平雅行『親鸞とその時代』

ここのところ、なぜ今さら、歎異抄に興味をもち始またのかと言えば、子安信邦さんの新刊の『歎異抄の近代』を読んだからだが、その内容は私が、この人の本を読んできたものとは、ずいぶんと違う印象を受けた。
そもそも、多くの人は、なぜ「歎異抄」なのかを、ほとんど知っている人がいないのではないか。というのは、歎異抄とは、明治にある仏教内における「近代化」の運動の過程で、

  • 発見

された書物だからだ。明治における、最も哲学者の一人の清沢満之(きよさわまんし)が始めた、仏教雑誌『精神界』に連載を続けた、暁烏敏(あけがらすはや)によって。しかし、問題は、その紹介のされ方だったわけである。

福島は深励の『歎異抄講義』を文献的考証だけの封建的教学として差異化しながら、暁烏らによる『歎異抄』の読みの近代性をいっていくのである。彼がいう近代的な読みとは、『歎異抄』を「親鸞という人間の現存在を通しての信仰表白」と見るような読み手において成立するような読みである。

歎異抄の近代

歎異抄の近代

たしかに明治後期の日本社会には内村の聖書研究会に集い、清沢の「精神主義」に心惹かれ、網島梁川の「予が見神の実験」(明治三八)の熱心な読者となる宗教青年たちが存在した。この宗教青年の早い時期の一人が暁烏が、この青年たちに向かって『歎異抄』語り出していくのである。
歎異抄の近代

(さて。暁烏の『歎異抄講話』と『わが歎異抄』を読んだことのある人というのは、どれくらいいるのであろうか?)
私たち現代の人間にとって、明治以降の「近代文学」にあったような、私小説的な「自分語り」や「内面」といったものは、もはや、不思議でもなんでもなくなる。というか、例えば、今のツイッターにおける人々の「つぶやき」はまさに、「内面」を語るスタイルのものであり、多くの人はそれに違和感をもっていない。
しかし、こういった形の、いわば、純文学的な形式というのは、まさに、文明開化と共に、欧米から「輸入」した

  • スタイル

だったのではないか、という疑いがある。

私は、真宗大学の学生であった頃、とても自分のような者は世の中に生きている甲斐のない者だと、自己の罪悪深重さを嘆きました。......二一歳頃から、今まで外側にながめて人ごとだと思うていた、間違ったこと、悪いこと、穢れたこと、そういうものが自分のうちに見えるようになりました。外のものを悪いと重い、穢れたと思うて、それを自分がよいものに、きれいなものに改めてゆこうと力みたっておった私は、自分の穢れたこと、悪いことを知るようになり、世の中に生きておる甲斐がないように深い嘆きを感じました。そしてこの苦しい自分を助けて下さる法にあいたいと思いまして、真宗の聖教にまなこをさらし、『真宗仮名聖教』を片端から読んでまいりました。そしてふと私の眼にとまったのがこの『歎異抄』であります。

歎異抄の近代

それにしても、こういった「内面」の告白という形式は、どこか、キリスト教徒の懺悔に似ている。というか、おそらく、 文明開化における、欧米の文物の流入であり、純文学という小説の日本社会での普及は、ある種、キリスト教と区別できない形で、存在した、と言うべきなのであろう。事実、内村鑑三は、当時の日本において、圧倒的な知識人を意味していた。暁烏がここで、歎異抄に「聖書」を見出すのは、つまりは、歎異抄を介することで、

  • 日本における欧米の純文学の「パロディ」

を結果として、反復することを、一種の「流行」として、示していた、とは言えるのかもしれない。

暁烏は明治三六年(一九〇三)の『歎異抄』第三条をめぐる最初の講話でこういっている。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやということを平たくいえば道徳者でさえ往生するのでわるから、破廉恥漢はなお往生するというのである。美人でさえ対手(あいて)にし手があるから、醜婦はなおもらい手があるというのである。まじめな人でさえ往生するから、不真面目な人はなお往生するというのである。律儀な下婢でさえ置き手があるから、横着な下婢はなお置き手があるというのである。

いま仏が私どもを救いくださるのは、私どもの功労に報ゆるためではなくて、私どもの苦悩を憐みて救うてくださる恩恵的のであるからして、一番困っておる悪人がもっとも如来の正客となる道理である。それゆえに常識の見解の悪人さえ往生するのに善人はなお往生するとあるのを受けて、「この条一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり」というのである。

歎異抄の近代

子安さんの本は、この暁烏の発言をめぐって、私見を述べられているわけであるが(そして、この本は、この暁烏の歎異抄読みを、基本的に継承する形で、さまざまに親鸞について語った「近代歎異抄読み」たちの親鸞論を次々と検討されていくという形になっているわけであるが)、私がここで考えたいことは、むしろ、非常に素朴な話として、上記のような暁烏の歎異抄に対する、近代的な「読解」は、実証として、どこまで耐えられるのか、という部分だと言える。
例えば、上記において、その暁烏の読解のスタイルを、「現存在」というハイデガーとの並行性において、その「現代」性に注目していこうというアプローチがある。
私はハイデガーというのは、もちろん、ナチスと同時代を生き、戦後も生きた哲学者なわけで、つまりは、すでにラジオや白黒テレビと同時代を生きた人なわけで、一見すると難しいジャーゴンを多く使ったことで知られているところから(しかし、それらのかなりが、むしろ、古代ギリシア哲学の「直訳」的なものであったことが、今では知られているわけであるが)、一見すると、それ以前の哲学者と同じような感じで哲学をやっていたというふうに思われがちであるけれど、私はむしろ、非常に「現代」的な感性を感じるわけです。
おそらく、ハイデガーが常に考えていたのは、ヒトラーの演説と、それを、テレビで見て熱狂をする、ドイツ国民のその全体的な「クローズ・システム」についてだったのではないだろうか。テレビというのは、強烈な

  • 同一性

を視聴者に与える装置だと言えるだろう。テレビを見ているだれもが、言わば、「同じ」ものを見ている。つまり、この視覚情報の同一化に成功することによって、今度は、それを受けとる側の「統計」的アプローチの「有意性」が、かなり強く考えられるようになった。
ここで、ヒトラーを、このクローズ・システムの、一つの「感情操作」的な結節点と考えるわけである。

  • ヒトラーの演説 --> それをテレビを介して見る全国民(=ドイツ民族) --> その映像を介して、ヒトラーのパフォーマンスに、なんらかの感情的な「影響」を受ける全国民(=ドイツ民族) --> テレビのブラウンカンに映るヒトラーのパフォーマンスの「同一」性と、その「映像」から、なんらかの変化へと到る国民の「平均的な<同一>性」 --> これを繰り返す

このフィードバック的な循環・反復システムによって、国民=民族の「有機」的な、全体性が想像されたのではないか、ということである。
言うまでもなく、ハイデガーの思想のバックグラウンドには、フッサールによって始められた、現象学がある。この現象学の特徴はその徹底した「内省」の姿勢だと言えるであろう。現象学はとにかく、すべての自己の独我論的な内面の「自明性」から出発し、絶対にこの、自己の内面という「殻」から、外に出ない。
こういった姿勢は、上記の暁烏の発言の引用にも、よく現れているであろう。暁烏は、なぜ自分が歎異抄を「自分の問題」と関係して話さなければならないのかを、少しも疑っていない。つまり、最初から、暁烏にとって、

  • 歎異抄が、たとえどういうものであっても

自分が解決したい問題というのが、最初にあったわけで、もしも歎異抄というものが、この世界になかったとしても、彼は、

  • 同じようなことを言っていたのではないか?

という疑いが、どうしても抜けないわけである。それは「発見」ではなく、「発明」に近いわけである。彼にとって、実際の歎異抄親鸞がどういう人であったのかは、そもそもの、最初の動機においてから、関係がなかった。つまり、彼にとっては、最初から、

  • 自己の救済

をどうたって、自分が見つけ出すのか、という問題が先にあって、その後に、それに「使えそう」という形で、歎異抄が見出されているわけである。
この問題は、完全に、上記のヒトラーの演説と、同型だと言えるであろう。

  • 暁烏が世間に「歎異抄とは、こういうことが書かれている」と言う --> その暁烏の記事を読むマスの反応 --> これを受けて、暁烏は、さらなる再反応として歎異抄についての記事を書く --> この繰り返し

ヒトラーが演説によって、実質、国民を彼の思うがままに「操作」することで、彼自身の「自己実現」を結果していたように、暁烏もそういった大衆の反応によって、自らのナルシスティックな「自虐」に対する「他者承認」を、世間から受ける形になっている、というわけである。
もちろん、ここで、私たち近代人のスタイルとして、こういったモノローグ性、純文学性を避けられないと言うことは簡単であろう。そういった意味で、私たちの認知的不協和は、むしろ、私たちが「無自覚」のままに、さまざまな差別的発言をしてしまう「構造」的な問題を考えることができる。
しかし、他方において「実証」の問題、つまり、アカデミズムの問題は、こういったことと関係なく考えられると言えなくもないわけである。言うまでもなく、暁烏が歎異抄を「発見」したとき、だれも、歎異抄とはなんなのかを知らなかった。それだけでなく、当時の歴史学においても、親鸞法然を、彼らが生きた時代において、どういった存在と位置づければいいのかの、その解釈が、非常に素朴であったわけで、むしろ、暁烏の歎異抄解釈は、その歴史学の「素朴」さを、無批判的に「前提」にしてしまっている側面を指摘せざるをえないわけである。
明治の近代化とは、なんだったのであろうか? おそらくそれは、飛鳥時代から、遣唐使くらいまで、さかんに中国から渡ってくる文物を受け入れようとした、律令国家としての日本の「再現」という意味があったように思われる。その外来文物受容のプロセスにおいて、一つの柱となっていたのが、

  • 外来思想の受容

であったと言えるのではないだろうか。明治の文明開化は、たんに、近代工業製品だけを受容するという形ではなく、人権などの近代政治制度を始めとして、先進国にバカにされないように、彼らの思想や精神の部分を、受け入れるとまではいかなくても、徹底して、理解しよう、という姿勢があったことは間違いないであろう。
同じことが、飛鳥時代律令国家樹立において、「仏教」を通して、それは実現された。つまり、仏教徒は、今考えているような狭い宗教人ではなく、「あらゆる」中国の文物を日本に持ち込み紹介する、今で言う「知識人」のような役割を担っていた、ということが言えるのであろう。

たとえば律令体制のもとでは、仏教は僧尼令(そうにりょう)という法律にしばられていました。お坊さんになろうと思えば、本来なら師匠の許しがあれば僧侶になれるはずですが、律令制下では許されませんでした。国家試験に合格して、政府の許可を得なければ僧侶になれません。また、民間伝道にしても、いろいろな規制があって、必ずしも民衆の間で自由に布教することが叶いませんでした。

律令体制のもとでは僧尼は一種の国家公務員のような存在であり、彼らはお寺で祈祷を行っていれば済みました。しかしこのような時代は終焉を迎え、厳しい競争の時代に入ったのです。古代寺院は生き残りを賭けて、貴族から民衆まで社会のあらゆる階層に働きかけてゆきました。

飛鳥時代に確立し、長い時間をかけて、有名無実化してきた律令制度が、いわば、国家公務員として、僧侶を「雇って」きた。僧侶たちの食いぶちは、国家が手当てしてきた。しかし、その僧侶という知識人を抱える形によって続けられてきた、律令制度という蜜月関係は、この律令制度自体の崩壊によって、緩やかな弱体化を帰結する。

しかも曹洞宗は室町・戦国時代に地域社会に定着してゆきますが、定着の媒介となったのは禅思想でも座禅でもなく、葬送儀礼です。つまり曹洞宗の社会的広がりは、道元の思想お社会的浸透とイコールではありません。

このことは、典型的なニーチェの言う「遠近法的倒錯」であろう。今の仏教とは、基本的に江戸時代にできた「檀家制度」が生みだした、土俗的な慣習の形で、大衆に受容されてきた

  • 外貌

を意味しているのであって、そういった「庶民にとっての仏教」と、ぞの宗派の「思想」が、直接に、大衆にとっての何かを意味したことは、今だかつてない。私たちは、今から過去に遡行して、親鸞法然の生きた時代の、あの、まるで「突然変異のミュータント」のように、急に、歴史の間に現れて、人々を道徳的に導いた、空前絶後の偉いお方を思い浮べるが、イエス・キリストの死の後の原始キリスト教団が、非常に小規模な形で、ずっと続いたのと比較できるのかもしれない。つまり、

  • 今ある

仏教宗派のルーツは、むしろ、江戸時代にあると考えるべきで、それと、法然親鸞の生きた時代とを、連続に語るべきではない。むしろ、ここには深い断裂があるのであって、まったく「別物」と考えるべき、という性格さえある。
イエス・キリストもそうであるが、法然親鸞も同様で、彼らが、なんの文脈もなく、「まるで現代人の私たちの心を見通していたかのように」彼らが語っているかのように受けとるとうような(現代的読み方)の魔術的誘惑にはまる前に、まず、彼らは

  • 自らの同時代を生き、それに対して反応した

といった彼らの文脈で考えることによって、「彼らのリアルな日常生活の姿」があらわれるわけである。

当時、顕密仏教は民衆に対して殺生罪業観、殺生堕地獄観を教唆していました。生き物を殺すことはよくない、地獄に堕ちる罪業だというわけです。当たり前の教えのように聞こえますが、問題は殺生の内容です。この時代の史料を見ていますと、まず狩猟・漁労や養蚕が殺生とされています。特に問題なのは農耕です。なぜ、これが殺生なのかと言えば、田畠を耕せば虫が死ぬ、だから殺生だと言うのです。しかし、狩猟・漁労・農耕や山林伐採までもが殺生だということは、言い換えれば生産労働が罪あ、ということに他なりません。つまり殺生罪業観とは、実は労働罪業節の登場を意味しているのです。人間は労働することによって罪を得る。だから人々は、寺社の結縁奉仕して罪の贖罪をしなければならない、これが顕密仏教の教えでした。
それに対して法然は、「あなた方には罪がない。皆さんは善人だ」と言い放ちました。あなた方は自分が罪深い、罪深いと考えているが、実際に何をしたというのか。親を殺したのか、仏を傷つけたのか、何もしていないではないか。謂れのない罪意識に悩む必要はない。そう述べて法然は、「かの三宝滅尽の時の念仏者、当時のわ御坊(ごぼう)たちと比ぶれば、わ御坊たちは仏のごとし」と断じています。末法万年後の人間と比べたならば、「当時のわ御坊」、つまり「今のあなた方」は仏のような存在だ、法然はそう語って不当な罪意識から民衆の心を解き放ったのです。

なぜ、法然親鸞は、このような「超越的」な、ある種、近代的である思考に導かれてきたのか。そこには間違いなく、上記のような文脈があるわけである。
律令制度の没落と共に、自らの食いぶちを確保する努力を強いられるようになった彼ら仏教僧たちは、どうにかして、彼ら大衆に、自分たちに貢がさせたいと考える。その真っ先に目指された手段が、

  • 免罪符

運動であろう。動物を殺してばかりいる大衆は、罪深いんだから、仏教僧に寄付をしましょう。「そうすれば」あなたは救われますよ。つまり、「トレードオフ」というわけである。天国の指定席も、現世のお金で「免罪符」さえ買ってしまえば、いくらでも手に入る。
そして次が、諸行往生である。

さて、法然の思想には、もう一つの側面があります。選択(せんちゃく)本願念仏説の樹立です。法然が登場する以前の浄土教思想というのは、本願念仏説といわれるものでした。これは中国唐代の善導(ぜんどう)(六一三 - 六八一)という僧侶が提唱した考えでして、「念仏は阿弥陀仏の本願であるから、どのような人間でも念仏を称えるだけで極楽往生することができる」、これが善導の本願念仏説です。

ところが法然は、善導の影響を受けながらも、この考え方をさらに一歩進めました。選択本願念仏説です。「念仏は阿弥陀仏が選ばれた唯一の本願であるから、念仏以外では往生できない」。これが法然の樹立した思想です。念仏の絶対化と念仏以外の功徳の否定、これが選択本願念仏説なのです。つまり選択本願念仏説とは、諸行往生を否定するところに本質がありました。

選択本願念仏集』を批判したこの書物のなかで、明恵次のように語っています。

称名一行は劣根一類のために授くるところ也。汝、何ぞ天下の諸人を以て、皆下の根機となすや。無礼の至り、称計すべからず。

仏教の数ある行のなかで、南無阿弥陀仏と口に称える称名念仏はもっともレベルの低い行だ。なぜ、こうした行が設けられたかと言うと、「劣根一類」の救済のためだ。レベルの低い愚者凡夫の救済のために、こうした行があてがわれている。ところが法然は、称名念仏以外では往生できないと主張している。もしも彼の主張に従うならば、この世に生きている人々はすべて「劣根一類」ということになり、愚者凡夫ということになってしまう。何という無礼な発言か、と明恵は痛憤しています。
しかし明恵のこの法然批判は、諸行往生の否定に賭けた法然の思想的モチーフをみごとに探り当てています。そうです。明恵の言うとおり、法然は、この世のすべての人々が平等に愚者凡夫だ、平等に「劣根一類」だ、と主張しようとしたのです。この世のすべての人々が「劣根一類」であれあ、往生行は「称名一行」だけで十分です。いや、その平等性を人々に自覚させるには、往生行は「称名一行」だけに限定されなければなりません。そのために法然は諸行往生の否定に踏み切ったのです。すべての人間は「劣根一類」である、......法然が追求したのは来世の平等ではなく、現世の平等でした。往生行をもっとも低劣とみなされているものに一元化すれば、現世の宗教的平等を主張することができる、ここに法然の最大の思想的発見があります。
法然が登場する以前も、以後も、たいていの民衆は念仏を称えていました。そして顕密仏教は民衆に対し、念仏を専修するよう、勧めてさえいます。初心者が最初からいろいろな行を修すると、混乱して効果がない。だから愚者はまず、もっともレベルの低い称名念仏を専修して、それを集中的に行じなさい。それが成就すれば、次第にレベルを上げていって、最終的に真の仏法に到達すればよい、これが顕密仏教の考えでした。
ところが法然は諸行往生を否定して、称名念仏を唯一の真の往生行であると主張しました。さらに幸西や親鸞は、聖道門(顕密仏教)による悟りを否定することによって、弥陀への信心が唯一の真の仏法であることを論証しました。顕密仏教の世界では、バカな連中にあてがわれた最低の行であった称名を、唯一の真の浄土教、唯一の真の仏法と位置づけ直すことによって、彼らは現世の宗教的平等を達成したのです。

仏教僧は、結局、「どう生きればいいのか」というところに立ち戻って、「生きている間に、どんな振舞いをすればいいのか」に形を変える。つまり、どんな「行為」が結果として、救われる、ということになるのか、というわけである。これに対する、仏教僧の答えは、

  • 私のように修行をすれば、救われる

ということになるわけである。なぜなら、そのために、仏教僧は、そうあるのであるから。
ここで、そういった仏教僧の行為の中で、さまざまに「ランク」付けがされ、大衆が比較的真似しやすい、霊験の低いものから、最上級のものまでランクづけすることによって、「誰が一番救われているのか」を、この現世において、階級分けするわけで、ということは、ようするに、自分たち仏教僧は、なににもまして、幸せの極地だということになるわけで、大衆がそうなりたかったら、せいぜい勉強して、自分たち並みになれ、というエリート主義の形になっている。
ところが、法然くらいになってくると、より庶民との接触も増えてくるわけで、救われたかったら免罪符を買えだとか、学歴のない奴は、どうせ貧乏だから免罪符も買えないんだから、こんな連中は、自分たちになんの役にも立たないわけで、まったく相手にする意味がないとか、そういうことを言ってられなくなってきた、ということなのであろう。
結局、大衆に関係する、ということは、「大衆の関心」に関係する、ということであるわけだろう。つまりは、ここで問われていることは、「共同体の安心の感情」なわけであろう。例えば、ある一つの共同体の中に、非常に病気に苦しんでいる人がいる、とする。おそらく、その人は何日か後には、死ぬことが分かっている。こういった場合に、そんな人に向かって「免罪符を買え」とか言っている知識人はバカでしょう。共同体は、その中の、最も苦しんでいる人に、もしも、なんらかの「安心」を与えられると、その共同体自体が、なんらかの「全体」としての、安心の調和によって、心が楽になる。
法然が考え、親鸞が実践したこととは、こういった文脈において考えられるのであろう。

文字一つ知らない愚かな人が念仏を称えているのを見て、「おまえは仏の誓いの不思議なお力を信じて念仏を称えるのか、それともみ名を称える功徳の不思議な力を信ずるのか」と言って驚かし、誓いの不思議とみ名の不思議との二つがもつ意味あいをはっきりわかるように説き明かさないで、人の心を惑わす例がある。このことは念には念をいれて心をとめ、分別しておかなけれなならないことである。
阿弥陀仏は、誓いの不思議によって、覚えやすいみ名を考えだされて、み名を称えるこのような人を浄土に迎え取ろう、とお約束なさったことであるから、まず阿弥陀仏大慈悲の誓いの不思議なお力に助けられて、この生死を重ねる迷いからのがれることができる、と信じ、さらに念仏を称えられるのも仏のおはからいいよるものである、と考えるときには、そこに少しも自力の才覚はまじってはいないから、称える念仏も本願の趣旨にかなったものとなり、真実の浄土に生まれるのである。これは、誓いの不思議なお力を信じたてまつると、おのづからい名の不思議もそれに伴ってそなわって、誓いの不思議とみ名の不思議は一つであって、けっして異なってはいないということである。

歎異抄・教行信証〈1〉 (中公クラシックス)

歎異抄・教行信証〈1〉 (中公クラシックス)

ある文盲の人がいたとする。その人に、お前が学問を学ばず、頭が悪いんだから、インテリは毎日勉強して知識を一杯身に付けている彼らに比べて、劣った人格であることは明らかだ、みたいなことを言われたとしても、いろいろと家庭の事情で大学に行けなかった人もいるだろうし、生まれたときから眼が見えず、学問をするには限界があった人もいるだろうし、だとするなら、どうして、そういった家庭環境の差異で、こういった差別をされなければいけないのか、ということになるであろう。
つまりは、法然親鸞も、彼らの言う「善人」や「悪人」という言葉は、むしろ、現代的な文脈においては、「学歴差別」のことを言っていると考えるべきなんじゃないのか、とすら思えるわけである。
学歴がなくても立派に生きている人はいるわけで、そういう人に比べて、たんに学歴があるからというだけで、他者差別ばかりしている奴と、どっちが立派かと言えば、もう、比べものにならないだろう、ということが言いたいんじゃないのか、と。
そういう視点で、上記の歎異抄の翻訳の引用を見ると興味深くて、大衆が右も左も分からないまま、必死についていく、その真摯さは、まさに、そうあることしか弱者はできないだけでなく、「たんにそうある」というだけの意味においても、無上の価値があると言っているわけで、どこか、本居宣長の漢意(からごころ)批判と似ていなくもない。インテリたちの、さかしらな「修行」に対して、ただ「もののあはれ」にふりまわされて生きていく(なにも分からないままでも、必死に、念仏を称え、生きることにしがみつこうとする)、大衆を「そのまま」で肯定しているというところにも、むしろ、インテリは大衆を

  • そのまま

の意味において、同じ目線で生きることを逆に問われている、という形で、突きつけられている、と考えたのであろう...。

親鸞とその時代

親鸞とその時代