ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』

ポストモダンという言葉は、この本から始まったわけではないと著者は言っているが、実質は、この本の主張から始まっている。つまり、次のような意味において。

このメタ言説がはっきりとした仕方でなんらかの大きな物語----《精神》の弁証法、意味の解釈学、理性的人間あるいは労働者としての主体の解放、冨の発展----に依拠しているとすれば、みずからの正当化のためにそうした物語に準拠する科学を、われわれは《モダン》と呼ぶことにする。だから、例えば、真理の価値を持つ言表送り手と受け手とのあいだのコンセンサスの規則は、それがすべての理性的精神の合意の可能性という展望のなかに組み込まれたときに、はじめて受け入れられることになるだろう。そしてそれこそ《啓蒙》という物語だったわけであり、その物語においては、知という主人公は、倫理・政治的な良き目的、すなわち普遍的な平和を達成しようと力を尽くすのである。この場合には、一個の歴史哲学を含むメタ物語によって知を正当化しつつ、われわれは必然的に、現実の社会的関係を統御している諸制度の有効性をも検証しなければならなくなる。それらの制度も同様に正当化されることを求めているからである。こうして、正義もまた、真理と全く同じ資格で、大きな物語に準拠するようになる。
極度の単純化を懼れずに言えば、《ポスト・モダン》とは、まずなりよりも、こうしたメタ物語に対する不信感だと言えるだろう。

ここで言う「大きな物語」とは、いわば、学問における「統一理論」のようなものだと考えればいい。ヘーゲルが目指したような、あらゆる学問を統一的に説明する、すべての「知」の源泉のようなものである。そして、これを著者は「物語」と呼んでいるところに、ニヒリズムがある。
つまり、こういった統一理論は、そもそも疑わしいんじゃないのか、ということが、さまざまな場面において、議論されるようになってきた。そもそも、なにもかもを説明できるような「視点」などありうるのか。私たちの「知」には、各個人の「生態」が強いてくるような「制約」が存在している。つまり、そういった「透明」な視点が確保できるような場所を空想することに、多くの人たちが、あまり多くのコストをかけたくない、といった動機が一般に広まるようになる。
このことを、「反対」の視点から説明しようとするなら、どういうことになるか。
まず、いわゆる「説得の不可能性」が疑われるようになった。つまり、なにかの「法則」を受け入れさせることによって、相手に、さまざまな「政策」を「しょうがない」と思ってもらえるような、普遍的な視点の「説得」が難しく感じられるようになった。つまり、学問自体の「能力」の、評価の低下だと言えるであろう。本当に、学問には、言うほどの「価値」があるのか。
大きな物語」への懐疑の後、そもそも学問は何を語れるのか。
こういったポストモダンと呼ばれる、ひとつの哲学運動は、二つの奇妙な方向へ向かった、と言えるだろう。それが、価値相対主義と工学主義である。
たとえば、リチャード・ローティが典型であるが、彼は「なぜか」ヘーゲルを評価する。それは、つまりはヘーゲルが、ある歴史的な時間の「点」において、学問が「完成」することはない、と考えたからである。つまり、常に学問は「不完全」な形においてしかありえない。だったら、学問は無意味なのか。それに対して、ヘーゲルは「時間的相対性」を考えた。つまり、今学問が完全でないなどということは当たり前の話にすぎない。重要なのは、ある時間点における認識と、それから後の、ある時間点における認識との、相対的な「進化」だと考えたわけである。
もちろん、これは一種の「大きな物語」にしか思えないであろう。しかし、大事なポイントは、この認識には「時代論」や「世代論」を重視している、ということなのである。つまり、実際にそれが「発展」かどうかは重要ではない。なんらかの

  • 旧世代から新世代への「世代交代」が<ある>

と言っていることなのである。
例えば、右翼と左翼という二つの政治勢力がある。これに対して、ポストモダンは、イデオロギーという「大きな物語」を信じないところから始まっているわけであって、では具体的にどのように、これらについて言及するかというと、以下のようになる。

  • 「右翼の主張」であるが、他方において、「左翼の主張」。

これが、ポスト・モダニストの言説戦略である。一般の人が聞くと、まず、この二つの「矛盾」した言説が「同時」に語られていることに、不快な感情を抱く。しかし、この言説の「くだらなさ」は、これを言っている本人が、自らを、「ポスト・モダニスト」と「定義」するところから始まっているのであるから、これを聞く方には、ポストモダンという「難しい思想」からは、庶民にはうかがいしれない奥の深い意味があるのだろう、と「へりくだる」ことを暗に求められている圧力を感じる。
ここにおいても、ヘーゲルのアナロジーが使えるわけである。ヘーゲル弁証法において、矛盾してある二つのものは、それそのものが、アウフヘーベンされるということを「意味」しているにすぎない。つまり、矛盾は矛盾ではないわけである。よって、ポストモダン的には、むしろ、矛盾する右翼イデオロギーと左翼イデオロギーが、並列に「肯定」されることは、むしろ「正しい」から、そう実践しているにすぎないわけである。しかし、ここでも注意がいる。ポストモダンアウフヘーベンを目指さない。つまり、矛盾した二つの命題は、そのまま、そのようにあり続けさせられる。これは「大きな物語」を疑っているところから、必然的な帰結と言えるであろう。
では、実際には何が起きるのか。これを、デリダデコンストラクションと考えてもいい。つまり、この二つの「矛盾」をそのままにさいながら、いわば、まったく違った側面から、まったく違った「言語ゲーム」を行うことによって、その矛盾をそのままにしながら、この矛盾を、

  • 私たちの生きるその「生活モデル」において、決して「対立的」な矛盾ではない

ことを明らかにしていく、というわけである。
このことは、いわば、現場主義とか、工学主義といった考えに近い。なにかの「大きな物語」の「矛盾」は、ポストモダンである限り、避けられない。しかし、そうであることが、具体的なそれぞれの人の「現場」においては、必ずしも、困難をもたらす要因になっていない。これは、たとえば「文系」や「理系」といった統一理論における「説明」があろうがなかろうが、工学の現場では、実際に

を作ってしまって、「ナニモノカ」を実際のこのセカイにもたらしてしまっている、ということを意味する。

こうした一般的な変化に応じて、知の性質そのものも変わらざるを得なくなる。知が新しい流通回路にとって操作的であり得るためには、知識は多量の情報へと翻訳され得るのでなければならない。そこから、次のように予測することができる。すなわち、既知の知のなかでそのような翻訳可能性を持たないものは結局は見捨てられてしまうだろうということであり、また新しい研究の方向付けは、その成果の機械言語への翻訳可能性という条件に従うことになるろうということである。

このように見てくると、ポストモダンというのも、一種の「メタ宗教(=ルソーが社会契約を「市民宗教」によって担保しようとしたように)」だと考えられるのではないか。
例えば、宮台真司さんは、現代社会を「成熟社会」と呼んだ。しかし、このことはポストモダンという事態を逆から言っているのと変わらない。さまざまな「価値観」をもった人たちで社会が構成されることを前提にして、社会を運営しなければならないということは、「統一した価値観」を人々に対して「想定」できない、と言っているのだから。まず、啓蒙「できると思ってはいけない」わけである。それがポストモダンの「定義」なのだから。もしも啓蒙が可能なら、それは「大きな物語」がある、と言っているのと変わらないのだから。
しかし、他方において、近年「フラット化する社会」論が喧伝された。それは、たとえば、発展途上国が国内の低賃金労働者を使って、安価に商品を作ることで、日本にある工場と価格競争で優位にたつことで、結果として、生活水準が「フラット」化する、という主張から敷衍して、例えば、

  • 世界中からローカル言語の消滅(地球上の言語が英語一つになる)
  • 世界中のどの地域も同じ情報を見て同じライフスタイルをもつようになる(どこで暮らしている人も、「なにも変わらなくなる」)

といった方向に向かっている、と予測した。
しかし、よく考えてみると、一方において「各価値観」の多様性の承認(大きな物語の消滅)と言っておきながら、なぜ「世界のフラット化」といった矛盾した世界が実現してしまう、と言っているのか。ある意味、これが「ポストモダン」の特徴なのである。
ポストモダンは、「大きな物語」、つまり、「イデオロギー」を否定したことによって、なにか積極的なことが言えなくなった。もっと言えば、この世界のあらゆる「イデオロギー」つまり積極的な言説を見かけるたびに、それを「大きな物語」だと言って、否定して走らないといけない人になってしまった。
しかし、ポストモダンは、ヘーゲルがそうであるように、なんらかの「認識」であり「変化」を否定しているわけではない(つまり、そういった「積極的」なことが言えない)。つまり、

  • 勝手に変わる

としか言えない。こういったものは「誰か」、「大きな物語」によって、導かれて、啓蒙的に主体的に変革されない。多くの人たちの「確率的」な行動の集積によって、統計的に、ある「傾向」が、自然に生まれ、実現されていく。この場合、「誰かの意志」と言うことが難しい。しいて言えば、

  • そういう「環境」になっている

とでも言うしかない。では、こういった環境がどのようにできるのか。それが、まさに「工学」的なアーキテクチャとして、各現場現場で、なんだかわからない奇妙な「キメラ」のような、「モノ」が、この今の一瞬にも、次々と作られていて、それらの「集積」として、社会は「その意図がなんであれ」、そこから生まれた環境的な性向が、嫌でも、人々を一定の方向に向かわせている、と考える。
しかし、多くの場合、「運命論」は、一種の「保守主義」であり「右翼」思想であろう。実際に、世界的に「ポスト・モダニスト」を自称している哲学者は、すべからく、保守的なマインドをまとっていると言わざるをえないであろう。
問題は、ポスト・モダニストが「大きな物語」を懐疑したのではなく、

  • 恣意的に懐疑した

ところにあるわけである。つまり、ポスト・モダニストの決定的な欠点は、認知的不協和のことを考えていなかったところにある、と言えるのではないか。だれも「すべて」を疑えない。これは、一種のカント的「理性の限界」である。ポスト・モダニストが中途半端な「保守主義的な凡人」になるのは、そういった理由がある。
たとえば、リベラル派は、いわゆる、欧米における、フランス革命から始まった「人権思想」は、欧米以外の世界に並ぶもののいない、普遍的な価値がある、と考えがちだ。しかし、男女平等という、あまりにも基本的な「権利」でさえ、戦後の近年になってやっと実現されたにすぎない。しかし、だからといって、そう簡単にこういった「普遍的な価値」までもを疑うことを、ポスト・モダニストであっても行えるものだろうか。
つまり、どういうことか。
こういった問題はすでに、柄谷行人が『批評とポストモダン』において、つまり、ポストモダンが日本で注目される、その最初において、すでに、「ポストモダン」に批判的であったことを、多くの人が忘れているが、この事実に尽きているように、私には思われる。つまり、このことはカントで言えば「理念」の問題になるのであろうが、つまりは「イデオロギー」の「工学的=理念的」な効用の、再評価という、しごく「当たり前」の結論に戻った、というわけである。
そういう意味では、今ごろになっても、まだ「ポストモダン」とか言っている奴は、柄谷さんに言わせれば、あまりに「遅れている」というわけであろうw

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))