リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』

多くの人は、そもそも、リチャード・ローティという人が、どういうことを言っていた人なのかを知らない。
例えば、掲題の本にしても、最初の方から、さかんにアラン・ブルームについての言及がある。私はこれがなんなのかが最初は分からなかった。しかし、考えてみれば、アラン・ブルームと言えば、「アメリカン・マインドの終焉」を書いた人なわけで、そもそも、こういった人に何度も言及して何かを言おうとしていることが、何を意味しているのかは、察しのいい人ならすぐに分かるであろう。

その挑発的な語り方にも与って、本書は『哲学と自然の鏡』にも劣らない反響を呼び起こしてきた。ローティに寄せられた反論の多くは、私的なものと公共的なものの分離・併存をめぐるものである。私的な生の位相から公共的な政治の要素を締めだすことは妥当か、一人の人間がまったく異質な二つの語彙----自己創造にかかわる語彙と正義にかかわる語彙----を維持しつづけることは可能か、もっぱら自己への配慮に専念する個人は見知らぬ他者が置かれている境遇への興味関心をはたしてまともにもちうるだろうか、といった異論がその主なものである。
(「約者あとがき」)

ここではローティが公共的なコミュニケーションをどのように描いているかという点に問題を絞ろう。
私たちの語彙が、共約可能な部分と共約不可能な部分に、論議(argument)に馴染む部分とそうではない部分に分かれるという主張には異論はない。かりにすべての語彙が共約可能なものであるとすれば、それは、一人ひとりの生を「ほかならぬ」ものとする特異な語彙の喪失を、したがって、人びとの複数性(plurality)の喪失を意味するだろう。ローティの議論の問題は、彼が、公共的なコミュニケーション共約可能な語彙にのみ関係づけ、そこにおよそ創造----新しい語彙の創出とそれによる政治文化の革新----の契機を見ていないという点にある。新しい語彙、革新的なメタファーの創造は、一部のアイロニストのみがなしうる事柄として描かれ、他方、それ以外の人びとには、アイロニストが創造した語彙を受け容れるか否かという受動的な役割だけが与えられる。既存の文化の「通常=正常性」(normatiy)を攪乱し、それを変容させてゆく「変則性」(abnormality)は、本書では、他者との「対話」(conversation)----『哲学と自然の鏡』において提起された、合意への収斂を目指す論議型の「対話」(diaogue)と対比されるコミュニケーションのあり方----ではなく、もっぱらアイロニスト個人の「私的自律」のなかに位置づけられている、と言ってよいだろう。創造者と受容者おこうした二分法は、自己創造のいわば「他律」的な契機----他者の語る言葉を受容することによって創造が触発されるという局面----に十分に光を当てることができるだろうか。
(「約者あとがき」)

いやー。分かりやすいですね。

  • アイロニスト=一部特権的エリート(嗤
  • その他アイロニストの御託宣を待つ人びと=パンピー

典型的なエリート主義者なんですなあ。この分厚い本を使って、そのことを証明するための、この涙ぐましいまでの、説得の努力w。どれくらいのモチベがあったんですかねw。
確かに、私は途中まで読んでいて、そもそも著者はなんでこんな議論をやっているんだろう、と、いろいろな個所で、その動機がよく分からなかったのだが、そうやって言われて振り返ってみたとき、なんとなく、そういった涙ぐましい努力をやらずにいられなかった彼の「動機」が、なんとなく分かったような気がしたわけである。
ようするに、この本に書いてある「連帯」だとか「残酷さへの同情」だとか「リベラル」だとか、そういった、いちいち語られる「キーワード」にほとんど意味なんかないんですね。つまり、そういう用語にとらわれてはダメなんです。本質を逃すんです。この本で著者が言いたいのは、唯一点

  • アイロニストという数少ない特権的エリートだけが唯一、人類の「創造」を行い、パンピーを導いて行く

という、まあ、分かりやすいアラン・ブルーム的なフレーム、ということなんですかね orz。
さて。そもそもなんで、今日、あらためてこの本を読んでみようと思ったのかなんですが、前回、晩年のハンナ・アーレントが、カントの判断力批判に注目していく過程で、カントの哲学がソクラテスの哲学の「手法」に非常に従順な人だったのではないか、といった分析を紹介していく過程で、 そうやって考えてみると、この本では、ローティは手を変え品を変え、ソクラテス(実際は、プラトンを意味していますが)とカントを、徹底的にボロクソ言っている本なんですよね。
そのように考えたときに、私なりに、どうしてローティは、こういったまだるっこしい言い方をやることになっているのか、ということを、私なりに、そもそも、いわゆる「哲学」とはなんなのか(つまり、ハンナ・アーレントが言う意味での、ソクラテスであり、カントが示そうとしたも)について説明してみようか、と、それとローティの主張するエリート主義的哲学が、いかに違っているものなのかを、なんとか説明してみようと思うんですよね。

しかし、そしてこれは非常に重要な点なのあが、フロイトは、以上のことを伝統的で哲学的な、還元主義的方法によって遂行しているわではない。芸術とは本当は昇華であるとか、哲学体系の構築はたんなるパラノイアであるとか、宗教とはおっかない父親に関するたんなる錯乱した記憶であるなどと、彼は述べたりしない。人間の生とは、たんなるリビドー・エネルギーの継続的な再伝達なのだ、と彼は述べてない。実在と現われの区別を発動することに、或るものは「たんに」あるいは「本当に」、他のものとまったく異なっていると語ることに、彼は興味がない。フロイトが望んでいるのは、他のすべての事柄の横に並べて残しておくための、事柄に関するもう一つの再記述、もう一つの語彙、そして、たまたま利用され、その結果字義どおりにとられるようになるメタファーをもう一組提供することだけなのだ。

つまり、ローティはフロイトは「アイロニスト」だ、と言いたいわけである。アイロニストとしてのフロイトが、新しい言葉(=比喩)を「創造」した、と。
さて。ソクラテスが行った弁証法は、よく「産婆術」と呼ばれる。つまり、ソクラテス自身は哲学自体を生み出したわけではない。彼は、その哲学が産まれる「手助け」をしただけなんだ、という意味になる。よく、哲学の定義とは「知への愛」と表現される。しかし、そもそも「愛」という表現は、人間やかわいがっているペットなどに対して使われる言葉ではないのだろうか。だとするなら、「哲学」に「愛」という言葉が使われるのは、少し変に思わないだろうか。
カントは、こと実践理性批判において、その道徳法則において、「目的の国」の構想を提示する。つまり、他者を手段としてだけでなく目的としても扱わなければならない、と。このことは何を意味していたのだろうか。つまり、カントの「構想」において、なんらかの「目的論」についての政治的プログラムが、この段階において構想されていた、と考えられないだろうか。
人間は群れで生活をする動物である。ということは何を意味するか。つまり、大事なことは、この「群れ」を維持していかなければならない、ということである。なぜなら、群れとして滅びたときが、人類「自体」の滅びだからだ。つまり、たとえ各個体の「死」が避けられないとしても、「全体の倫理」において、人びとは全体の存続を、ある程度、意識的に実現を目指すように、人間は作られていると考えられる、ということなのである。
この場合重要なのは「群れの存続」である。これを可能にする条件は、「その群れの構成メンバーが極端にストレスなどによって追い込まれて、暴走をしない」というところにある、と言えるだろう。つまり、群れのメンバーの「感情のコントロール」だということになる。
このように考えたとき、ソクラテスが何をやっていたのかが分かるであろう。彼は「群れ」のメンバーの中に、なんらかの「理不尽な扱い」に対する不安を蓄積したメンバーがあらわれたとき、そのメンバーの、内面において膨れ、鬱屈しているものを、

  • そのメンバー自身によって最初は、そのメンバー自身の内面にある言葉によって「表現」させ、ソクラテスを「説得」させる

という戦略で立ち向かうわけである。ここで大事なポイントは「その人自身」によって、表現をさせる、というところにある。
何度もこのブログで言っているように、私たちは他者を「知らない」。そして実際に、ソクラテスは、相手の言っていることを完全に理解するわけではない。しかし、その産婆術であり、弁証法において、その相手が描こうとする幾何学図形に、ちょっとした

  • 補助線

を引くわけである。ここで大事なポイントは、ソクラテスは別に、相手の言っていることを百パーセント理解している必要なんてない、ということである。というか、まったくチンプンカンプンでもいいのだ。大事なのは、

  • 相手の納得感

だということである。ここで何が求められていたのか。それは「群れの安定」である。つまり、「何が真実か」とか、どうでもいいのだ。相手は、少なくとも、ソクラテスが引いた補助線によって、自分が悩んでいた問題が「少し前進」したことによって、また、その先を考え始めるわけである。つまり、少しでも悩んでいた難問が前に進んだことで「満足感」が生まれた、ということなのである。
これが(ハンナ・アーレントが見ている、ソクラテスでありカントが考えている)哲学である。
どうだろう。まったく、一般的にそう呼ばれているものと違っていないだろうか。つまり、哲学とは「政治的な倫理性」だけが、唯一意味のある定義となる、ということなのであって、本質的に政治学だ、ということなのである。
このように考えたとき、上記におけるローティによるフロイトのアイロニストとしての定義には、さまざまなポイントがあることが分かるのではないだろうか。コンサルがそうであるように、確かに医者は、患者を治療する。しかし、ここで重要なのは、必ずしも、患者は

  • 満足感

をもたない可能性がある、ということなのだ。コンサルや医者の場合、客は先に料金を支払う。つまり、結果として満足が達成できようができまいが、相手の「行為」の遂行を受けることの「合意」が、金銭契約によって最初に存在する、ということなのである。
つまり、医者が後において行うことになる「物語」は、本当の意味において、患者の「満足」と関係ない可能性がある。ところが、ローティは、その非対象性に、大きな意味を見出さない。なぜなら、この場合の医者であるフロイト

  • アイロニスト

だから、である。ローティにとって実際に哲学とはなんなのかに興味がない。彼にとって大事なのは、「アイロニスト」という人類において「特権的」な地位を与えられた「エリート」なのであって、この地位の、パンピーに並び立つことの許されない地位の揺ぎない優越的な特権さえ、「証明」できれば、あとはどうでもいい。しかし、こういった「哲学」はもはや、ハンナ・アーレントソクラテスやカントが考えた哲学とはなんの関係もない、というわけである...。

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

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