱を意図して(その派生的効果の、炎上マーケティングによる旨み(うまみ)を期待して)」行っているわけである。
どう思われます? こっちの方が、何倍も、悪質だと思いませんか?