坂井豊貴『多数決を疑う』

民主主義について考えることが、一体なにを意味しているのか、が問われている。それは、例えば、社会学者のルーマンの言う「社会の複雑性」の増大に比例して、

  • 縮減

という「言葉」が、そもそも何を意味していたのか。いや、そもそもこの言葉の「正当性」をどのように考えたらいいのかが、多くの場合において、理解されない。というか、こういった「言葉」の魔術によって、なにかを言ったつもりになっていることの倫理性が、本当は問われていたはずなのである。
民主主義は「正しくない」と言う場合、それを言っている人が何を考えているのかといえば、この「社会の複雑性の増大」に伴って、大衆には、この適否を判断する「能力」が存在しない、という認識が前提となっている。つまり、ここで言おうとしているのは

  • 専門家

しか、判断できない、と言いたいわけだ。大衆に判断させてはならない、なぜなら、大衆は「無知」であり「無能」だから。「この」問題を考えるには、それにふさわしい専門家にしか、「可能ではない」という認識が介在している。
ここから、民主主義否定論者は、「独裁」政治の可能性を考察することになる。例えば、このブログでは何度もとりあげているが、東浩紀さんの『一般意志2.0』においては、完全に

  • 選挙

を否定している。というか、それは「未来の人間社会の理想」として描かれているわけであるが、大事なポイントは、大衆が直接、国家の意志決定に介在しない、というところにポイントがある。絶対に選挙を「許さない」という形態になっている。では、この本では、どのように大衆の「意志」が、政治に反映されているかといえば、

  • 専門家が、大衆の「アンケート」を、流し読みしてくれて、それによって専門家の「無意識」に大衆のアイデアが残像として残ること

によって、反映させる、というわけである。私はこれを見て、驚くべきまでに「専門家の良心」を前提にしているんだな、といって唖然とした、というのが本音である。つまり、この本は二つの意味で驚くべき内容になっている、ことが分かる。

  • なぜか、大衆はそうやって専門家の頭の片隅に残ってくれる「程度」で満足する、と思っている、ということ。
  • なぜか、それによって専門家は大衆が満足するレベルの「大衆の意志」を汲み取る、と思っていること。

この二つの「楽観主義」は、一体、どこからやってくるのだろうか?
というか、私はこの本は、そういう観点で考えてはいけない、と思っている。この本は「民主主義否定本」なのであって、ファシズム論なんだ、と考えなければならない、と。つまり、この本は「ファシズムでいい」と言い切っているわけである。
そういう意味では、驚くべき内容である。
では、なぜ「ファシズムでいい」と言っているのか? それに対する「答え」は、この本には書いていない。ただし、「かろうじて」その関係を示唆しているものとして、

  • 専門家が大衆の「意見」を、例えば、ニコ生で流れるコメントを「見る」ことによって、専門家の「無意識」に大衆が「沈殿」する

ことによって、専門家が大衆を「体現」することを期待する
という、言ってみれば

  • 国王が大衆の意見を常におもんばかってくれるんだから

といった「期待」のようなものに、「依存」していることが分かる。しかし、たとえそれを専門家がやってくれたとして、その「効果」の疑問もさることながら、大事なポイントは、そもそも、なぜ専門家がそんなことをやってくれるのかの「動機」が分からないわけである。なにをもって、専門家にそのようなことを強いるのか。ようするに、そんな面倒なことを、専門家がやりたがるわけがない、ということに「思いつかない」という、どこか、現実政治離れした、空想物語で「ファシズム礼賛」しちゃった、困った本だ、ということになるだろうか。
その前提は、「民主主義はダメである」というところにある。そして、その理論的な後付けとして、社会学者のルーマン宮台真司さんの一連の議論を、いわば、前提にして、

  • 社会の複雑さ

から、もう民主主義は無理ポだ、ということを無上の「前提」にして、作られた砂上の楼閣だった、ということなのであろう。いつだったか、videonews.com で、東さんがゲストだったとき、宮台さんはむしろ、シェフキンなどの熟議民主主義の有効性を強調していたわけで、なんか彼自身のネタ元に反論されて、呆気にとられている印象を受けた記憶がある。宮台さんがそのとき言っていたことは、確かに、専門家の議論は詳細にわたり難しいが、一番いい例として、

  • 裁判所

における専門知が問われる場合を考えれば分かるように、それぞれの専門家が「なにが論点なのか」を、

  • 専門家が素人にも分かる程度に、論点を絞って

整理して、議論を提出させる、というところにあった。つまり、素人は「全て」を理解する必要はない。その専門家が整理してくれた論点の範囲で、自分の立場に引き寄せて考えればいいんだ、ということになる。よって、問われるのは、賛成側と反対側の専門家の

  • 論点整理能力

だということになったわけで、まあ、言われてみれば確かにそうだよな、という納得のいく説明だったわけであろう。おそらく、東さんは政治の専門家ではない。そういう意味で、政治の場で、

  • 真実

が問われている、と考えてしまったのではないか。学校の学問のように、正しい「答え」を導けるかどうかが問われている、と。もしも、正しい答えを導きだすことが、政治の場で求められていることなら、まあ、専門家にやらせればいいであろう。彼らに計算をさせればいい。それは、大学受験で、勉強のできる子どもが、高得点をとるように、専門家は

  • 高得点

をとるのであろう。しかし、政治において求められていることは、それではない。つまり、そういった「正しい」答えを導くことのできる専門家は、少なくとも何人かはいるわけであり、そういった「能力」が官僚に足りていないわけではないわけである。では、大衆は選挙において、何をしているのか?
それは、何人かの専門家の中に「利益相反」や「ポジショントーク」や、その他の、さまざまな「誤謬」に導かれて、間違った推論をしてしまっている人の議論を、なんとかして、自分たちのことを行う意志決定過程から

  • 排除

しようという過程だと考えられるであろう。不純な動機によって、行動している「専門家」を、信用できない奴として、こういった民主主義的な過程によって、除外する手段として、民主主義制度が求められている、と。
しかし、である。ここで二つの論点がある。

  • 国民の「多く」の意見によって、政治が行われるべきか(民主主義の正当性問題)?
  • どのように、国民の「多く」の意見を、「計算」すればいいのか?

一般に「民主主義の危機」と言うとき、その「腐敗」をもって、民主主義の「終わり」といったような議論が行われるわけだが、その場合、この二つは一見すると同じことを言っているように聞こえるかもしれないが、まったく違う。東さんの本は、いわば、前者を否定的に意見することによって、この「民主主義の腐敗的終焉論」を、十把一絡げに、くそみそに、なにもかもを一緒にして、否定しているような、強引な理屈に聞こえた、ということになるであろう。

ネーダーの政策はブッシュよりゴアに近く、選挙でネーダーはゴアの支持層一部奪うことになる。ゴア陣営は「ネーダーに票を入れるのは、ブッシュに票を入れるようなものだ」とキャンペーンを張るが、十分な効果は上げられない。ゴアがリードしていたとはいえ激戦の大統領選挙である。この痛手でゴアは負け、ブッシュが勝つことになった。

これと同様のことは、前回の東京都知事選挙が分かりやすいだろう。自民党が応援する舛添候補が、どちらかというと、原発推進派だったとするなら、共産党が支持する宇都宮候補と、細川候補は、お互いが明確な反原発を主張したため、票が割れた、というわけである。
このとき、共産党系の人から、細川候補を応援する側からの、細川候補と宇都宮候補による候補の一本化の努力を促す行為を、被選挙権の権利の侵害のような意味で批判されたわけである。この場合、細川陣営が言いたかったことは、非常に単純な話で、共倒れは正しいのか、という戦略的な問題だったわけであるが、この短い時間の間では、それぞれの意図を理解し合うことは難しかったようである。
しかし、である。まったく、この事態を「逆」に考えてみたらどうであろうか。つまり、こんなことが起きるのは「選挙制度の方が悪い」というふうに。

ナウルの選挙方式は次のようなものだ。いま定数2名の選挙区に5名の候補者が現れたとしよう。すると各有権者はその5名への順位を紙に書いて投票する。そして「1位に1点、2位に1/2点、3位に1/3点、4位に1/4点、5位に1/5点」の配点で、候補者ば点を獲得する。その点の和が候補者の獲得ポイントなり、上位2名が当選する。

このダウダールルールは、一般にボルダルールと呼ばれている方法の特殊な例であるが、こういった方法の利点は、上記にあるような、漁夫の利問題を、かなりの割合で回避できる、というところにある。
明らかに、多数決は漁夫の利問題を抱えている。実際に、日本中の反原発選挙は、反原発候補の乱立によって、一本化に成功している、原発推進の保守派勢力に、漁夫の利を与えてしまって、連戦連敗してきた部分がある。このことを考えてみると、むしろ

原発推進側の勢力が、あて馬として使えば、票を割らせて、原発推進候補を有利にできるわけで、実際、こういった候補は何人もいたんじゃないのか、とさえ疑いたくなるわけであろう。
そう考えたとき、このボルダルールの質のよさ、が気になってくるわけである(よく考えてみてほしい。人々が「真剣」になっているものについては、実はけっこう、このボルダルールが適用されているわけである。例えば、W杯サッカーの予選は、勝ち点制になっているが、これは一種のボルダルールだと言えるだろう)。
上記の多数決の例を考えてみたとき、非常に「恐しい」と思わないだろうか。なぜなら、たとえ、東京都の都民の半分以上が原発反対であり、宇都宮さんか細川さんのどちらかに投票したとして、原発推進の人しか舛添さんに投票しなかったとしても、舛添さんは、宇都宮さんと細川さんの、

  • どちらか多い方

より多く票を取ればいい、というのだから。このことは、さらに原発反対候補が乱立したら、さらに、舛添さんは戦いやすい、ということになってしまうであろう。そして、もしも、こんな選挙制度によって、憲法の人権規定が、ことごとく破壊されたら、どうなるか。このように、過半数なんて、なんとでも

  • でっちあげられる

というように考えている連中によって、日本の政治システムの根幹である、人権規定が破壊されたら。こんなに「怖い」ことはない、と思わないだろうか?

一つ目は、多数決より上位の審級を、防波堤として事前に立てておくことだ。例えば、多数派が少数派を抑圧する法律ができないよう、上位の憲法がそれを禁止するというのが、立憲主義のやり方である。例えば日本だと、最高裁判所は、法律や条例などが憲法に違反している場合は無効とする、違憲立法審査権を有している。この仕組みが機能するためには、憲法が単なる多数決で簡単に改正できるものであってはならない(これは第4章3節で再度扱う)。立憲主義は、民主主義の名のもとに非民主的なことがなされないよう歯止めをかけるものであり、民主制を適切に働かせる機能を持つ。
二つ目は、複数の機関での多数決にかけることだ。例えば、立法府衆議院参議院の二院に分け、両院の多数決をもとにパスしないと法律を制定できないようにする。衆参で多数派が異なる「ねじれ国会」は、この制度が機能した結果起こる現象である。
三つめは、多数決で物事を決めるハードルを過半数おり高くすることだ。一番高いハードルは100 %、満場一致である。それは極端だと思われるかもしれないが、そもそも民主主義は多数派のためのものではなく、万人のためのものだ。

大事なポイントは、それが「民意」だと、どのように判断したらいいのか、ということである。もしも、それが「民意」だと言うなら、どうして「満場一致」ではわるいのか? このことは、よくよく考えた方がいいと私は思っている。大事なことは

  • 実は「民意」ではなかったものを、あたかも「民意」であるかのように偽装して、政策を進められることで、この国を壊される

ことではないだろうか? そのように考えたとき、今回の大阪の住民投票も、賛成派は

  • たったの有効投票の「半分(に少し少ないくらい)」しかとれなかった

と考えるべきなのだ。これを「惜しかった」などと言っている人は、民主主義のなんたるかを、まったく分かっていない、と言うほかないであろう...。