不良と純粋さ

今ごろ、「ホットロード」が映画化されていることに、いろいろと思うところがあるようだが、ようするに、今までは、原作者が断ってきて、企画はされても、実現されなかったということらしい。
とはいえ、私はまともに原作を読んだ記憶もなく、今さら読み直そうという気持ちもなく、なんとなく、映画館で見たというだけなのだが、やはり、作品の内容がどうのというより、やはり、時代設定の方が気になる、という感じだろうか。80年代の、まだケータイもネットもない時代の話であり、なんとなく「今はなき」、まだ、自分たちの子どもの頃までは存在した、感覚を思えた。
作品は、主人公の14歳の宮市和希(みやいちかずき)が、友達の誘いで、ある暴走族に関わっていくところから始まる。春山洋志(はるやまひろし)は、16歳だが高校に行かず、ガソリンスタンドでバイトをしている、この暴走族のメンバー。ひょんなことから、二人は付き合い始める。
作品の通奏低音となっているのは、父親のいない和希に対する母親の態度から生まれる、「疎外感」だと言えるであろう。それはハルヤマも同じで、つまりは、当時の「不良」というものが、家庭環境から派生しているものと考えられていたことを示唆している。
しかし、このバックグラウンドを規定する、もう一つの重要なファクターが、そこから来る、彼ら不良たちの「純粋」さ、があるわけである。
作品を見た印象として、確かに、ハルヤマも父親を早くに亡くして、今の家に居場所がない、和希と似た境遇であることは二人を近づけた一つの要因ではあるが、間違いなく言えることは、ハルヤマは年齢としては上だということである。前から、この暴走族にコミットし続けていて、さまざまな暴力行為にも関係している。しかも、和希と出会う前から、さまざまな女性関係も存在している。つまり、一貫して、ハルヤマの方は和希と一定の距離感をもって、なんらかの「作法」のもと関わろうという姿勢が存在している。こういった不良たちの暴力行為の結果として、命を亡くすこともある。そうして、和希が残された場合も、「強く」生きてほしいというメッセージが最初から発し続けられている。
こういった和希の回りからの視線は、それに対する和希の「純粋さ」にクローズアップされている。ハルヤマは自分や、自分たち暴走族のメンバーは、ある意味において「汚れた」、この社会の荒波に適応してきた存在だという自覚がある。他方、ハルヤマから見て、和希は、あまりに純粋で真っ直ぐに見え、その心の傷つきやすさに不安であり守ってやりたいという同情の感情をもっている。
ただ、和希から見たとき、ハルヤマとのそういった「差異」は、あまり感じられていない。つまり、和希には、ハルヤマのさまざまな「汚れた」過去も、今さら引きさがれなくなっていく暴力的関係についての事情も、大きな問題には見えていない。つまりはそれは、結果として、いわゆるお互いが似た「家庭環境」から、辿り着く一つの形態なのであって、そこにお互いの大きな事情の違いがあるようには見えないわけである。
こういったストーリーを、例えば、、中世ヨーロッパにおける「子供十字軍」と比較することはできるだろうか。いや。この場合、比較するというのは、「大人たち」の反応の方である。大人たちは、こういった子供たちの「暴力行為」を、ある種の「純粋さ」と関係して理解する。実際、この作品は、徹底して「親が悪い」というメッセージが伝えられる。和希が不良になったのは、母親のコミュニケーション不足が問題だ、という形で理解されるように、作品は構成される。母親が男との関係にばかりかまけて、自分の子供への気配りが足りなかったんだ、という形で。つまり、一貫して、子供の「暴力」を

  • 子供は悪くない(=子供は純粋な気持ちの「まま」に行動しただけで、問題はこういった結果を導いた「親の態度が悪い」)

という描き方が特徴だと言える。つまり、ここで一貫して「礼賛」されているのは、

  • 子供の純粋さ

だと言えるだろう。同じような話は、日本の神風特攻隊で死んでいった「若者」の「純粋な心」を礼賛するときにも見られる。
しかし、他方において、この作品の、そういった姿勢を反転させて見るなら、「親さえ、しっかりしていれば、子供は立派に育つ」といったイデオロギーが見えなくもない。

  • かわいそうな子供 = 悪い親

という方程式には、子供の問題を親に集約させようという、社会自体の責任放棄の姿勢と見えなくもない。実際、主人公の二人は若くして父親のいない二人なわけで、つまりは、母親だって「弱い」わけであろう。つまり、なにか社会自体が、「親の弱さ」を許さない姿勢を「子供の純粋さ」に仮託して主張しているようにさえ受けとられてくる。
早い話が、もう少し社会は、こういった「不良」と呼ばれるようになる子供たちに優しくあるべきなのではないのか。ということはつまりは、

  • そういった「家庭」に優しくあるべき

だということである。失敗した子供を許せない「受験社会」は、2000年代を介して「ゆとり世代」へと変わっていった。この場合、そもそも求められていたことは、「失敗した子供がやり直せる」社会だったはずである。その場合に「弱い親」を糾弾していても、なにも始まらない。そうではなく、もっと「直接的」に子供をサポートする社会の体制が求められていたはずである。つまりは、彼らを親から離れた一人の「人格」として扱っていこうという態度であったわけであり、こういった点において、どこまで、あの頃の時代と今は進歩したのかな、といったことを思わされたわけである...。