原発再稼動を「しょうがない」と言う不思議

原発問題を考えるとき、私にどうしても解せなかったのが、なぜ、どんな世論調査でも、原発の再稼動に半分を大きく超えて反対が占めているのに、原発の再稼動を行うべきだとか、原発の新規建設をすべきだ、といったようなことを言い始める専門家が後を絶たないのだろうか、という素朴な疑問であった。
私が結局のところ分からないのが、例えば、自分は経団連の御用学者なので、経団連原発を動かせと言っているんだから、自分もそう主張する、というのなら、まだ分かるわけである。まあ、いつの時代も、御用学者なんてそんなもんだろう。と。
しかし、そうではないわけである。まるで、自分は一人の「学問の求道者」として、国民は「間違っている」、自分が主張する原発の再稼動が正しいんだ、と言い始めるから、なにを言っているのか分からなくなるのだ。
今の日本は、国民主権の国である。この国で、国民の大半が原発を動かすのはやめようじゃないか、と言っているのに、動かすのは「しょうがない」とは、一体、何を言っているのか? ここで言う「しょうがいない」って、一体、

  • どこから

やってくるような「言葉」なのだろうか。私には、まったく意味が分からないのだ。
つまり、国民がこのように明確にその意思を表明していて、その状態が何年も続いているのに、どうしてそれを実行しないことに正当性があるのか。やめてくれって言っているんだから、素直にやめたらどうなのか。一体、どんな理屈によって、国民が嫌がっていることを無理矢理押しつけるのだろうか。
まず、はっきりしていることは、今、どうしても原発を動かさなければならないような状況にないことは間違いないであろう。だとするなら、あとの問題は、なぜ、そのように国家が原発を動かさなければならないのは「しょうがない」と言っている連中は、

  • 国民に、原発を動かさなければならないのは「しょうがない」という説得に成功していないのか?

という問題に変わるであろう。つまり、である。一体、原発を動かさなければならないと言っている人たちのうち、一人でもいいから、なんらかの「説得」に成功しうるような理屈を提示している人がいるのだろうか?
原発再稼動が「しょうがない」と言っている人は、この場合、その「しょうがない」を強いているのは、なんだと言っているのだろうか? だれが、自分が「しょうがない」と言うことを強いていると言っているのだろうか? その人に「しょうがない」と言わさせている人は誰なのだろうか?
カント的に言うなら、その人に「原発再稼動はしょうがないことだと受け入れろ」と

  • 命令

しているのは

なのだろう?
本当に分からないわけである。
原発が動くことに、なにか、その人個人の、生理的な「快不快」の感情が、リンクしているのであろうか? しかし、別に、ドイツでナチス党が「禁止」されているように、原発の技術の研究が、大学や企業に禁止された、というわけでもなんでもないわけであろう。いいではないか。動かさなくなって。一体、なにに「不安」になっているのか? 彼らの気持ちを「騒が」し、いてもたってもいられなく、「原発を動かすべきだ」とパブリックな場で言わしめる、その内面的な動機となっているものはなんなのだろうか?
私は、いろいろ考えて、前回、このブログで書いたような

が彼らには、あるんじゃないのか、というふうに考えたわけである。
例えば、STAP細胞の話が、とりざたされたとき、小保方さんを批判することは「国益に反する」といった非難が一部にあった。つまり、これは日本の「利益」なのかどうかが問題なのであって、実際に、小保方さんがどういった人なのかといったことは関係ない、ということであった。こういった延長で、笹井さんが自殺したことは、結果として、日本の国益を損ねることになったのだから、NHKを始めとして、バッシングをした人、悪意をもった人は、糾弾されるべきだ、というわけである。
つまり、彼らはここで、「国の利益」ということを、自らの「行動原理」としていた、というわけである。
しかし、小保方さんたちが問題とされたのは、自然科学というアカデミックな場において、「学問を志す」ものとして、世界に向けて、「恥ずかしい」行為をしていたのではないのか、という問いだったわけであろう。つまり、ここで問題になっていたのは、別に、日本という国の利益が増えるか減るか、といった下世話な話ではなく、間違っていたならそうだったと認めたら、ということだったわけであろう。そのため、小保方さんが自らの「間違い」を認め、論文を取り下げた後は、

  • 急速

に国民の関心は、ここから失われた。言うまでもない。国民も暇じゃないのだ。本人が

  • パブリック

な場で謝ったのだから、もう、この話は当事者の間で解決されればいいので、他人には関係なくなったのだ。

この第(五五)項「公の為にせよ」とは『有限無限録』という清沢の著述の書かれ方われわれに解き明かしてくれているようである。「有限・無限」という清沢の宗教哲学の中心的概念から導き出される<平等的幸福の命法>を清沢的教説としての敷衍化だということである。そのことを清沢自身がこの箇条の終わりの箇所で明かしているのである。
「公の天なり。公に尽すの心は仁なり。道心なり」と。
「公」の定義をするかのようなこの儒家的文章がここにあるのは不思議な感じがする。これは清沢自身がこの条文の構成の種明かしをしているのだろうか。自分がのべようとするのは、究極的には「公」の儒家的テーゼだといっているのか。私には第(五九)項の文章はそのように読みとれる。「公の天なり。公に尽すの心は仁なり。道心なり」という儒家的「公」のテーゼこそが、この「公の為にせよ」という<俗諦>的教説の教説における構成の基底をなすものとしてあるのであろう。まさしく清沢はこの儒家的「公」のテーゼを最後い他力宗教的言語でいいかえるのだ。「公は彼を摂し、我を摂し、一切を摂す。故に公は大慈悲者なり。公の為にするものは大慈悲心を分享するものなり」と。

歎異抄の近代

歎異抄の近代

日本において「公」とは、もともと天子・朝廷を意味する「おおやけ」であり、朝廷・国家をこえることはなく、「天の公」という普遍的理念性をもつことはない。
歎異抄の近代

中国では<新儒家>と呼ばれる思想家によって、儒家(宋明儒学)の普遍的概念による近代思想の受容と新たな哲学的な展開がなされた。ヨーロッパ的な翻訳的思想言語によって一新された明治日本で、中国の<新儒家>におけるような儒家的概念と言語による近代思想の展開はない。清沢の『有限無限録』は、中国における<新儒家>に先立つ明治後期の日本における儒家的概念と言語による近代道徳論の例外的な展開だということができる。そして何よりも例外的なのは、<国家の公>をこえる<天の公>を絶対理念的な前提として道徳論的展開を清沢が見せたということである。
歎異抄の近代

清沢のいうことをさらに付け加えておけば、「或人のみに対する利他は邪なり。一切人に通ずる利他は正なり」といい、さらにカントの無上命法にならって、「汝の行為をして一般に対する法則たらしむべし」といっている。「公」とは仏心者の大慈悲行である。親鸞の信が「真信」であるのは、徹頭徹尾この「公」を志向するものだからである。
歎異抄の近代

例えば、ここで変なことを考えてみよう。どうして、東大を受験する人がいるのだろう? この質問は変に聞こえるだろうか。しかし、よく考えてみよう。別に、学校の成績がよくったって、東大に行く必要はないわけである。地元の人間関係を大切にするなら、せいぜい、通勤圏範囲にある、地元の都道府県の国立大学に行けばいい。しかし、こう言うと、大学教授の多くは、東大や京大の学生の出身なんだから、そういう大学に行った方が、大学教授になれる確率は高くなる、といった反応が返ってくるかもしれない。しかし、だとするなら、こんなふうに考えてみたらどうだろうか。大学教授というのは、研究者である。つまり、研究することを仕事とする人たちである。つまり、そのことから当然、定期的な「研究成果」を残さなければならない、一種の

  • 労働者

なわけである。彼らは、そういった「成果」を残すことを「目標」として、毎日毎日、欠かさず、研究のことを考えなければならない。言うまでもなく、研究成果は「競争」の世界である。どんなに、素晴しい発見をしたと思っても、一瞬でも早く、別の人がそれを見つけたら、今までの努力は一瞬にして水の泡である。
つまり、どうして、そんな「苦しい」ことを、わざわざやりたい、と思うのか。趣味の範囲でやってればいいではないか。実際、これだけコンピューターが普及して、ほとんどの論文は、ネット上で検索すれば、入手できるであろう。さて。なんで、大学に入りたいって思ってたんでしたっけね? 実際、大学の研究者には、昔から、定期的に自殺者がうまれるわけであり、近年のオーバードクターの問題を考えても、どこまで「価値」を感じられる場所なのかは、議論のあるところなのではないだろうか。
私がここで考えたかったのは、なぜ、東大を受験する人がいるのか、でした。つまり、彼らは、

  • ある種の「マインドコントロール」にかかっている

と考えられるのではないだろうか。彼らは、小学校から、高校までの間で、何度も、よく分からない「理屈」で、

  • 学力テスト

なるものを受けさせられる。なぜ、これが、よく分からないのか。それは、まずもって「なぜ、こんなことをさせられなければならないのか」の理由がないからである。先生は生徒に

  • なにを求めているのか?

生徒が、先生が教える学科の内容を理解してもらいたいと思うなら、先生自体が今まで以上に熱心に教えればいいだけであろう。そうすれば、自然と生徒は、分からなければ質問に来るだろう。果して、これ以上の何を求めるというのであろうか。そうやって、先生が熱心に教えていれば、自然と生徒は、自分でこの問題について考えるようになって、例えば、

  • さまざまな、この分野の「論文」

を書いて、自分で学会に発表するようになるであろう。よく考えてほしい。これは、私たちが自分で本を読んで考えているとき、私たちがやっていることである。どうして、それ以上の何かがいる、なんて思うのだろうか。
テストとは何か。テストとは、そのテストを受ける人たちの心の中に、なんらかの

  • 競争マインド

を叩き込むために行われる。つまり、「競争マインドコントロール」なのである。つまり、学校のテストで、いい成績をとった人たちというのは、学校によって行われた

によく「かかった」人たちなのである。
さて。
ということは、どういうことか。学校という場所は、生徒に、なにかを「マインド・コントロール」するために存在する場所だ、とういことになるであろう。では、それはなんだろう? 言うまでもない。東大や京大に「入りたい」と思わせる、マインド・コントロールである。
日本人は、「公(おおやけ)」というと、朝廷・国家のことを考える。だから、受験「競争」には、なにか意味があると考える。全国の同年代の子供たちが、

  • 東大を目指して「競争」をしている

という「幻想」は、その目指す先は、きっと「価値がある」のだという「幻想」を自明のものとする。言うまでもなく、受験競争など、しょせん、日本ローカルな話でしかない。つまり、国内「だけ」で競わせて、なにか意味があることのように偽装しているにすぎない。こんなもの、国外に出れば、だれも、なんの価値も見出してくれない。しかし、だからこそ、この幻想にとりつかれた連中は、そのガラパゴス的な意味を、なにもないところに、必死で見出そうとする。しかし、さっきから言っているように、もしも、国内の、その競争に「価値」があるとするなら、その価値とは、

  • 国内のこと

を意味するしかないのだ。なぜなら、この競争が国内だけでされているのだから。つまり、必然的に、競争「勝者」たちは、

  • 国家エリート

的な作法を離せなくなっていく。
一見すると、私は逆のことを言っているように聞こえるかもしれない。律令国家とは、中国においては、「帝国」であり、その裾野は「天」と同一視される。そういう意味において、この中国の律令的帝国の「正義」とは、すなわち、全世界のだれに対しても適用される「正義」であった。
ところが、この律令制度が飛鳥時代に、中国から日本に輸入されたとき、律令的エリートは、「天」つまり、全世界の普遍的な法則に帰依する存在であることに、なんの関心をもつことなく、土俗的な酋長に帰依する、土俗的な奉公人の作法を貫くことになる。

貞和三年に始まった儀式は、四季の祈祷と言われるもので、性格を変えながら現在も続いています。名前のとおり、年に四回お祈りを行うわけですが、問題は祈りの内容です。天皇の玉体安穏と将軍の武運長久を祈ります。次に年貢を未進・対捍(たいかん)した者と、「寺家不忠ノ者」、つまり高野山の命令に背いた人ですね、彼らの名前を書き上げて、彼らに仏罰神罰が下るよう、年に四回、坊さんたちが集まって呪っているのです。
この史料を見た時に、特にショックだったのは、未進の者にも呪詛を行っていることです。未進と対捍とは意味が違います。対捍というのは「なんで年貢を払わな、あかんねん」、これが対捍です。つまり納める意志をもっているのが未進で、そもそも払うつもりのないのが対捍です。高野山は、納める意志があるが払えないという、そういう状況の農民に対しても呪詛をしていたのです。

親鸞とその時代

親鸞とその時代

日本のエリートの特徴は、その国家従属性にあると言えるであろう。なぜ、原発を動かすことが「しょうがない」と言うのかと言えば、つまりは、今の保守政権の中枢が、原発推進のゴリゴリの利害当事者だからであろう。つまり、そういった構造において、彼らエリートは

  • 国家=天

原発推進を目指せ、と命令している、と受けとるわけである。上記の引用は、まさに、現在のエリートたちの作法そのものではないか。国益と言うなら、老人たちへの福祉を廃止して、全員、姥捨山に捨てれば、

  • 国は儲かる

というわけであろう。産まれる前から病気と分かっている子供は流産させる、というのもそうだ。福島県の除洗費用が「もったいない」と言っている連中も、そうだろう。そして、福島県の被害にあわれた人たちへの、金銭的保障は極限まで「けち」られる。
だから、私は自由主義者と呼ばれている連中が嫌いなわけである。彼らが考えているのは、いかにして、

こういった、年寄や病気の「国家に寄与しない」(と彼らが考えている)連中を、(ナチスがそう呼んだように)「駆除」するか、なのだ。しかし、問題は、それくらいの「余裕」のある国家、社会的に弱く、苦しんでいる人たちをサポートすることができるくらいの「余裕」のある国家だったはずで、その程度のことも、やりたがらない「非人道的」な連中が、その出費を「ケチ」って、やりたがるのが、

であり、オリンピックであり、リニア新幹線であり、原発エンジン・ロケットの打ち上げ、というわけであろう orz。
こんな無駄金ばっかりかかって、なんの将来性もないこと使って、金をドブに捨てるから、福祉に使えるお金を、どんどん減らされる、というわけであろう。
もしも、原発やオリンピックやリニア新幹線やロケットが、そんなに「価値」あるものなら、国連「で」、やればいいではないか。なんで、わざわざ、日本一国でやらなければならないのか。なんなんだ、その「日本」なる

  • 単位

は。
つまり、むしろ「逆」なのである。東大だとか日本だとか、日本の「国益」だとか言っている連中こそ、「公の天」を理解しない、土俗的「国益」主義者なのだ。むしろ、地域に根差し、地域を起点として、世界のことを考えている封建制的な、土着の大衆=凡夫にこそ、その

  • 世界性

が、むしろ、地域という狭い範囲と、「公の天=国連=世界共和国」を、

  • 直接

に繋げ、媒介する。田舎の親切な人の「作法」にこそ、世界的な「普遍性」がある、というわけである...。