西尾維新『悲業伝』

ここで、今までの、この<伝説>シリーズを、おさらいする意味で、その「まとめ」を行ってみたい。
この西尾維新の<伝説>シリーズの始まりが、3・11での震災をきっかけとしていたことは、この作品を読んでいる人には自明であろうが、もっと正確に言うなら、3・11での震災の後、

  • あっという間

に人々が、この震災のことに興味をなくしていったこと、つまり、まるで忘れてしまったかのように、<日常>に戻って行ったことへの不信感が大きくあったことが分かる。
つまり、ここに彼は、ある種の、消費社会であり、広告社会であり、ポストモダンでありといったものの、

  • 消費的知(=資本主義的知)

に対する違和感を表明している、と言えるであろう。
この問題に対する、「空虚さ」を象徴する存在として、主人公である空々空(そらからくう)が存在している。彼の特徴は、「国語」的と呼んでもいいが、もっと簡単に言うなら、

  • 論理的

なのである。しかし、である。論理とは何であろうか? 論理とは、そもそも、「慣習」的なものである。つまり、論理的であることは、少しも「正しい」ことを意味しない。論理的であることは、学校のテストの「(国語的)正解」であることを意味したとしても、そのことを、どうして私たちの「生きる」場所である、「今ここ」において、それを受け入れなければならない、ということを意味するだろうか。
論理的であることとは、慣習的に、今まで人々が「合意」してきた作法を意味するにすぎない。
論理的であることは、そういう意味で、一見すると、「説得的」であるように聞こえる。しかし、このことを逆から言うなら、それは

  • 暴力的

だと言っているのと変わらないのだ。なぜ説得されなければならないのか。その強引さにおいて、「論理」という仮面は、最初から嘘(うそ)なのだ。

これまで死は生の反対概念、すなわちその否定として理解されてきました。もっとも一般的な表象としては、誕生から死に至る期間を生ととらえ、その期間の終了をもって死とみなすことがそれに当たります。つまり死はあくまで生に付属するものであって、それ自体には「自立」した意味が認められないのです。「死んだらすべてお仕舞い」という言い回しが象徴しているように、死は生のみならず、あらゆる存在の消失でさえあります。こうした死についての表象は、むろんそれなりの根拠をもっていますし、じじつれわれはそういう一般的な表象をもちながら日常を生きています。
これまでの多くの哲学的言説も基本的にこの表象をもとにして成り立っています。この表象において死は、いわば生の空集合のようなものですから、生の否定態として「論理的」にあつかうこともできます。哲学では、こういう発想の典型はヘーゲルや近頃の分析哲学などで見うけられます。たとえば、ヘーゲルは『精神現象学』においてこう述べています。

というのも、生が意識の自然な肯定、絶対的な否定性を欠い自立性であるように、死は意識の自然な否定であり、したがって求められ承認の意味を欠いたままにとどまている自立性である。(Phanomenologie des Geistes, S. 145)

しかし、私はこうして論理中心主義的に生と死をとらえてしまうことに疑問を感じます。言い換えれば、死というの、はたしてたんなる生の否定ないし裏返し、あるいは生の影にすぎないのだろうか、という根本的な疑問です。

フロイト講義“死の欲動”を読む

フロイト講義“死の欲動”を読む

主人公である空々空(そらからくう)は、作品を読む限り、恐しいまでに「普通」の人である。ところが、この主人公の回りに集まってくる、彼をさまざまに支え、サポートすることになる

  • 戦友

たちは、次々と、死んでいく。ところが、空々空(そらからくう)は、こうやって自分をかばい、自分のために、命を失っていった人たちが、次々と消えていくことに、ほとんど、なんの動揺も現さない。むしろ、

  • 異常

であるのは、この「普通」さの方にある、わけである。この彼の「異常」さは、作者の視点において、3・11を後にして、急速に「日常」に戻っていく私たち自身の「普通」さという

  • (消費社会的)異常さ

に向いていることが分かるであろう。

「......それにしても」
と、空々は『実検鏡』越しに双眼鏡越しに、幼稚園の園内で行われている、ここまで血のにおいが届いてきそうな、酸鼻極まる虐殺劇を見ながら、特に何も感じず。

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

「酷いことをするよな、まったく。人を守るために人を殺す。そんな発想だから僕は人間を滅ぼすことに決めたんだよ」
「!!」
いきなり後ろから話しかけられ、空々は衝撃と共に振り向いた。
悲鳴伝 (講談社ノベルス)

空々空(そらからくう)は、地球撲滅軍の自らの上司によって、ある「機械」によって「彼らが敵である」という判定方法によって判別された敵である、というだけの理由で、次々と、幼稚園児を虐殺していく。なぜ彼は、こういった「手続き」に疑問を抱かないのか。それは、逆に言えば、私たちが、イスラエルによるガザの住民を次々と爆撃で殺している光景を、まるで

  • 普通

のことであるかのように眺めている事態と、非常に近似したものとして見ていることを意味している。この、消費社会的な、「見世物」的なニュースにおいて、アメリカや日本の政府が、それを「正義」のための必要最低限度の暴力だと言うと、途端に、何も言えなくなる。
まさに、空々空(そらからくう)が、幼稚園児を一人一人、次々と虐殺するように、イスラエルによるガザへの爆撃によって、幼い子どもたちが、次々と死んでいく、のを「しょうがない」と眺めている、というわけである。
しかし、作者は、そもそも、こういった「設定」そのものに、次第に「無理」を感じてくる。というのは、むしろ、逆なのである。作者が、どんなに主人公の「普通」さを強調しても、読者には、その作者の「キャラクター」的な「設定」自体に、その

  • 異常

さを読み込んでしまう。そもそも、こんな人間はありえない。そこで、作者は、ある意味において、読者の「感覚」に妥協していく。

しかしまずは例の精神ブロック剤から集めにかかるところが、空々空らしさでだった。焦りがないわけではないけれど、しかしとことん、合理を追求する。
精神ブロック剤。
精神を落ち着けるための薬ではあるが、痛み止めにもなり、そして即効性が高い。とにかく戦わず、逃げ切ろうと思うのならば、足の裏や、それに全身に受けた拷問の傷の痛みを、更に麻痺させておきたい。空々空のことだ、精神には党是ながら乱れはないのだが、しかしそれでも肉体に乱れがあると、咄嗟に動けなくなる。

悲痛伝 (講談社ノベルス)

悲痛伝 (講談社ノベルス)

主人公である空々空(そらからくう)の「異常」さは、しょせん「ドラック」の異常さ、と類似のものとして解釈されていく。これは、言ってみれば、精神病院に通う患者が、次々と、怪しげな

  • 薬(くすり)

を処方されて、なぜか「元気」になっていく状態と似ているのかもしれない。もちろん、「元気」になって、今までと同じように、会社に通い、学校に通えるようになったのなら、なにも問題はないじゃないか、と思うかもしれない。
しかし、そうだろうか。
むしろ、精神に「異常」があることの方が、「普通」なのかもしれない。しかし、空々空(そらからくう)は、その問題を、「身体問題」にすりかえる。精神なんか、どうでもいい。

  • 体が動かない

ことが問題なんだ、と言うわけである。どんなに精神が壊れようが、そんなものは最初から壊れているというか、「ない」のと変わらないのだから、むしろ、問題は、それによって、なぜか「体」が勝手に自分の言うことを聞かなくなることなのだ、と解釈する。
しかし、作品は、そんな主人公である空々空(そらからくう)の

  • 悟り

を裏切る方向に話は進む。それが、地濃鑿(ちのうのみ)である。
空々空(そらからくう)とは、一種の「ダークヒーロー」だと言っていいだろう。彼は、一見すると「普通」である。しかし、作品を読み進めていくと分かるように、彼は、言わば、人間ではない。彼はむしろ、人間というよりコンピューターの方が似ていることが分かる。つまり、気持ち悪いまでに、論理的であり、国語的なのだ。彼のその異常さがなぜ、世間に対して素直に「異常」と解釈されないのかは、むしろ、彼が「頭が良すぎ」て、世間が彼を異常と受け取られないように、自分を

  • 正常であるかの「ふり」をする演技力が極端に肥大化している

から、と解釈できる。
空々空(そらからくう)は、ある「論理性」において、この地球を滅ぼすことさえ、「論理」的に実行するであろう。その「ダークヒーロー」としての彼を、まさに、

  • 普通の意味

において、「異常」だと解釈しうる地平とは、どういった弁証法的な段階において、受け入れられるであろうか?
それが、地濃鑿(ちのうのみ)であった。
彼女がなぜ、そこまで重要であったか。それは、彼女が、空々空(そらからくう)の、一種の「パロディ」として登場したから、なのである。つまり、彼女は彼「以上」に、異常なまでに「論理的」だったのである。
よって、何が起きたか?
つまり、いつもの、彼の「クール・ジャパン」的なキャラクター的設定が無効にされたのだ。むしろ、空々空(そらからくう)は、否応ながら、地濃鑿(ちのうのみ)との対関係において、

  • 常識

の範疇を担う側を演じることを強いられたわけである。

「ですね。って、あれ? 空々さん。忘れてますよ」
「忘れてる? 何を?」
「ほら」
と、地濃は、両手を揃えて、空々に突き出す。
言うならそれは『お縄頂戴』のポーズだった。
「私を縛るのを忘れています。腰縄も」
「............」
空々は少し黙って。
表情に乏しい彼が珍しく嫌そうな顔をして、
「もういいよ、あれは」
と言った。
それはひょっとすると、空々なりの地濃に対する感謝の意の表れであり、そして普段口癖で言っているだけのそれとは、まったく違うものだったのかもしれなかった。

悲惨伝 (講談社ノベルス)

悲惨伝 (講談社ノベルス)

興味深いのは、ここにおいて、空々空(そらからくう)は一度、

  • 死んだ

ということである。最初の引用において示唆したように、「死」とは、伝統的に哲学において、「論理」の範疇において扱われてきた。つまり、死とは「生の否定」のこととして整理されてきた。そして、そのことは、言わば、

  • 常識

として、人々に解釈を許さない「暴力的言説」としての強制性を与えてきた。つまり、ここに、ある「混乱」が見られることに、注意がいる。
論理的であるがゆえに、次々と幼稚園児を虐殺した空々空(そらからくう)が、ほとんど、なんの必然性も感じられない、「決まぐれ」のような、

  • 地濃鑿(ちのうのみ)の行動

によって、一度死んだ、空々空(そらからくう)は蘇えさせられる。この「事実」を彼は、今までの、

  • 普通=常識=論理的

といったものによって、解釈できなくなっている。つまり、ある意味において、作者が最初に「設定」した、キャラクター的フレームの枠の中に収まれなくなっている、ということを意味するわけである。
さて。
物語とは、結局のところ、なんだろうか。
物語とは、作者による「メタ・メッセージ」である。ということは、どういうことだろうか。つまり、物語は時間軸に沿って、先に進む。この場合、次のような形式によって、「メタ・メッセージ」として示される。

  • 謎(なぞ) --> 答え

つまり、フラグ理論ということである。作者には、なにか「書きたい」ものがある。それは、作者が「言いたい」ことだと言っていい。それは、作品の「全体」によって、示される。なぜなら、

  • だから

作品は、その「長さ」が必要だった、ということを意味するからだ。つまり、作品は前半において「全て」が示されない。しかし、このことは、ある意味、「反語」的であるが、後半に「全て」がある、ということを意味しない。つまり、前半は「無意味」ではない。
なぜ、前半があるのか。
それは、作者の「メタ・メッセージ」が、時間軸において、示さざるを得ない「構造」をもっているから、と解釈できる。つまり、前半は、たんに物語の「最初」を意味するだけでなく、すでに、その時点において、作者のなんらかの「メタ・メッセージ」の一部(=フラグ)が示されている、と解釈できるわけである。
西尾維新の作品において、その「フラグ」とは、主人公の

にあると言えるだろう。つまり、主人公の「ダークヒーロー」性を、たんに、非人間的な形のまま、作者は終えられない。そこに、なんらかの「差異」を見出さずにはいられない。つまり、そういう意味において、ビルドゥングス・ロマンの形式になっていることがわかる。
このように見たとき、「空々空(そらからくう)のフラグ」が、地濃鑿(ちのうのみ)の登場によって、回収された、と解釈できる。つまり、言ってみれば、この作品は、すでに「終わっている」わけである。
ということは、どういうことか?
つまり、「別のフラグ」が必要とされている、ということである。

「強弱なんて、相対的なものでしかない----強いほうが生き残りにくい世界だってある。今の地球環境はたまたま、強いほうが有利だというだけに過ぎない----それがいつひっくり返るかもわからない。強さの象徴である恐竜が滅び、弱き哺乳類が幅を利かさたように。『強いだけ』というのは難しい。どこかに不備は生じてしまう。突き詰めれば結局、強弱も、優劣も、美醜も、上下も、ただの『違い』でしかない----左右の違いみたいなものだ」

「確かに、環境に迎合したほうが、生きやすいのは間違いない----けれども、現在の環境に適応することは、所詮現状の適者にしかなりえず、つまりは環境の激変に耐えうる自身ではない。もしも、大きな天変地異が起こったとき----生き残るのは、彼らではなく、きみらだ」

「射幸心を煽られると言うか......、いや、だからもう私は、そんな私ではありえない、ただの一般的な私でしかないんだけれど、だからこお、きみのような子供には、ついつい期待したくなる。きみのような人間が、きみのままで成長し、爪を隠して牙を研ぎ、いつしか世界がひっくり返ったときに----常識に縛られ、一般化を繰り返して数だけが増えた我々普通人類に対して『ざまあみろ』と、言ってくれる展開を」

おそらく、作者は、自らが実存的にもっていた、「もう一つ」のテーマを、この、手袋鵬喜(てぶくろほうき)という登場人物に、託すように、

  • もう一人の主人公

アジェンダ化せずにいられなかった。このことは、作者の以前の作品から続く「ゼロ年代」的なアジェンダが、そもそも、3・11以降において、うまく維持し続けられていないことを象徴しているとも言えるだろう。
つまり、空々空(そらからくう)は、非常に分かりやすい「ゼロ年代」的な主人公、空虚で論理的な「ダークヒーロー」的なアジェンダであったわけだが、むしろ、3・11以降、その「記号」的空虚さに、人々が、どこか「あきて」きた印象さえある。
そういった意味において、空々空(そらからくう)的、ダークヒーロー的なアジェンダ・セッティングを、作者も、なかなか維持できなくなってきている印象を受ける。
なにか記号的な「優等生」的な饒舌を繰り返すことで、その「広告」的な言説の無意味な羅列が、

  • 商品として売れる

といったような、サバイバル的な(=新自由主義的な)構造が、3・11を介することによって、人々の「常識」といった、マーケティング性を維持できなくなってきている。そういった「ニセモノ」の、商品価値といったものの、欺瞞性が、人々にどこか「しらけ」た印象を与えてきている、と言えるのかもしれない...。

悲業伝 (講談社ノベルス)

悲業伝 (講談社ノベルス)