榎木英介『嘘と絶望の生命科学』

つくづく、大学というところは、ヤクザな組織だと言うしかないだろう。しかし、それは分かっている人は分かっているし、そうでない人には、なんとも、想像もつかない、ということなのであろう。
例えば、大学院を卒業したとする。その卒業した人は、次の日から働けるのだろうか? もし働けるとするなら、どんな職種の人が雇ってくれるのだろうか。
もしも、外に雇用先がないなら、中に探すしかない。例えば、大学教授になれないか、と。ところが、大学院の生徒の数は、1980年は五千人にすぎなかったものが、2000年以降、一万五千人を超えるまでになっている。当然、学内に職なんてあるわけがない。
この状況が最も厳しいのが、掲題の著者に言わせると、生命科学なんだそうである。
まず、そもそも、バイオ関係の企業が少ない。つまり、あまり商品化にまで至っていない、ということなのであろう。また、そもそも、バイオと言いつつ、

  • 医学部

という似たようなことをやっていて、かつ、医師免許という、将来安定の資格の取得できる分野があるだけに、どうも、中途半端ということなのかもしれない。掲題の本では、大学院とブラック企業を比較しているが、つまり、大学院と言いつつ、担当教授のていのいい「お手伝い」として、労働者として、こき使われて終わるだけ、と言いたいようである。
そもそも、大学院生は、自分でお金を払って、研究するためにいるのだから、教授の秘書のようなことをする必要はない。むしろ、教授が、まるで秘書のように、生徒のあれこれを教えるべきなんだろうが、そうなっていない。教授の給料は、そういった生徒の授業料から出ているくせに、ね。
もし教授の研究に人手がいるなら、労働市場から、労働力を「買う」しかないであろう。もしかしたら、そういったバイオ関係の実験に特化した、派遣サービスなんてのも、できるかもしれない。
じゃあ、どすればいいのか?
というか、まず、この生命科学の分野が、言うほど、将来性のある分野なのだろうか。ES 細胞や、iPS 細胞なるものがあらわれて、これらは、なにかビジネスにつながっていくのだろうか。そうしたときに、この、今、大量に大学にいるポスドクたちは、それなりの身分で、企業が雇いたくなるような人材なのだろうか。
こういったことが、私が、大学をヤクザの集団だと言う意味である。大学院とは、教授がもし、生徒がいなかったら、自分の仕事がなくなるから、人が必要というくらいの意味しかなく、実際のところ、ウェルカムはしても、それだけのことにすぎないわけで、無駄に時間を捨てる結果になるだけ、というのが正直なところなのだろう。かといって早く働けば、自己実現できていい、というのも、難しいところなのかもしれない。たとえば、大学にいる間に、起業をするなり、徹底的に勉強するなりして、自分なりになんらかの納得ができたら、そうそうに離れる場所というのが正しいのであろう。本当は、それ以降も、卒業生が、さまざまに大学を

  • 利用

できるような関係であるなら、大学に行くことには、さまざまなメリットがある、というところまで進むのかもしれないが、実際の大学は、大学内部の関係者によって囲い込まれている、彼らの私物と変わらない状況にあるわけで、つまりは、そういうことであるなら、いずれ、子供たちが大学に行かない時代が目の前に迫っているようにも思われる。つまり、大学ではないが、大学以上に「サービス」が充実している、その後の人生の全てにわたって、関係の続いていくような、なにかとして...。

嘘と絶望の生命科学 (文春新書 986)

嘘と絶望の生命科学 (文春新書 986)