小林敏明『憂鬱な国/憂鬱な暴力』

明治において、日本の新しい政治形態が模索されていく中で、いわば、その政治形態「自体」に対する

  • 護教

的な、あらゆる「手立て」が模索されていく。つまり、あらゆる「政治的存在」には、それに見合う「正当性」が手当てされなければならない。そうでなければ、それそのものに対する「ありがたみ」が理解されない。あらゆる政治的対象には、それに見合った「正当性」であり「正統性」が、まさに、それ自体と「釣り合う」形で割り当てられることが求められる。
こういった「宗教教団の護教的イデオロギー」の「発明」であり「発見」を求められたのが、明治以降に作られた大学であり、大学教授たちであった。
大学はたんに、学問を行う場ではない。大学は、「国家のため」に作られたなにものかであって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、大学であっても、国家にとっての

  • 需要

と無関係には存在しえない。
よって、大学において行われる、学者たちの営みも、たんに、この世界の「現象」を分析するだけの行為の中に限定することは、原理上、ありえないことになる。このことを今風の言葉で言えば「御用学者」ということになるだろうが。
私たちは、戦後すぐのGHQによる「検閲空間」を生きている。それゆえに、そもそも、戦前が、どういった言説によって構成されていたのかを忘却している。というか、むしろ、このことをより正確に言うとするなら、

  • ダブー

にしている。どうしても、自らで自らを禁忌して、近づこうとしない。しかし、そうであるがゆえに、逆に、私たちがその戦後における「異物(=戦前との連続性)」に直面したとき、その

な感覚によって、うまく思考できない。むしろ、こういった作法こそが、現在の多くの日本の問題を説明するのかもしれない。
そして、その典型的な例として、和辻哲郎を考えることができるのかもしれない。なぜか。彼は、戦中における、一つの「皇国史観」を代表するイデオロギーを、生み出すことを「目指していた」存在でありながら、戦後も、大学に留まり続けた、といった性格があるからである。
しかし、問題はそれだけではない。むしろ、その「意味」にある。確かに彼は、戦後も大学にい続けたが、その理由は、彼の主張が結局のところは、日本のメインストリームではなかった、と受け取られたから、と考えられるだろう。つまり、言ってみれば、私たちが今、京都学派として、西田幾多郎を思い浮かべるように、和辻哲郎を日本を代表する哲学者と考えない。つまり、彼を哲学者と考えない態度に関係している、と言えるのかもしれない。つまり、彼は言ってみれば、哲学者というよりは、社会学者であり、エッセイストのような存在と受けとられた、ということなのかもしれない。
しかし、そういった「印象」は本当に「戦前」の彼の「自画像」を反映していたのかは難しい。戦後出版された彼の全集は、戦前における自らの皇国史観を臭わせていた文章を、次々と

  • 改竄

したわけで、まるで、産まれたときから、自分が民主主義者の「本性」をもっていたかのように、次々と、自分が吐き出した言説を「ないことにした」と受けとられてもしょうがないんじゃないか、といった印象は少しもおおげさではないと思われる(同様の問題をもしも、戦中におるハイデッガーナチスへのコミットメントと比較することは、十分に意味のあることに思われるし、いずれにしろ、日本の学会が、こういった側面の研究がどこまで行われてきたのかは、少し心もとない印象を受けるわけだが)。まあ、この節操のなさが、彼を「哲学者」としては軽く見られる結果にもなっているのだろうし、逆に言えば、彼にとって、そのこと自体が重要だとは考えなかった(もっと、自分が言いたいことのポイントが別にあった)、ということにもなるのであろうが。

まずその出発点として、西田以外に当時の哲学者たちが日本の文化歴史に関連して「無」という概念のもとにどのようなことを理解していたのかを、もう少し立ち入って見ておこう。西田と並んで有名だった哲学者の一人が、和辻哲郎(一九三一から一九三四年まで京大教授)である。和辻は『日本倫理思想史』(この本は戦後全上下巻が出版されるが、上巻だけは『尊皇思想とその伝統』と題されて一九四三年に出版されている)の中で、西洋的超越神とは異なった日本神話における神々の特徴を、「祀るとともに祀られる神」であるとし、それが後の日本精神を規定していると述べたのであった。その関連で和辻はこう書いている。

祭祀も祭祀を司どる者も、無限に深い神秘の発現しきたる通路として、神聖性を帯びてくる。そうしてその神聖性のゆえに神々として崇められたのである。しかし無限に深い神秘そのものは、決して限定せられることのない背後の力として、神々を神々たらしめつつもそれ自身ついに神とせられることがなかった。これが上代の神の意義に関して最も注目せられるべき点である。究極者は一切の有るところの神々の起源でありつつ、それ自身いかなる神でもない。言いかえれば、神々の根源は決して神として有るものにならないところのもの、即ち神聖なる「無」である。それは根源的な一者を対象的に把捉しなかったということを意味する。絶対者に対する態度としてはまことに正しいのである。絶対者を一定の神として対象化することは、実は絶対者を限定することにほかならない。それに反して絶対者を無限に流動する神聖性の母胎としてあくまで無限定にとどめたところに、上代信仰の素直な、私のない、天真の大きさがある。それはやがてあらゆる世界宗教に対する自由寛容な受容性として、我々の宗教史の特殊な性格を形成するに至るのである。(『尊皇思想とその伝統』全集一四 p.38)

もともとありもしなかったものが限定も定義もされえないのは自明のことである。しかしここではこの不在それ自体が対象化不可能な特権的存在として保持される。この瞬間たんなる形容詞の「ない」は名詞の「無」に突然変異する。これを「大文字の無」と言ってもよい。こうして欠如が神秘化される。この論理的アクロバットは、ちょうど『形而上学とは何か』の中でハイデッガーが副詞的に使われる小文字の nichts から名詞の das Nichts を導き出してくるのとよく似ている。引用の「神々の根源は決して神として有るものにならないところのもの、即ち神聖なる「無」である」というテーゼの中に出てくる「有るもの」という、いささか違和感を与える表現はおそらくハイデッガーからの直接的影響であろう。ハイデッガーは知られているように、「有るもの Seiendes」から「有る Sein」そのものを区別し、一時期それを「無」と同一視してもいる。

明治以降の日本国家にとって、最も重要な問題とされたのが、「天皇の正当化」であろう。つまり、なんとしても天皇が今、このようにあることには、「意味」があるんだ、ということを説明できなければならなかった。そうでなければ、日本国家がこのようにあることを、正当化できなかった。

  • 別に日本国家の形が、これではない、他でもよかった

ということになれば、明治政府自体の正当性が危うくなる。以前の、徳川政治でよかったんじゃないのか、という疑いがもたれるわけにはいかなかったわけである。
そこで、なんとしても「天皇制がこのようにあることには意味がある」ということを説明しなければならなかった。そういった、国家宗教的な「需要」の下に、和辻哲郎の学者人生が始まった、ということなのかもしれない。いや。むしろ、それをなんとかしてくれる人ということで、彼の学者としてのステータスが高まった、という身も蓋もない話なのかもしれない。
それにしても、上記の『尊皇思想とその伝統』の引用の個所ほど分かりやすい、「無の論理」というのもないのではないか。

和辻は初めドイツ哲学を学び、同時代の哲学者ハイデッガーの強い影響下にあったが、彼が先のような言説を通して打ち立てようと欲したのは、西洋のそれに匹敵できるような、日本固有の超越およびそれに応じた形而上学だったと言うことができよう。そのためには未だ原始的アニミズムシャーマニズムの名残を留める神道の神々では不十分であった。この神道における超越の欠如を補うために、和辻はオットーのいう「絶対他者」たる仏教概念の「無」を導入したのである。これは空なるがゆえに理論的にはすべての「有るもの」を超越しながら、それらを自分の内に取り込むことができる。一度すべてを空の中に取り込んでしまえば、後でそこから魔法のランプよろしく何でも取り出してくることができる。さらに都合の良いことに、無は原理的にも存在しないものだから、わざわざその存在を証明する必要もない。問題なのは、証明より「信念・信仰」を産出できる純粋なファンタスマゴリーすなわち共同幻想なのだ。

「無の論理」が、宗教学であり、神秘主義の文脈で議論されてきたことは、ここの引用の指摘と関係している。それは、ハイデッガーの主張において、非常に重要な位置付けがされているというふうに言うよりも、そもそも、ヘーゲル弁証法が多分に、そういった傾向をもっていたと言うことは、可能であるように思われる。
つまり、ヘーゲルニーチェに「無の論理」を読み込むとき、すぐに、そこに「インド哲学」との関係を印象付けられるのではないか。つまり、このようにして、西洋宗教学や西洋神秘主義の文脈における「無の論理」に対しての、インド哲学との関係を考えずにいられない。よく知られているように、数字のゼロを発見したのがインドであったように、インド哲学における「ゼロ」や「無」の位置付けが、ヘーゲルの時期における、インド哲学の翻訳による導入が深く関係している、と言えるのかもしれない。

しかし和辻の議論はこれにとどまらない。絶対的権威を無に還元してしまうと、今度は現実の天皇の位置価が問題になってくる。つまり今度は超越的無から現実に生きている存在者への帰還の論理が問題になってくる。ハイデッガー的に言えば、本来性から非本来性への帰還である。和辻はこう言う。

以上によって我々は、記紀に描かれた神の意義の特殊性をほぼ明らかにし得たかと思う。それは絶対者をノエーマ的に把捉した意味での神ではなく、ノエーシス的な絶対者が己れを現わしきたる通路としての神なのである。従ってそれは祭り事と密接に連関する。祭り事の統一者としての天皇が、現御神として理解せられていたゆえんもそこに存する。天皇の神聖な権威は国民的統一が祭祀的団体としての性格において成り立ち来るところにすでに存するのであって、政治的統一の形成よりもはるかに古いのである。(『尊皇思想とその伝統』全集一四 p.44)

今や魔法のランプはフル稼働する。天皇とは、それを通して神聖な無が姿を現してくる特別な通路だというわけだ。天皇の哲学化、形而上学化である。現世の存在と超越的無という、それ自体西洋哲学から借りてきたディスコトミーの発想を天皇概念に注ぎこむことによって、和辻はこの概念に特別な意味を付与する。そうして彼はその哲学化され形而上学化された新たな天皇概念を以って現実の戦争に対峙する。同じ一九四三年四月、海軍大学校の学生を前にして、たんなる「死の覚悟」だけではなく、「清明心」を以って死生を越えた「自己の任務の重大性を自覚すること」こそが必要だとして、次のように述べるとき、われわれは無の論理の行き着く先を知ることになる。

天皇は天つ日嗣にましますがゆえに、すなわち天照大御神の神聖性を担いたもうがゆえに、現御神にましますのであります。その神聖性絶対者のものでありますが、しかしその絶対者は無限定のままであり、そうしてその限定された形が天照大御神と天つ日嗣とであります。そうなれば天皇への帰依を除いて絶対者への帰依はあり得ないことになります。これが尊皇の立場であります。この立場は絶対者を国家に具現せしめる点においていわゆる世界宗教よりもはるかに具体的であり、絶対者を特定の神としない点においていわゆる世界宗教よりも一段高い立場に立つのであります。(「日本の臣道」、全集一四 p.308)

まさにアドルノも言うように、「無を何物かとして誤って意味付与するのは言葉の欺瞞を生み出す」(Jargon der Eigentlichtkeit, S. 134)ことになる。とはいえ、このような「言葉の欺瞞」は和辻の場合、軍国主義の圧力に屈したための一時的な言説の歪みと言うことはできない。というのも、上のような「無」による天皇の権威づけに先立って、和辻はすでに『日本精神史研究』(一九二六年、改訂一九四〇年)に収められた論文「飛鳥寧楽時代の政治的理想」(初出は一九二二年)の中で、古代天皇制に仮託しながら次のような形で天皇の理想化を図っているからである。その冒頭を引用してみよう。

「まつりごと」が初め「祭事」を意味したということは、古き伝説や高塚式古墳の遺物によって十分確かめ得られると思う。君主は自ら神的なものであるとともにまた祭司であった。天照大神がそうである。崇神天皇がそうである。邪馬台の卑弥呼もそうである。かくて国家の統一は「祭事の総攬」において遂げられた。種々の地方的な崇拝が、異なれる神々の同化やあるいは神々の血統的な関係づけによって、一つの体系に編みこまれたのは、この「祭事の総攬」の反映であろう。
かくのごとき祭事は支配階級の利益のために起こったというごときものではない。そこにはいまだ「支配」という関係はなかった。祭事に伴なっているのは「統率」という事実である。原始的集団においてはその生活の安全のために祭事が要求された。力強い祭司の出現は集団の生活を安全にしたのみならず、さらにその集団の生活を内より力づけ活発化ならしめた。祭司の権威の高まるとともに集団は大となり、その大集団の権威が神秘的な権威として感ぜられる。ここに「祭事の総攬」という機運が起こってくる。集団の側から祭事祭司を要求することが、祭司の側からは統率となるのである。だから統率は君主が民衆を外から支配し隷従せしめるというのではなく、民衆がその生活の内的必然として要求したものであった。(全集四 p.11)

興味深いのは若い和辻が、この理想の天皇制が奈良時代に入ると仏教と結びついて「ある意味で社会主義的」(p.31)な「共産的制度」(もともとは津田左右吉の言葉 p.31/32)を形成したと考えていたということである(ちなみに酒井直樹は和辻の「人間の学としての倫理学」構想の背後に『ドイツ・イデオロギー』の影を見ている[cf.酒井 p.89]。また米谷匡史によれば一九三〇年に和辻が行った公開講義「国民道徳論」の第二章「現代日本の世界史的意義」には「社会主義的な経済統制」の考えが入っているという[米谷 p.107])。天皇制と社会主義の結合、このアイディアはよく知られた北一輝の思想などにも見られるところだが、いずれにせよこの民衆の側から求められて成立したという天皇による理想の「統率」に、新たに形而上学的意味として付け加えられたのが「無」であった。和辻にとって仏教と天皇制との結合は奈良の昔からあったことで、ある意味では自明の前提だった。さしあたり階級支配とは無関係な純粋な祭事の権威(すなわち神聖な無)であるがゆえにこそ、そこから「統率」が「内的必然」として生まれてきたという論理、この論理は前章でも触れたフーコーの「一望監視私設(パノプティコン)」のそれとどこか似ていないだろうか。パノプティコンは、その中心に位置する監視員のまなざしの不可視性が囚人たちに自己監視の「主体」をもたらしたのだが、ちょうどそれと同じように、「無の中心」は、それ自体不可視な無であることによって、かえって被支配者の側に「自主的」な規律・訓練の意識を作り出すことができるからである。

上記の指摘は、奇妙な形であるが、はからずも、和辻の発想が、古代天皇制についての解釈と、きしくも繋がっていることを示唆する。和辻は、古代天皇制の起源に、

  • 祭り

という「動員」力を見出す。つまり、祭司階級の、人々を動員しうるパワーを対応させる。つまり、これが天皇制のパワーの源だと言うわけである。
今においても、どこの町でも、祭があるとなれば、地元の多くの人が参加する。そういった参加には、「強制」というより、「統率」があるだけである。なぜ、人々は進んで祭に参加するのか。いずれにしろ、和辻にとって、古代日本社会であり、現在にまで続くその精神を、大衆の自主的な「参加」に見出している、というわけである。
このことは、逆の意味においても言える。なぜか、人々は、中央の「強圧」に反対しない。原発再稼働すると言われても反対をしないし、集団的自衛権解釈改憲で認めると言われ、自分たちの権利が奪われることになるというのに反対の意志を示さない。いつまでも、中央権力の意図を

  • おもんばかり

「きっと、なんらかの深謀遠慮があるにちがいない」と、相手が何も言ってないのに、勝手に相手の気持ちを想像して、自分で、自己規制を始める。これは、現在の日本においても見られる。まさに、御用学者的な態度であり、本気で国家と対決するような所にまで、自分を追い込むことだけは、なんとか避けようとし続ける。

  • 日本政府が原発再稼働を目指しているということは「きっとなにか意味があるのだ」
  • 日本政府が集団的自衛権をここまで主張するということは「きっとなにか意味があるはずだ」

こういった

  • おもんばかり

の政治こそ、日本の「無」の政治を象徴している。上記にある、「パノプティコン」は、まさに、天皇制における「天皇」の位置からの視点だと言うわけである。
天皇は、一切の政治的発言をしない、とされる。つまり、私たちは天皇に帰依すると言いながら、その天皇の政治的欲望が「無」だとして、振る舞う。
しかし、それは変なんじゃないのか?

  • きっとなにか(=政治的深謀遠慮)があるはずだ

というのは、典型的な神秘主義であろう。しかし、なぜ私たちは、こういった方向に動機付けられるのか。それを、掲題の著者は、和辻の若き頃の発想に重ねて、飛鳥時代における、天皇制における「仏教」の導入に見出そうとする。つまり、このときに、インド哲学的な「無」の論理を、天皇であり日本の神道は、導き入れ、それ以前の素朴なアニミズム神道を、洗練させた、と考えるわけである。
祭りとしての神の動員力は、飛鳥時代を介して、仏教の、よりダイナミックな「無」の論理によって、より国家規模の「神秘」によって、統合する方向に向かった。国家権力の「中枢」とは、一つの「無」である。そういった「無」のパワーに彼らは、それなりに自覚的だった、と考えられる。国家レベルで「無」の中心を作ることで、インド哲学的な「無の論理」を、国家レベルの規模で展開する。これが、一種の、世界宗教である。
天皇制は、徹底して、天皇が「なにもの」であるか、といった色付けに抵抗する。なぜなら、もしも「何者」かであるなら、必然的に、この国家の国民を二分してしまうからだ。それでは、求心的な機能を維持できない。つまり、天皇はなにかであってはならない。どんなイデオロギーをもった人たちも、どこかしら「親和感」を感じられなければならない。つまり、天皇はすべての国民を

  • 拒否しない

なにか、なのだ。しかし、そんな存在はありうるのか? 言うまでもない。あるわけがない。ということは、ここには、なんらかの「欺瞞」があるということになる。
掲題の著者は、これと同様の状況を、三島由紀夫にも見出す。

好みも混じえたまったくの私見だが、三島由紀夫という作家は、そのよく知られた小説よりも芸術論や文学論などの批評においての方が優れているような気がしてならない。たとえば『小説家と休暇』や『文章読本』『裸体と衣裳』などに散見されるこの作家ならではの見立てや分析は、この人物の聡明さを示して余りある。そうであるがゆえに、その後にたどった凡庸の極限化とも言うべき彼の「政治行動」に人々はいつまでも謎を感ずるのであろう。私設軍の創立、自衛隊への積極的アンガジュマン、その帰結としての市ヶ谷事件という一連のテロル志向/嗜好に関しては最近、かつて自衛隊側で三島らの軍事訓練を指導した山本舜勝の証言『三島由紀夫 憂悶の祖国防衛賦』や、それを踏まえた保坂正康『三島由紀夫楯の会事件』、千種キムラ・スティーブン『三島由紀夫とテロルの倫理』なども出て、三島が六〇年代における過剰な危機意識から、われわれの予想以上に自衛隊の内部に食いこんでいたことが判明しているが、そういう情勢的背景が明らかになっても、多くの三島の読者には、なぜよりによってあの三島が、という謎は依然として残るのである。
よく知られた自伝的小説『仮面の告白』はもちろん、『私の遍歴時代』や新たにその一部が公表された十代の書簡集などを通読してみても、ここに当時ありふれていた少国民や狂信的な皇国青年の軌跡はほとんど見出すことができない。むしろ純粋培養された文学青年の軍国主義的風潮に対する生理的反発さえみられるし、国家の破局的事態が迫っても己のヴィタ・セクスアリスに心を奪われている『仮面の告白』の主人公などは、そういってよければ「非国民」的でさえある。象徴的なのは、徴兵されて誤診のため即日帰郷を命ぜられ、営門を後に逃げるように駆け出した主人公が、この遁走を次のように自己分析していることである。

軍隊の意味する「死」からのがれるに足るほどの私の生が、行手にそびえていないことがありありとわかるだけに、あれほど私を営門から駆けださせた力の源が、私にはわかりかねた。私はやはり生きたいのではなかろうか? それもきはめて無意志的に、あの息せき切つて防空壕へ駆けこむ瞬間のやうな生き方で。
すると突然、私の別の声が一度だつて死にたいなどと思つたことはなかった筈だと言ひ出すのだつた。この言葉が羞恥の縄目をほどいてみせた。言ふもつらいことだが、私は理会した。私が軍隊に希つたものが死だけだといふのは偽りだと。私は軍隊生活に何か官能的な期待を抱いていたのだと。そしてこの期待を持続させている力というものも、人だれしもがもつ原始的な呪術の確信、私だけは決して死ぬまいという確信にすぎないのだと。(......)(全集1 p.276)

これは決然と自刀を敢行する勇者像とはまったく矛盾する「告白」である。直感的に言って、私にはこういう自己分析的告白のできる人間が容易に政治的情勢やイデオロギーに振り回されたとは信じることができない。だから、あの自決への道行きにおいて切望された「現人神」も、たんなる戦中戦時へのイデオローギッシュな回帰として片づける気にはなれない。

掲題の著者は、三島由紀夫を彼が死の直前に見せた、狂信的な軍国主義者として受け取ることは、正確ではないのではないか、と疑う。なぜなら、上記にあるように、三島の可能性の中心は、彼の小説ではなく、批評の方にあるから、と。

しかし、その橋川自身は同じ批判文の冒頭で次のようにも述べている。

というのは、私の知るかぎり、三島は、ある種の危険を冒しても、ものごとを素直に述べようとする人であり、しかもその発言は、私にいろいろと考えさせることが多いかである。(中略)自分の眼で、自分の直覚でものごとをとらえることのできる人間は(少なくとも、もの書きの世界では)だんだんと少なくなっているのではないかと私はひが目で見ているのだが、三島はそうでない人物の一人に見えるからである。そして、そういう人物の書いたり、したりすることは、私などにはいつも共感と刺激の種になるからである。(「美と論理と政治の論理」著作集1 p.239-40)

私が三島を取り上げてみたい思った理由もここにある。ここには良くも悪くも「オリジナリティ」があり、それはそのかぎりで充分に考察や分析の対象となると思うからである。あるいは若くして記念碑的とも言うべき三島論を書いた野口武彦の言葉を借りて言えば、三島由紀夫という作家はまさに「畏怖するわけではなく、敬愛するわけでもなく、さりとて信服するわけではさらさらなく、......何か考えるべき問題性をもってわたしに迫るという意味でただ漠然とその存在が気になるといった態の人物」(『三島由紀夫の世界』p.244)とでもいうことになろうか。

掲題の著者は、この三島の興味深さのポイントとして、「ある種の危険を冒しても、ものごとを素直に述べようとする」ところに見出す。一つ上の引用において、徴兵制を逃れられた時の、ある意味「軟弱」な自らの心情を吐露する場面など、たんに、政治的イデオロギーを自らの表面をとりつくろって、政治的なパフォーマンスをしたいだけの人たちならやらないような、そういった部分で、三島の姿勢は「興味深い」ということなのかもしれない。

輪廻転生とは死と再生の無限回帰運動の仏教的バージョンにほかならない。「文化防衛論」の三島はこう言っている。

(これに反して、)文化における生命の自覚は、生命の連続性を守るための自己放棄といふ衝動へ人を促す。自我分析と自我への埋没といふ孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を成就すると考へられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このやうな献身的契機を含まぬ文化の、不毛の自己完結性が、「近代性」と呼ばれるところのものであった。(全集35 p.30)

これは図らずも典型的な近代批判の論理になっている。近代的自我はその自立性と引き換えに連続性を失ってしまった。かけがえのない一個の人間となったヒューマニスティックな自我存在はもはや自己放棄を行うことはできない。そこにはもはや連続性は成立しない。近代における伝統の喪失が、そのような形で暗示される。これもすでに日本浪漫派から京都学派にまで広がった「近代の超克」イデオロギーの戦後的影と言ってしまえばそれだけのものだが、私には、こうした文脈における三島はたんなる保守主義者というより、むしろ忠実なバタイユ主義者のように見える。

掲題の著者は、三島の「文化防衛論」を考えるときに、例えば、京都学派の西田哲学や、そういった言説の影響の下で語っているという認識を前提として、そういった戦前の広く知られていた、「近代の超克」のテーマを、こうして戦後においても、延長して考えている、といった形で受けとる。
「近代の超克」と言ったときに、その近代批判を、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」といった形で整理されることは、非常にありふれた作法として、戦前から繋がっている文化人の態度として受けとれる。
つまり、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」は駄目なんだから、新たなステージに進まなくちゃね、っていうのが「近代の超克」なわけで、つまりはそれは、戦前で言うなら、国家という「有機体」において、天皇に臣従する国民という「共同体的な統合」のようなことをイメージしていたのであろうし、まあ、そういった関係における、なにか「ツーカー」で通じる共通感覚のようなものを、「自我分析と自我への埋没といふ孤立」を超えたもの、というふうに言いたかった、ということなのだろうが。

三島のいう「全体性」とは、この文化の「無差別包括性」、あえて言えば、文化アナーキズムのことである。これらの一見任意に並べられたかに見える具体例にもエロスとタナトスが基準として流れていることはいうまでもない。三島はこの基準を満たすものすべて文化として容認する。そこには高尚と低俗の区別もなければ、価値序列もない。それは既成の左右イデオロギーをも超越してしまう。「日本」なるもの、ひいては彼の考える「天皇」が透かし見られれば、それでよいのである。三島はこれを「空間的連続性」とも呼んでいる。文化が歴史的に連綿とうち続いてきたことが「時間的連続性」であるとするなら、この概念で強調されているのは、あらゆる階層あらゆる領域にまたがる普遍性偏在性である。そのかぎりで三島は徹底的に「民主的」でさえある。

三島にとって、その表記の類似にもかかわらず、「文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念である」。三島によれば、文化はその貴賤を問わずすべてを含むものであったが、あらゆる形の政治的全体主義は、自らの「全体」を求める中で、豊穣な文化の全体性に嫉妬し、それを規制管理する。三島によれば、この全体主義の宿命的性格は共産主義を含むすべての全体主義的傾向をもった政治形態にみられるが、それはさらにあらゆる国家的規制のあるところに認められることになる。言い換えれば、三島にとって「政治」や「国家」は多かれ少なかれ文化的全体性ひいてはその象徴としての天皇の敵対者として現れざるをえないということである。そういうところから次のような発言も出てくるのである。

明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによって(......)時間的連続性を充たしたが、政治的無秩序を招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。すなはち言論の自由には関はりなかつたのである。政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に犠牲に供せざるをえなかつた。(全集35 p.47)

これは一見あたりまえの史実を語っているだけのように見える。しかし、よく見ると、これは明治以降の国家体制に対する根本的な拒否にほかならない。それは文化的アナーキズムとそれをイデア化に依拠したあらゆる政治形態の拒否であり、原理主義を超えた原理主義、あるいはユートピアアナーキズムである。あの東大全共闘との討論における「天皇を店頭と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに」(「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」全集40 p.501)という一見無節操な発言も、こうした理論的背景を踏まえれば、けっしてその場しのぎのリップサービスなでではなかったことがわかろう。

掲題の著者は、三島の言う「文化防衛論」が、その印象に反して、意外に「民主」的であることを強調する。三島の言う「文化」は、そこに彼の、なんとなく感じている「天皇制フレーバー」を感じられれば、すべて、「文化」だと言っている。つまりは、彼は、この日本のほとんどすべてのサブカルチャーを含め「文化」だと言っているわけで、まさに、文化アナーキズムということになるであろう。
つまりそれが「文化」である限り、三島は「肯定」する。ということは、ほとんど全てを肯定しているのと変わらない(おそらく、こういった視点の三島的言説の影響力が、日本のサブカルチャーの現在における、消費社会的な大量「消費」を動機付け、さまざまな規制を「牽制」し続けている、と言えるのだろう)。この徹底したアナーキズムの理由はなんだろうか?
言うまでもない。前半の和辻哲郎の話からも繋がるように、それは「天皇の無」に関係している。つまり、天皇に、なにかの「色」が付いてはならないように、文化も「それそのもの」として肯定せざるをえない。もしも、そこに色を付けるなら、それは、すでに一つのイデオロギーであるため、国民が二分される。それでは、天皇の「無の論理」が機能しないのである。
しかし、この辺りで、前半で問題にした、

  • 政治との矛盾

が露呈してくる。というのは、政治において、政治的意志とアナーキズムは、基本的に矛盾しているからだ。どんな政治も、そこに「意志」がある。それは、天皇においても、同じである。というか、それと無関係で「政治」があるわけがない。政治ということは、なにかを選ぶ態度のことを言うのであって、天皇においても、それが人間の生である限り、こういった「選択」の束と無関係ではありえない(というか、そうやって選ばない人生を、私たちは「奴隷」と言ってきたのであろう)。

「文化の第一の敵は、言論の自由を最終的に保障しない政治体制に他ならない」(全集35 p.39)という主張は、そういうことを保障する政治体制もありうるということではなくて、むしろ政治は本質的に文化に敵対するという認識を言い表している。というのも、すでに見たように、三島の文化概念は「無差別包括性」としての「全体性」という性格をもっていたのだが、政治というものがそもそも統制管理を職務とするかぎり、こうした文化の無差別包括性すなわちアナーキズムを許容することはありえないからである。
「文化防衛論」の三島は、この自ら導き出した政治と文化の本質的相克という三島自身にとっても最重要な問題を充分に展開できないまま、理論的混乱に陥っている。

だが、とわれわれはさらに問わなければならない。三島自身は問い詰めてはいないが、そもそも近代以前においてさえも、天皇という存在が無限包括性を本質とする文化概念としての形姿を如実に示したことなどありえただろうか。いくら前近代とはいっても、政治は政治であるかぎり管理統制の役割を放棄することはありえない。それは政治そのものの自己放棄である。だとすれば、むしろ歴史上のあらゆる時代において多かれ少なかれ政治的意味を担わされた天皇が同時に文化概念としての形姿を如実に示すことなど一度たりともなかったし、そういうことは原理的にもなりえないと言うべきだろう。

なんと言うか、これも一つの「普通」革命と言うべきなのだろうか。
和辻や三島が、「近代の超克」として、天皇の、「無の論理」としてのパノプティコン機能を見出すその作法は、言わば、現前として今の日本においても続いていると言わざるをえない。しかし、そこには、どこか歪な構造がある。もともと、「無の論理」という「神秘主義」を、その動機付けとしている時点で、なんらかの欺瞞と言わざるをえない。
むしろ、私たちが問うべきは、政治の「政治性」に、正面から向き合うべき、ということなのであろう。ここに「対立」が生まれるのは「当たり前」なのだ。それは、天皇においても変わらない。だれだって、政治的存在なのであって、これをまぬがれるような「場所」などあるはずがない。
だれもが、言いたいことがあるなら、デモをやるし、そうやって社会を変えていく。それは、天皇だって、「そうあるべき」ということなのであって、いつまでも、

  • おもんばかり

の政治をやっている限り、原発再稼働も集団的自衛権も止めさせることはできない。そういう意味で、「普通」になれば、つまり、「近代の超克」と言った、うさんくさい共同体感覚のようなものを、言わば、「普通に超え」て、たんに

  • 主張し合う

関係になることから、なにもかもが始まる、っていうことなんじゃないですかね...。

憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―

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