科学の現場とIT開発現場の相似性

小保方さんの博士論文についての、早稲田大学の調査委員会による調査の報告書
http://www.waseda.jp/jp/news14/140717_committee.html
は、なかなか、興味深いものを感じた。
まず、彼女の場合、そもそも、担当の教授が、彼女の博士論文の研究テーマの

  • 専門

ではなかった、というのである。そこで、彼女は女子医大の研究室に行っている。そこで、バカンティ教授の元への留学を勧められた、というわけである。この場合、おもしろいのは、早稲田の担当の教授は、おそらく、彼女の研究の内容を、ろくに理解していなかった可能性がある、ということなのであろう。
そもそも、大学教授は研究者であり、教育者ではない。自分の生徒が「あなたの専門と関係のない研究をやります」と言われたときに、どうやって、この生徒を扱うのかは、なかなか興味深いのかもしれない。
早稲田の調査レジュメの特徴は、彼女がバカンティ教授と共同で Tissue Engineering 誌にアクセプトされている論文を、最大限に評価していることであろう。つまり、こういった学術誌に採用されるということは、それなりに、この業界の専門誌に載るのだから、

  • 質がいいに決まっている

その「成果」を、むしろ、早稲田大学として「自慢」しているかに読める。ところが、このレジュメに対して、学内教授有志から提出された声明文では、その点においてすら、疑惑が提出されていることへの「無視」が問題とされている。

しかし、博士論文のもととなっているTissue Engineering誌の論文には、明白と言ってよい画像の改竄(報告書における「実験結果欺罔行為」)が認められています。具体的には、Tissue Engineering誌論文の図2、図3、図4に電気泳動写真が掲載されていますが、まったく異なる遺伝子群の発現パターンに関して、同じゲルの写真を上下反転したり、一部切り抜いて流用したりするといった改竄・捏造が既にネット上でも指摘されています。このうち、図3は、博士論文においても図16として採録されています。
Tissue Engineering誌の図3は、ネット上での指摘を受け、責任著者のVacanti教授によって、改竄が指摘された4つの遺伝子群のデータを削除する形で修正(correction)されています。その理由は、「類似した見かけのデータを、複数の著者が編集したために起きた過失」とされています。
しかしながら、同様の図の改竄は、多くの場合Correctionで済むものではなく、様々な科学論文誌においてRetraction(論文撤回)の対象となってきました。実際の写真を検討すると、「過失」というレベルではないことは明らかで、学位取り消しの条件である「不正の方法」に相当するのではないかとの疑義があります。
にもかかわらず、調査報告書では、「そもそも博士学位論文の条件として査読付き欧文論文が前提となっており、このTissue Engineering誌論文には修正がなされていること」を理由にデータの意図的な改竄(調査報告書に言う実験結果欺罔行為)には該当しないと結論付けています。しかしながら、TissueEngineering誌において、Vacanti教授は強い影響力を持つと推測されるFounding Editorであり、軽微な「過失による修正」にとどめている編集方針には疑義があります。したがって、この論点については改めて独自の調査がなされてしかるべきと考えます。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140725-00001833-bengocom-soci&pos=2http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140725-00001833-bengocom-soci&pos=2

そもそも疑われているのはバカンティ教授を含めて、彼ら自身の論文に「画像を関係ないところから剽窃したり、読者をあざむく細工をすることで、本当は証明されていないものを、まるで一目瞭然なまでに自明なレベルで証明されている、といった部分があるのか」、ということなのであろう。それとも、たんに「形式的」に、「専門誌にアクセプトされたものを疑うとは何事か」と、逆ギレして、専門誌礼賛の方向にタブー化した、ということなのか。その辺りは、いずれにしろ、大学側は、なんらかの説明責任が求められていくのであろう。
この声明文を読むと、健全な「大学自治」の姿勢が感じられる。大学内の腐敗は、自分たちで考え、自分たちの大学を良くしていこうという自治の姿勢が色濃く見られる。それは、外部のどこかの学術誌が、ろくなレフリー性を実際には果しえなくなっている現在において、学問の健全さは、大学なら大学内部の、厳しい自治意識からしかありえない、といった実感からなのかもしれない。
そもそも、この問題は、大学のガバナンスの問題に思われる。つまり、大学が自らを、どのようにしていくのかが問われているわけであろう。ところが、そもそも、小保方さんは、ほとんどの時間を、女子医大にいたり留学していたわけで、そういった大学自治の感覚は、あまり彼女からは感じられない。
このように見てきたときに、そもそも、この大学システムにおいて、二つの対立する視点が存在しているように思われる。

  • 特許ビジネスが代表するような、研究結果の知識が「お金」になるがゆえの、密教主義
  • 昔からの大学自治が意味していた、大学内部で「みんな」で自由闊達に議論をすることで、全体の品質を上げていこうという「フリー・サイエンス」の文化

松澤らによると、研究不正の発生が多い分野は生命科学だという。発生した研究不正の三七・七パーセントが生命科学であり、自然科学系お研究者人口の七四・一パーセントに達する。研究者人口を考慮すると、生命科学に不正が特に多いとおいうわけではなく、たとえば「史上最大のねつ造」と呼ばれたベル研究所で発生した不正事件は物理学で発生した。しかし、STAP細胞の問題も含め、研究不正の多くが生命科学で発生しているのは事実だ。遺伝の法則を発見したメンデルのデータが揃いすぎていたと指摘されるように、研究不正事件は昔から、不正を行う者はある一定の確率で出現するものと思われる。
(榎木英介「「小保方」事件を超えて」)

多くの人たちが、なかば「しらけている」のは、つまりは、こういった生命科学の分野においては、構造的に昔から不正が存在していて、それを小保方さんだって、笹井さんだって知らないわけがない。そういう状況にありながら、自分は「例外」で、そういったものと一緒にされたくないですむ話なのか、ということであろう。つまり、もう少し自分のおかれている状況を客観的に見た上で話さないと、どうしようもないんじゃないか、ということですよね。

データを批判的に検討し管理するには、国際共同研究におけるそれぞれの研究室の分担・貢献度の調整が必要となるが、「提言書」からは、C・バカンティ研究室の秘密保持優先の意向もあってそれが難しかったという事情が推測される。それは、業績の優先権確保のためでもあっただろう。
(木原英逸「科学のビジネス化」)
現代思想 2014年8月号 特集=科学者 -科学技術のポリティカルエコノミー-

私たちがあまり、小保方さんに同情的になれないのは、ようするに、バカンティ教授の弟子としてだろうがなんだろうが、上記にあるような

  • 徹底した秘密主義

を貫いているわけで、つまり、一貫して「特許ビジネス」を行っているようにしか見えないわけで、そもそも、そういった秘密主義でやっておきながら、独学でやってきただの、未熟だっただのって、お前は一体どっちの論理で話してるのか、ということであろう。
今までの、完全公開が前提の、公共的な議論の場で真実をあぶりだしていく、ハンナ・アーレントが主張するような

  • パースペクティヴ重ね合わせ論

でいくなら、もっと徹底した情報公開は必須なわけでしょう。そうでなく、もっとビジネス・ライクにバカンティ教授流の特許ビジネスでいくなら、これはすべて、ビジネス・ライクな話になるのだから、記者会見で涙を流すとか、いい加減にしろ、ということになるであろう。

このとき不可視の消費者を想定し、まさに小保方氏が述べていたように「何十年後かにこの研究が誰かの役に立てばいい」と想定することは、何を意味するのか。あのような人類的な話が突然に出てきてしまったことに、実は私は、少したまげてしまったのです。
(塚原東吾「ポスト・ノーマル時代の科学者の仕事」)
現代思想 2014年8月号 特集=科学者 -科学技術のポリティカルエコノミー-

これも同様のうさんくささを感じざるをえない。自らは徹底した秘密主義でやっていて、じゃあ、それってビジネスなのねと思って聞いていたら、「いつか誰かの役に立ってくれたら」って、いや、すんごい税金で行われているわけで、だったら、徹底してオープンにやったら、と思わされるわけで、ようするに言ってることが、天然なわけでしょう。

科学者としての評価、あるいはそもそも科学者として就職し、科学者となることができるかどうかは、実験したかどうかというよりは、その結果を論文として出版したかどうかで決まっています。その意味では、論文こそが科学的活動の実体であるということが露呈してきていて、それは一般の人々の素朴実在論と鋭く対立しつつある。
(美馬達哉「ポスト・ノーマル時代の科学者の仕事」)
現代思想 2014年8月号 特集=科学者 -科学技術のポリティカルエコノミー-

なんていうかな、こういった「スター科学者」たちの天然っぷりですよね。つまりさ。えらそうに、「いつか誰かの役に立ってくれたら」と言ったって、ようするに、こういった科学者たちが就職する職場って、徹底した論文主義なわけでしょう。そうであっておいて、結果として自分の研究が将来のだれかの役に立てばいいって、ずいぶんと調子のいい話に聞こえるわけでしょう。いや、べつに、あなたでなくても、いつか同じ結果を見つけるのかもしれないし、だからといって論文不正して、他の真面目に取り組んだ人が、ドロップアウトして、自分はのうのうと研究者のキャリアを続けられる理由にはならないだろ、と。

このことについて、美馬さんは制度化が進んで、問題解決をしていくノーマル・サイエンスの制度化が進んでいるとおっしゃっていましたが、私はその側面は確かにあるとは思うのですが、同時にノーマル・サイエンスいう制度が崩壊しつつあるという局面も持っているのではないかと思うのです。ノーマル・サイエンスの枠けでは、この時代の知識生産は理解できない、もしくはコントロールできないのではないか。それでも、何あがすでに枠を超えてしまっているにもかかわらず、前時代の枠のえやろうとしているのではないか。そこで、イギリスのジェレミー・ラベッツの提唱している、「ポスト・ノーマル・サイエンス」という言葉にピンと来ているわけです。
科学社会学におけるいわゆるマートン的な規範とされるもの、つまり科学的知識の公有主義、普遍主義、科学者の利害超越知識の独自性、そして系統的懐疑主義という方法という、科学者に共通に見られるとした特徴は、いわゆる「規範」でこそあれ、科学社会学者のなかではもはや希望的姿を表わしたあけのものであって、現実の姿を映すものではないと言われています。これに対してジョン・ザイマンは、科学とは私有化(Proprietary)された知的営為であり、普遍的であるというよりむしろ局所化(Loca)したものであって、科学は権威主義的(Authoritan)な知識生産活動であり、それには請負化(Commissioned)されていると同時に専門的な仕事(Expert work)であるという、これらの頭文字をとって、現代科学の特徴を示したプレーズ(PLACE)という概念を出しています。
(塚原東吾「ポスト・ノーマル時代の科学者の仕事」)
現代思想 2014年8月号 特集=科学者 -科学技術のポリティカルエコノミー-

今回の2CHなどを中心に行われた研究不正の告発を、瑣末な、どうでもいいことと扱うか、ここで言う「ポスト・ノーマル・サイエンス」として考えるかは、まったく違った趣になっていくのではないだろうか。
最初の早稲田の報告書にしても、学術誌に論文がアクセプトされることを、水戸黄門の印籠のように使っているけど、むしろ、その品質が、「ポスト・ノーマル・サイエンス」の現代において、しらじらしく思えてきている。
例えば、最近のコンピュータ・アプリを考えても、今のクラウド系のアプリのほとんどは、集合知そのもので、ユーザーの端末からクレームがあがったら、光の速さで、論文を直しやがる。
また、上記の「ポスト・ノーマル・サイエンス」の定義は、どこか、IT系の大規模開発プロジェクトと非常によく似ている。実際に、今回のSTAP細胞の実験にしても、多くの人数が関わっていて、なんらかの正しさの地平において、成果物を目指していくという意味では、なんらかの現代的な「知」というのは、こういった形のものにならざるをえない、ということを示唆しているように思われる。
そういった意味においては、実際に自分たちのやっていることが、IT系の大規模開発プロジェクトと変わらなくなってきているにもかかわらず、今だに、「スター科学者」たちの語るロジックが、「ポスト・ノーマル・サイエンス」以前の純朴さにあふれているところに、この業界の「流行遅れ」な部分が半端ない、ということなのであろう...。