福谷茂「近世哲学とはなにか」

私は昔から、なぜ「哲学」という言葉を使うのだろうか、ということが不思議であった。というのは、哲学という言葉を使う人は、大抵、ソクラテスから話し始めるからである。しかし、それはずるくないだろうか。
どういう意味か。
つまり、なぜ「形而上学」という言葉を使わないんだろうか、ということである。ここは非常に重要なポイントなわけである。形而上学と言う場合、普通は、「アリストテレス」のことを言うことになる。そして、実際に多くの哲学と呼ばれているなにかをやっていると自称している人の、やっているその内容を見ると、つまりは、このアリストテレスに連なる「形而上学」の「伝統」の上に存在する、なんらかの

  • 作法

に関係する作業であるわけである。だったら、自分のやっていることは「形而上学」だと言えばいいんじゃないだろうか。なぜそれを「哲学」なんていう曖昧な言葉で言おうとするのだろうか。
そして、形而上学と言う場合、それはつまりは、キリスト教神学のことを意味していた。カトリックにおける神学は、さまざまな形で、アリストテレス哲学から「借用」した、用語を始めとしたストラクチャーが内包されている。そして、その二つは、もはや離すことなどできないまでに、その根底を構成してしまっているわけで、このことは、トマス・アクィナスを始め、多くのカトリック神学の理論家たちが、その再構築を目指した場合においても変わらなかったわけである。
しかし、そういった状況において、これに正面から、立ち向かったのが「ルターの宗教改革」だったわけであろう。

近世の発端において形而上学は死を宣告された。そしてそれは哲学的に行われたというよりは、むしろプロテスタント宗教改革、なかんずく、ルターによる形而上学断罪によるものである。もちろん唯名論ないし固体主義すでに中世末期フランシスコ会のドゥンス
スコトゥスに発祥していた。とはいえ、カトリック教会内におけるドミニコ会対フランシスッコ会という対立的併存の状況を超えて、形而上学とそれに象徴された在来の世界観に対する根本的な挑戦というラディカルな意義を初めて鮮明にすることができたのは、それがオッカム(一二八〇頃--一三四九頃)からガブリエル・ビール(一四三〇頃--一四九五)に受け継がれた十六世紀初頭においてである。
ルターはカトリック形而上学と一体化していたという事実を踏まえ、形而上学を排斥するということを自己の事業の重大な一部としていた。「プラトンスコトゥス派が異端かフス派のように教育から排斥されていた」エルフルト大学で学んだルターのアリストテレスは論理学と修辞学と詩学の巨匠である。ところが実際にカトリックでは、教義そのものが正式にはアリストテレスに由来する形而上学のタームを用いて定式化されねばならないことは顕著な事実である。イエズス会の長崎版「どちりな・きりしたん」(一六〇〇)でさえ三位一体の定式化に際しては「すすたんしあ」という言葉をそのまま使うほかなかったことにもこのことを確認することができおう。したがってカトリックキリスト教への根本的な対決は同時に形而上学、とりわけこれまた後代十七世紀に「存在論 ontologia」とよばれるようになった、その基礎的部門の圏域からキリスト教を絶縁することとして果たされねばならなかった。
この帰結がいかなることになったかは、ルターの盟友メランヒトン(一四九七--一五六〇)が行なった、プロテスンタト系大学のためのカリキュラムの改革の教科書の作成にその具体相を見ることができる。メランヒトンは言わば哲学の非形而上学化を実行した。哲学は素朴に、神によって普遍的にアニマのうちに宿らせられ、われわれの日常生活を直接的に領導するところの倫理的原理の顕在化に他ならぬとされて、実践的ないし実用的性格と効用に絞ってその価値が強調される。ルターによってとりわけ敵対視されたアリストテレス形而上学を彼が再導入したにしても、それは分析論を形而上学と切り離して純然たるレトリカとするという仕方でルターの初一念は受け継がれ、また具体化されている。カトリック的中世を抹殺するために、人文主義者でもあるメランヒトンアリストテレスよりもキケロやガレノイスにこそ新たな典拠を求めたのである。
ここに見られるのは形而上学的概念による宗教的局面の侵食をあくまでも排して、レトリカ=ディアレクティカ=ロギカ、自然学、および倫理学を内容とする哲学の三者からなる認識分野を、上にたつ信仰が間接的に、言わば離れて統括・包摂するという新しい文化形態である。これは階層秩序にもとづくカトリックの文化形態と著しいコントラストをなしている。そしてこのような新形態はストア派の学問分類との一致という過去に投影された裏付けを得ることになる(カントの『道徳形而上学の基礎付け』の冒頭がこれを示している)。またカトリックからプロテスタントへ改宗したペトルス・ラムス(一五一五--一五七二)の簡略化された反アリストテレス主義的レトリカ的論理学のヨーロッパおよび北米のプロテスタント圏における異常な成功もまた通常言われるようなプラトニズムのリヴァイヴァルとしてよりは、このような、形而上学の凋落という趨勢に投じた実用的新論理学の台頭という意味を持つものとしてこそ始めて理解することができる。そしてハーヴァードならびにイェールにおけるニューイングランドの哲学的出発に見られるのもこのようなラミスト論理学の制覇という状況であり、十九世紀末この土壌に生まれたプラグマティズムこそは、ラミズムと一体化していた反形而上学的ピューリタニズムの嫡子として、ヨーロッパでの「その後」を経由せずに再び形而上学が構想された場合いかなる形態が可能であるか、ということをわれわれに知らせる史的実験の結果であり、言わば「純粋培養」としての非形而上学形而上学といわれ得るだろう。

ルターの宗教改革は、その世俗化だけを目指したわけでなく、アリストテレスから始まる形而上学による神学の「汚染」から、信仰を救い出すという形態をとる。つまり、彼にとって、形而上学カトリックキリスト教を「堕落」させた根源に置かれる。まずもって、アリストテレス形而上学を、彼らの信仰から除去しなければ、一歩も先に進めない、というわけである。
そして、このルターの「改革」の延長において現在まで続いているのが、プロテスタンティズムだというわけである。
このように見たとき、ドイツやフランスにおける大陸系の哲学に対して、イギリスやアメリカにおける「プラグマティズム」系の哲学との相違が、よく見渡せる、と言えるのではないだろうか。

形而上学論叢』におけるスアレスの論じ方はあるテーマについてのこれまでの議論をもれなく提示した上でそれぞれの難点を指摘し、解決を示すという伝統的なものであるが、取材の範囲は驚くべき広がりをもっている。「形而上学の対象はなにか」も同じであり、六つの先行学説を検討して到達されたスアレスの定義は、ens inquantum reale =「実在的存在である限りでの存在」こそが形而上学の対象えあるというものである。スアレスの近代性は夥しく数え上げられているが(例えば、注28に挙げた文献において)、むしろこの定義という一点こそがスアレスを近代哲学に結びつけ、近世哲学の現れる場所を切り開いたものだということができる。なぜならば、この「実在的存在である限りでの存在」の地平にはただ最も普遍的・抽象的な意味での ens があるのみ、すなわち、無ではない限りの一切の存在があるのみなのであって、その ens が神であるのか、人間であるのか、物体であるのかは、全く問われていないからである。

トマス形而上学の根本が「エッセンチアはエッセによってエクシステレする」という命題に集約されるとするならば、山田晶教授の指摘するようにこの「エッセ」こそが形而上学の捉えるべき当のものであり、エッセの分有という事態こそが形而上学の対象でなければならない。しかるにこれは<創造>ということが形而上学の場面に現れた姿である。従って本来、形而上学そのものは決してこの事態の最終的な着地点であることはできない。言いかえると、「エッセンチアはエッセによってエクシステレする」という命題は、<創造>を正面に見据えた地点からはじめて言われうることであり、むしろ、<創造>の側に立ってはじめて正当に語られうることであるとさえ言えるだろう。このこと自体はキリスト教哲学としては当然のことであるが、山田教授によって行なわれた「エッセ」概念の奪還によって、後代の汚染によって逸されていた本然の姿をわれわれは明晰に目賭することができるのである。そしてこの場合、エッセンチアとエクシステンチアとの実在的区別というトマスの論点はうしろコロラリーとして生じてくる。この場合においては、エッセンチアとエクシステンチアの間に実在的な区別の存することが、「エッセ」の分有によって個々の存在が「存在せしめられて存在する」所以を明らかにする優れて存在論的な意味を持つことだからである。この場合、形而上学にとっても<創造>そのものが、しかしあくまでも形而上学の地盤においてという限定をもって、対象でなければならないのである。これに対してスアレスでは形而上学の対象は、創造の産物であるという規定が度外視された、言わばすでに創造され終わった存在である。創造そのものではなく、その結果としての、その産物としての、存在のほうに形而上学の場面が決定的に転換されているのである。

早い話が、形而上学とは、カトリックキリスト教の世界においては、「神学」の一分野のことを意味していたわけである。なぜなら、この世界は神が「創造」したのだから、その意図について考えるという筋道になることは自明なわけであろう。
他方、ルターの宗教改革が始まる前から、こういった講壇哲学に対する批判はあったわけで、その一つとして第二スコラ哲学の中からでてきたスアレスの引いた一線は、まったく、その前提を逸脱している。つまり、物体、植物、動物、神を「存在」という一つの

  • カテゴリー

でまとめてしまった、というわけである。キリスト教神学においては、<創造>について考察することが使命であったにもかかわらず、スアレスにおいては、神も含めて、なんらかの意味での「存在」となったわけである。キリスト教神学において、神の<創造>を考えるということは、神の特別視というだけでなく、人間の特別視でもあったわけである。というのは、それは人間の<創造>を考えることでもあるのだから。ところがスアレスにおいて、そういった<創造>の地平を離れて、

  • すでに今こうあるもの

が問いとして立てられる。それは「存在」として、一つの概念によってまとめられるわけで、つまりは、ここから

  • 物の実在性

と同じように

  • 人間の実在性
  • 神の実在性

のような命題さえ生まれてしまう。ここには、なぜ中世ドイツ哲学が、あのような「難解」な饒舌に、多くの言葉が多くの哲学者によって尽されなければならなかった事情が読みとれるわけであろう。
しかしそのことは、結局は、今においてまでも、なんらかの意味において続いている、ということを意味するのではないか。つまり、カトリックとプトテスタントという形で。彼ら西洋の哲学者たちの「情熱」が、たんなる学問的なものと考えることは、根本的な勘違いを起こしているのではないか。むしろ、今においても、なんらかの党派的な動機付けが、少なからず、彼らの思考の隅々に存在するのではないか。
このように考えてきたとき、私には「哲学は簡単」というような表現が、非常に欺瞞的に思われるわけである。むしろ、哲学にはなんらかの党派的な「権力」が内包している。読むという「行為」自体が、なんらかの党派的な「戦略」と対決することなしに成立しない、とさえ言えるのでは、と思うわけである...。

カント哲学試論

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