負け組?

以前、このブログでも紹介した小泉義之さんの『「負け組」の哲学』という本は、薄い本だが、その「動機」はよく分かるような内容であった。以前書いたときは、あまり深められなかった論点を、ここで再度考えてみたい。
下記は、この本の「まえがき」にある、なぜ著者が「負け組」の哲学なるものを考察することになったのかの、その分析を示している個所である。

  1. ゲームの参加者は、ゲームに参加しない者のことを、ゲームの外や他と見なすのではなく、上-中-下のさらに下、すなわち、下の下と見なしている。ただの負け組と見なすのではなく、参戦する前から負けている者、敗北を宿命づけられた者、敗者の名誉にも値しない者と見なしている。それだけではない。ゲームの参加者は、ゲームに参加しない者のことを、負けを認めたくないばかりに達観を装う欺瞞的で下劣な人間と見なしている。だから、ゲームの参加者は、働けるのに働こうともしない連中、動けるのに怠惰を決め込む連中が我慢がならない。
  2. ゲームの参加者のこんな価値観は、ゲームに参加しない者にも感染する。ゲームに参加しない者も、自分のことを、外や他と見なすのではなく、下の下と見なしている。その立ち位置ゲームの外にあるのに、自分のことを敗残者と見なしている。だから、ゲームに参加しない者は、怨恨や嫉妬などの暗い感情にとらわれている。
  3. こうして、いたるところで、「バスに乗り遅れるな」が標語となる。就活で出遅れたら、年金を払わなければ、一生にわたって敗者復活戦はないと急き立てられる。人道的介入に参加しなければ、テロを容認したことになると後ろ指をさされる。グレローバリゼーションに参入しなければ、一方的にむしり取られるだけになると煽られる。
  4. それでも、上-中は、不安を解消すべく、セキュリティのためにセーフティ・ネットを張って、そこそこやっていけるかもしれない。下は、誇りと屈辱が入り混じった感情をいだきながらも、たくましくやっていけるかもしれない。ところで、上-中は、下の下に対しては、承認の政治と分配の政治を説教する。上-中は、下の下に対して、外や他そのものの価値を突き出すことを許しはしない。そうではなくて、下の下にもそれなりに良いところはあると認めてやり、それを根拠として、下の下にもそれなりに分け前を与えてやる。こうして、下の下は、承認と分配を自ら乞うようになる。卑屈になることを強いられるのだ。
  5. 上-中は、道徳的粉飾を凝らして、下の下に対して、こう述べる。あなた方を社会的に排除して申し訳ない。だから、他者に対する責任を負うことにしよう。構造的他者であるあなた方を、社会的に包摂してあげて、社会的な連帯を構築しよう。そのためにも、あなた方は、怠惰な姿勢を捨て、正業に就くことを目ざして自らを教育してもらいたい。また、陰気な性格を矯正し、公民的徳性と市民的資質を身につけて、社会的に有意義な活動を行なってもらいたい。公園の掃除、空き缶収集、地域警護、駐車違反通報、犯罪予防活動、介護、施設訪問など、いくらでも公共性や共同性に貢献する活動はある。上-中の私たちは、持続可能な経済成長のためにほとんどの時間を取られているから、そんな有意義な市民活動を行なう余裕を残念ながら持ち合わせてうぃない。あなた方は、幸いにも暇なのだから、上-中の私たちに代わって有益な活動をしてくれるなら、私たちの所得から再分配してあげよう。あなた方を貧民や窮民と捉える公的扶助を見直しして、新しい福祉社会、活力ある社会を共に目指そう。あなた方がそうしてくれるなら、公的扶助や失業保険の名目ではなく、市民労働に対する参加所得・市民所得の名目で、私たちの納税分を分けてあげよう。これが、分け前なき外部の他者への分け前の条件である。
  6. 上-中のこんな説法に、下の下は丸め込まれかけている。ゲームの外と他はかき消され、上-中と下の下は、おおむね共感と友愛で化粧された関係を保っている。下はといえば、日々をやり過ごすのに精一杯で鬱屈するばかりだ。こんな出来ゲームを切り裂くのは、ときおり吹き出す下の凶暴性と下の下の情念だけのように見えるのだ。

「負け組」の哲学

「負け組」の哲学

これを読むと、この著者の関心は、「上-中」と「下の下」と呼ばれているものの両者における、言わば、

  • 共存関係

にあると言えるであろう。この関係とは、「勝ち組」と「無能力者」との一種の

  • バーター取引

だと言える。「勝ち組」は、勝ち組という「権利」の獲得の代償として、「無能力者」への

  • 無私の愛

を求められる。彼ら「無能力者」は「負け組」ではない。「能力がない」ゆえに、この競争から「排除」されてしまった存在なのであって、その意味においては、彼らは本当の意味で「負けた」わけではない。では、なぜ「勝ち組」は、そういった「無能力者」に優しいのだろうか。それは、彼らが「もしかしたら自分もそうなっていたかもしれない」と思えるからなのだ。
そういった意味においては、「勝ち組」と「無能力者」は相性がいい、と言えるだろう。
しかし、この著者は、そういった「生温い共感」は、本当の意味において、相手を人格ある存在として、その尊厳を認める態度とは言えない、と解釈するわけである。

無力な者は、生存を脅かされている。この社会状態の中で、生存を脅かされている。つまり、無力な者は、社会状態の只中で、一方的に戦争状態に放り込まれている。ならば、無力な者は、生き延びるために、何をやっても許される。食物は盗んでも、それは盗みではない。介護を獲得するために誘拐しても、それは誘拐ではない。薬を密造しても、それは犯罪ではない。それは無力な者のホッブス的な自然権であり、日本国刑法の正当防衛権からしても合法的な闘争である。
しかし、国民多数派にとって好都合なことに、無力な者には、鍵を回す力も、拳銃を持つ力もない。敵対的な文書を読んで憤る力もない。スピノザ的な自然力としての自然権はないのだ。
「負け組」の哲学

もしも「無能力者」を

  • 能力者たちと「同じ条件」で扱う

ということになるなら、こういうことを意味するであろう。少なくとも、近代社会契約思想の出発点を意味するホッブスの言う原理を素直に実行するなら、こういうことにならなければ「おかしい」というわけである。

市民政治経済学においては、所得の分配の前に、能力が自然的に分配され、同時に、生産と労働と所得が分配される。事前に、何かが決定的に分配され終わっているのだ。とするなら、いかに分配のルールを調整したところで、無能力な者に対するそれは、生産能力のある者からの恩恵や慈善の変形にしかならないのは自明である。地獄への道は善意で敷き詰められているとはこのことを言うのだ。
「負け組」の哲学

相手を「かわいそう」だから助ける、という理屈は、強者の弱者への「圧倒的な非対称性」を前提にした「ボランティア」だということになる。つまり、強者は自分が

  • 弱者を助ける「余裕がある」

から、その「圧倒的な余裕」の余剰として、弱者を助ける「くらいはやってやる」というわけになる。しかし、そういった態度の一体どこに、人間の倫理性を感じられるだろうか。むしろ話は逆だ、と言っているわけであろう。ホッブスの社会契約を考えるなら、私たちの社会契約は、無能力者を「排除」しているのだから、つまりは彼ら無能力者は端的に今も

  • 原初状態

に置かれたままであることを意味しているだけなのだ。強者の「温情」や「共感」に関係なく、無能力者たちには「あらゆる」抵抗が認められるのは当然だ、ということを意味するわけであろう。なぜなら、

  • 実際にそう扱っている

のだから。
なぜ、このようなことになるのだろうか。
言うまでもない。ある種の「競争」にかかわるイデオロギーを前提にしているからに決まっているわけである。

寺嶋秀明はこう書いている。

人がなぜ食物を分けあうのかという古来の問題については、近年、進化生態学的アプローチからさまざまな仮説が提唱されている。「血縁淘汰 kin-selection」「許された盗み toleratede-theft」「強要的分配 demand-sharing」「保険理論 insurarance-argument」「しっぺ返し的互酬 tit-for-tat reciprocity」などである。しかしながら、納得のいくものは一つもない。それらの議論には共通の前提がある。すべての動物は本来食物を独り占めするのが当然であり、食物を分けるのはそれ相応の理由を必要とするという理屈である。人間の場合、そこからスタートしてはすべての道は閉ざされてしまう。分かち合いの根源的楽しさを知ることから人間性が始まるのである。

「負け組」の哲学

これは一種の「革命」だと言えるだろう。この著者は、そもそも「分け合う」という行為自体を、本来的に人間は「したがる」生物なんだ、と考えるわけである。
もう一度、最初の引用における理論モデルについて考察してみよう。この著者において、こういった「勝者ち組」「敗け組」「無能力者」の分類は、たんに敗者の位置に今の勝者が転落して、敗者が勝者にのし上がればいい、ということを意味しているわけではない。この「勝ち組」「敗ち組」「無能力者」というフレーム自体をぶっこわす、

  • 革命的な認識

が問われているわけである。
しかし、私はこの分析を見ていて、ある違和感を覚えた。というのは、そういう意味でいうなら、むしろ重要なのは「負け組」なんじゃないか、と思ったからである。なぜか著者は、「負け組」にあまり関心がない。しかし、本質的な「勝ち組」の

  • 差別性

は、「負け組」に対する態度にこそあるわけであろう。「勝ち組」は「負け組」を敗者として、まったく「同情」がない。負けたんだから、差別的な扱いをされるのは当然だ、くらいに考えている。そもそも同じ人間だと思っていないわけである。
しかし、そういった「態度」はどのような理屈によって理解されるというのだろうか。というのは、この問題の「本質」は、私たちが「子どもの時代」において、最も先鋭的に発現するからである。

<残された者>としての子どもについて。北アメリカ地域での Children's Right movement を顧みると、それは子どもの権利の基礎にある利害に関して子どもの自治を認めるというよりは、子どもの権利を代理する権力を再編・強化する方向に動いていった。つまり、子どもを権利の担い手と規定することは、子どもを権力の囲いに包摂することとたやすく連動したのである。よってたとえば、法廷なる領域においては、単称命題「Pa」を真とすることは必ずしも得策ではないと言うことができる。
他方、自然的無能力者である子どもを教育権の担い手として規定することは、民主制が能力や資質の相違を根拠とした差別を許していることから言っても、正当である。よって、学校なる領域においては、単称命題「Pa」は真にして正当であり、学校なる領域は、個体aの本質的属性や偶然的属性についての一切の言説を廃棄して、個体aを包摂すべきである。
「負け組」の哲学

この引用は一方において子どもを「無能力者」のカテゴリーに入れて考察していることがポイントだと言えるだろう。子どもは確かに、被保護者として、法的権利のほとんどを所持していない。しかし、興味深いことに、他方において、子どもの教育環境は激烈なまでの競争社会である。
一方において子どもの権利を制限しておきながら、他方において、激烈な競争を「強要」している。このことになんの矛盾も感じない人がいるとしたら、相当にエリート教育に頭をやられちゃっているのだろう。
子どもはあくまでも「教育」的対象として保護者に保護される立場にいながら、全国一斉学力テストや、中間・期末テストによって、強制的に「能力競争」を強いられ、実際にその「順位」によって、将来の進路を割り振られる。
こういった大人たちの「欺瞞」であり「偽善」に気付いた世代が起こした一つの「革命運動」が

だったと言えるのではないか。言うまでもないが、別に子どもを一律にペーパーテストを受けさせて、

  • 点数ピラミッド

を作らなければ、子どもへの教育ができないわけではない。この序列はたんなる、子どもを教育する側の「先生」たちが自分たちが一部生徒を「差別的に扱いたい」ための「言い訳」として行われているにすぎない。私はいずれ、日本人が成熟するにつれて、こういった一律の「テスト」という

  • 子どもの人権を踏みにじる野蛮な非人道的行為

はすたれてなくなるんじゃないか、と思っている。「ゆとり世代」は、ある意味において、理想的な教育が生み出した、非常に意義深い教育実験だったのではないか、と少し思い始めている。いずれにしても、少子化も関係しながら、大学の数の増加も伴い、大学の全員編入時代に突入したと言われる昨今において、むしろ子どもたちの側が、本質的な大学「競争」に対する距離を置き始めていることは、むしろ健全な事態だと考えられるのではないか、とさえ思わなくもない。「ゆとり世代」は「悟り世代」でもある。非人道的な子どもの「競争」差別が、非常に偏った差別的な子どもの「人格形成」に決定的な影響を与えてきたのではないか、と考えたとき、彼ら「ゆとり世代」の、他人への思いやりのある、思慮深く、ひかえめな「悩める悟り」に、その一つの「成功」を見ることも可能なのではないか、とも思ったりするわけである...。