ボクノサイキョウノ新3要件

日本の憲法違反ゲームが、どういった構造になっているのかを確認しよう。

日本は議会制民主主義なので、議会の過半数を与党が占めている限り、

  • どんな法律も成立する。

もちろん、違憲の法律も成立する。もちろん、違憲の法律が成立しても、自浄作用によって、すぐに駆逐されるのならいいのだが、なかなかそうなりにくい、という性質をもっている。つまり、まず、それが「違憲」であることが明確になるプロセスが非常に時間がかかることがある。一番分かりやすいプロセスは、裁判所で違憲判決がでることであるが、まず、当事者が自らに実害が発生した場合に始めて、裁判に訴えられるというのが日本式ですので、そういった条件に適合して、さらに、裁判で真を問いたい、という人が現れるまでに時間がかかるし、そもそも、裁判官は日本式では、行政側が任命するので、行政の瑕疵を裁けない(裁くような人間は、左遷される)ため、なかなか違憲という判決が出にくい、というわけである。
こういった「困難」を乗り越えて、大量の裁判官の「左遷」という結果を乗り越えて、大量の「違憲」判決を生み出したところで、はて。それで、法律改正になるのだろうか? 恐らく、行政の

  • 裁判の徹底無視

が始まるのではないだろうか。日本中の人が、その法律が「憲法違反」だと思っていても、政府が改正せず、その法律を運用し続ければ、どういうことになるだろうか? 一つの考えられるプロセスとして、

  • さまざまな法律ごとの「命題」が、そこらじゅうで「矛盾」を始める。そのため、「あらゆる」行為が「法律違反」でありかつ「法律違反でない」となり、大量の違憲裁判が日常茶飯事に行われるようになる(この状態は、原発差し止め訴訟に似ているかもしれない)。
  • 政権交替が行なわれるたびに、大量の法律が改正されては、戻されるという光景が日常茶飯事になる。

実は、さらにやっかいな状況が考えられる。
それは、ここで言う「違憲法律」に書いてある文章が、

  • だれにも理解できない

ということが往々にして起きることである。なにかが書いてあるのだが、なにを書いているのかが、さっぱり誰にも分からないのだ。
「これは、どういう意味ですか」と聞くと、返ってくる内容は「まったく、法律と同じ文章」。つまり、トートロジーである。何回聞いても、法律の「文章」を、読み直すことしかしない。

木村草太 ただ文言の意味はかなり明確だと思うんですよ。ええ、個別(的自衛権)の範囲であることは明確だと思うんです。で、その明確であることを政府の人に認識してもらう作業が今国会で必要だと思うんですよね。
まさに文言がどうでもいいというタイプの議論に見えますね。つまり、存立危機事態の文言が問題ではないと思うんです。ようするに、条文をそこそこにして自分たちのやりたいことをやろうと、条文に反してても自分たちのやりたいことをやろうという、いわば法治主義を否定する態度というのが今回の問題だと思います。
評価のポイントは安倍さんたちの答弁はずっと特徴的なのは、これはできるんですか、あれができるんですか、野党の人がどんどん質問しますけれど、それに対して、新3要件を満たせば機雷掃海もできます、新3要件を満たせば基地を攻撃できます、と言ってるんですね。つまり、新3要件を満たす場合がどんな場合かと聞いているのに満たせばできますって言っているだけなので、まったくトートロジーで、すれ違っているんですね。
木村草太氏:現在の政府答弁では安保法制に正当性は見いだせない - YouTube

憲法学者の木村草太さんの考えでは、今回のこと新3要件は、その文言の字づらを見れば、これは「集団的自衛権ではない」と言う。つまり、たんなる個別的自衛権なのだ。つまり、安倍首相とその「とりまき」たちは、公明党内閣法制局との「かけひき」の中で、「字づら」の範囲では「妥協」した、ということである。では、彼らはどこで戦っているかというと、法律の「字づら」は個別的自衛権なんだけど、

と、「違法」解釈を、無理矢理「世間」に向かって通そうとしている、というわけである。上記のプロセスを考えてほしい。違法行為は、上記のプロセスを通って行われることから分かるように、そもそも「裁かれにくい」わけである。どんなに憲法違反、法律違反を繰り返しても、それが

  • 裁かれにくい

わけである。つまり、行政が「圧倒的」な権力をもっているために、どんな行為も行政の「やったもん勝ち」のところが、どうしても生まれてしまう。どんな法律も、行政の中で「これはこういうことにします」と決めて、行動してしまえば、なかなかそれに対して、世間は文句が言えない、ということである。
なぜ、こんなことが起きるのか? それは与党が圧倒的過半数をもっているため、どんなに「意味不明」の文章も実は、法律にできるのだ! 小学生が書いた「落書き」も、法律にできる。便所の落書きも法律にできる。日本人を全員殺します、という文章も法律にできる。それは、議会制民主主義という「多数決」という制度を採用している限り、避けられない事態なのである。
上記の与党政治家たちの「ふざけた」態度は、日本中の子どもたちが見ている。政治家って、屁理屈の嘘つきなんだな、と子どもたちにばれている。こういう大人たちによって、日本は、壊されていることを子どもはよく見ているわけである。
まさに、こういったカフカ的官僚社会は、そもそも「行政組織の権力の圧倒的な強大さ」を背景にした、国民との非対称性から、

  • 国民と官僚との会話が成立しない

というところに、その本質がある。官僚側に、国民と会話を成立させなければならないという「モチベーション」がないわけである。行政側は、国民の声を聞く理由がない。なぜなら、彼らが何を言っていようが、牢屋にぶちこみ、死刑にしてしまえば

  • 静かになって、仕事がしやすい

だけだからだ。それで「平和な日常が維持される」というわけである orz。
私は「これ」こそが、現代社会の本質だと思っている。
私が、だれかに話しかけたとき、なぜ、それを聞いている人が「理解」しなければならないだろう? それを意味のある文章として相手に聞いてもらうには、相手の側にそうすることに対する「モチベーション」が必要なわけである。
これこそ、20世紀を代表する「ファシズム論」を踏襲していることが分かるのではないか。
カール・シュミットがこだわった、独裁であり、神学政治であり、機会原因論であり、ようするに、

  • 独裁者が「なんでもできる」ためには、どういった日常的な振舞いを<信者>はすればいいのか

を実践すると、こうなるわけである(カール・シュミットは実際に、ナチスヒットラーが「独裁」政治を行うための理論的基盤を考えていく過程で、こういった概念について深く考えるようになったわけである)。否定神学は、絶対に、「オタクとはなにか」といった感じの

  • 定義

をしない。なぜなら、もしも定義をしてしまうと、後から、これに適当しない場合があらわれると「つじつま」が合わなくなるからだ(神が「概念」で定義してしまうことが、神は「人間の理解を超えている」という定義に反している、というわけであるw)。だから、どんな定義も「そうではない」と否定することになる。そういう意味では、これが「科学」ではない。一種の

  • 宗教書

なのだ。「オタク」という無の中心を作ることによって、その「ルール」を、さまざまなモデルに合わせて、状況ごとに無理矢理適合させる。これは、新宗教の信者たちが、教祖の手足を縛らないために、無意識に行う行動と非常によく似ていることが分かるであろう(安倍首相とその「とりまき」が、現在において、日本会議といった、日本の宗教関係者と非常に密接な関係を成立させていることにも、こういった影響を読むことができるのかもしれない)。
そして、この議論は「セカイ系」とか「厨二病」といった、ゼロ年代的な言説とほとんど同型の状況が見てとれる。

安倍内閣以前>

  • 1. 我が国に対する武力攻撃が発生したこと
  • 2. この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
  • 3. その上で、実力行使の程度が必要限度にとどまるべき

安倍内閣の方針>

  • 1. 我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、
  • 2. これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、
  • 3. 必要最小限度の実力を行使する

日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門 (朝日新書)

どうだろうか? 「存立が脅かされ」、「根底から覆される」。もう、「厨二病」そのものであろうw なんか「おどろおどろしい」言葉を並べているだけで、実際は何も言っていない。なにも言っていないから、

  • 霊験あらたかで「ありがたい」

わけであるw まさに「ボクノサイキョウノ新3要件」というわけで、私たち日本国民は新たな新宗教「新3要件」教の信者になれ、というのが、どうやら、今回の法律の意味ということらしいw