チャットモンチー「少年のジャンプ」

内省的な記述は、読む人に、ある種の「いらだち」をもたらす。というのは、結局、お前の「快楽」は他人には関係ないからだ。
早い話が、人間は「幸せ自慢」が好きなのだ。そして、ニーチェが言ったように、人間が最も好きなのは、他人の不幸を「笑う」ことだ。他人の不幸は蜜の味なのであって、他人が生きることに苦しんでいるのを見れば見るほど、自分が幸せであることの「幸せ」をかみしめる。
こういった連中が、まず最初に取り組むのが、「政治」の支配であろう。国会や官僚を支配すれば、この国に関することの、あらゆることが実現できる。まあ、これが階級闘争なのだ。他人を支配する場所にある人が一番、「他人の不幸は蜜の味」を味わえる。
実際、快楽主義者の言っていることは、よく聞くと、自分以外の他人を、いかに、不幸のどん底に突き落として、「他人の不幸は蜜の味」を味わうのか、ということしか言ってなかったりするものである。
一種のパラドックスと言ってもいいのかもしれないが、世界がより「自由」になればなるほど、人々は人殺しを「楽しむ」ようになるし、奴隷を「当然」と思うようになる。
これが「自由主義」である。
人を殺すのも「自由」、人を奴隷にするのも「自由」。人間がお金を稼ぎ、実現しようとすることなど、しょせん、この程度のことなのだ。
人は「差別」が楽しい。
私が高学歴の連中が嫌いなのは、彼らが実に「楽しそう」に、差別をするからだ。そして、彼らはそれを

  • 自由

と呼ぶ。彼らは、「やっていい」

  • から

差別をする。つまり、彼らの「差別」という「趣味」は、

  • 社会がそれをやっていい(=この国が「自由国家」だ)

だから、彼らはやるのである。しかし、それをやっていいということに「決めた」のは、彼ら金持ち連中が決めたルールなのだ。彼は自分たちが差別を「楽しめる」ように、社会のルールを決める。
私が彼らを信用しないのは、ここにある。
彼らは社会のルールを決める。ところが、他方において、彼らは

  • 自分の「自由」

を社会に認めさせる。自分が好きなように「差別」ができるように、社会のルールを決めるのだ。私が高学歴の連中を信用しないのはここにある。

ステージに立つあなたの前で
僕は ただの少年

「ただの」少年とは、どういう意味だろう? それは「特別な」少年に対置された概念である。これは、「大衆」としての少年と言ってもいい。この概念で考えたとき、高学歴の「少年」とは、特別な少年の概念に入る。

探してたんだ
間違いだらけのテストの裏
たった一つの正解を
探してたんだ
転がるだけの世界の裏
たった一つの正解を

「間違いだらけのテスト」は、大衆にとっての「テスト」を表象する。これに対置するのが、「正解ばかりのテスト」ばかりを量産する高学歴連中である。大衆にとって、世界は「転がるだけ」の世界である。つまり、ずっと必死に、あがき続ける、その姿を意味する。大衆にとって、生きることは、まさに

  • テストの裏

なのだ。高学歴連中は、テストの裏にまったく関心を示さない。それは、たんに「無意味な場所」だからだ。ところが、大衆にとって、テストの裏は「重要な場所」である。それは、授業中に授業を抜け出して、眺める、屋上の空の光景に似ているかもしれない。
大衆にとって、テストの表は「間違い」が書かれる場所である。そして、それを、高学歴連中は笑うわけである。大衆はこの屈辱に耐える。まさに、学校の屋上やテストの裏は

なのだ。高学歴連中がテストの表に、大衆をバカにするための、くだらないゴタクを並べている間、大衆は必死に、テストの裏をにらみつける。そこに「真実」を書くために。

そして今 僕は今
ステージの上

少年の生は、ステージに立つ「あなた」の前にいる所から始まり、必死に生にくらいついている間に、いつの間にか、自分がステージの上にいることに気付くまでの形態をとる。これが大衆の生である。大衆の生の特徴は、必死にあがき、くらいついていくことに、回りも、他人も気にならない、そういう「他人を馬鹿にしている暇もない」ような、純粋で愚鈍な姿にあると言えるわけで、こういう意味でも、高学歴連中の常に大衆を馬鹿にして、自分を優位な場所に置いていないと「不安」でしょうがない、「差別病」と、対蹠的な位置にあるわけである...。

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