ドミニク・ルソー「立憲主義と民主主義」

よくよく考えてみると、なぜ「憲法」がどの国家においても存在するのかは、なかなかよく分からないことのように思われる。もちろん、この場合に「法律」についてはまだいいのであろう。こういったものが必要だというのは、なんとなく分からないではない。しかし、それに対して、「憲法」の役割とはなんなのだろうか。

ある人間が、何らかの行為(命令・許可ないし授権という行動)によって、他者に何らかの行動をとらせようとする意志を表示する場合、その行為の意味は、相手がこれこれの行動をとるで「あろう」という命題では表現できず、ただこれこれの行動をとる「べきだ」という命題でのみ表現し得る。命令し授権する主体は、意志する(wollen)のに対し、命令・許可・授権の客体は、そうすべき(sollen)なのである。

純粋法学 第二版

純粋法学 第二版

これは、ケルゼンによる「法」の定義であるが、このように見ると、ケルゼンにとって、法とは、カントの義務論の延長で考えられていることがわかる。例えば、ハイデガーにとって、世界は

  • 存在

によって、分析される現象学的な現象であった。このような視点でみたとき、カントの言うような「義務」論は本質的ではない、ということになる。例えば、ある「独裁者」がいたして、この人が、なにを「意志」しているのかは、他人には分からない。それは一種の「存在」として、意志が扱われている、というのに似ている。独裁者は、この国家を表象している。つまり、この独裁者の「意志」は、この国家の「意志」だということになる。逆に言えば、ある瞬間に、この独裁者の気が変わって、別の意志を表明するようになったら、今度はこっちが、

  • 一般意志

だ、ということになる。大事なことは、存在論には「規範」や「当為」がない、ということである。
これに対して、ケルゼンの法学は「当為」の学である。
よく考えてみよう。なぜ、ケルゼンの法学はこのような形態にならなければならないのかを。

なお、マッキルウィンがプラトンについて行っている考察が興味深い。彼は、プラトンの『国家篇』は実現不可能な理想を論じ、『政治家篇』はこの同じ理想との関係において実現可能なんものを論じているとし、半ば神のような支配者が存在しなければ、法による統治(立憲制)がよいと解していたという。法は良きことをなすことも制限する。全知全能の半ば神のごとき支配者が得られれば、その「自由裁量」(法に優る統治の「術」)に委ねるのがよい(最良の政府)。これはわれわれの目からみれば、"専制政治" であるが、プラトンは、このような半ば神のごとき支配者は想像の世界以外には存在しえないと信じていたことは間違いない、とマッキルウィンはいう。
とすると、この "専制主義" は、統治形態の中で最上のものというよりは最悪のものとなる。プラトンは、こうした両極端の中間に、立憲制を位置づけた。統治が法によて制限されている限り、一人の支配者、少数の支配者か、多数の支配者かは、大きな問題ではない。一人の支配者、少数の支配者、多数の支配者の堕落した政体(僭主制、寡頭制、民主制)と比較して、欠陥はあるとしても、法に従う君主制、貴族制、民主制(いわゆる立憲民主制)が良いとされた。
法は、プラトンにとって、欠陥があるとしても、悪徳に満ち、無知な人びとの恣意に比較すれば、人間の理性に基づくより多くを実現するものであった。

立憲主義について 成立過程と現代 (放送大学叢書)

立憲主義について 成立過程と現代 (放送大学叢書)

プラトンは、人間社会は「不完全」な社会であることを所与の前提として考えた人だと言える。彼にとって、この世界は完全ではない。だとするなら、完全な理想を、この社会に適用するような慣習は

  • 最悪

であることを意味する。この社会が妥協の産物だと言うなら、この社会に適用されるべき、慣習は当然、その自らが悟った「妥協」を反映したものでなければ、「ベター」な判断であることを担保できない。この一点において、プラトンは「法(=立憲主義)」には一定の価値があると考えるようになる。
歴史上、こういった考えに、真っ向から対立した存在として、ジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」があると言えるのかもしれない。

彼は、「憲法制定権力(pouvoir constituant)の全能性から出発する。憲法は、憲法によって作られた権限(pouvois constitues)を拘束するが、それを生み出す国民を拘束することはできない、という。国民は常に憲法を変更できるだけでなく、変更するにいていかなる形式にも服さない。「国民がどのような方式にしたがって意欲しようとも、意欲しさえすれば十分である。どのような形式でも善く、国民の意思は、つねに最高の法である。...国民はあらゆる形式から独立である。国民がどのような方式にしたがって意欲しようとも、国民意思があらわれさえすれば、すべての実定法は、その淵源であり最高の主人であるところの国民の前では、存在しなくなる」。
既に示唆したように、いわば絶対君主に代わる絶対国民の登場である。ここでは、国民の意思そのものが法である。とはいえ、国民自身は憲法制定権力を直接行使することはできない。そこで、国民は必要な権力を特別代表者に委任し、彼らは国民自体の代理として憲法を定める(彼らは国民と同様に独立性をもつ)、とシィーエスは主張する。特別代表者とは憲法制定議会のことになるが、アメリカの場合のように人民の同意を得る手続きを伴わず、憲法案を作りかつ制定する存在である。
この憲法制定権力は、「旧体制(アンシャン・レジーム)」(すべての過去と訣別しようとする革命当時は、中世以来の革命前夜に至る全期間を含んで観念されていたが、今日では、一六世紀から革命前夜[一七八九年]までを指す中立的な時代区分の用語であるといわれる)を一気に解体するという根源性と意気込みを秘めているように思われる。
立憲主義について 成立過程と現代 (放送大学叢書)

ジャン・ジャック・ルソーの一般意志は、当然「意志」と呼ばれる限り「一つ」である。意志が複数に分裂しているなど、矛盾以外にないであろう。そして、その意志を代表して表象するのが、代議制においては、選挙で選ばれた代議士たちということになる。議会制民主主義において、議会の多数決は「絶対」である。つまりこれは、

  • 一般意志

なのだ。「絶対君主」ならぬ、この「絶対国民」にとって、常に、憲法は憎むべき敵対者である。なぜなら、議会の多数決で、これが「一般意志」だとして、国民に対して呈示される「国民への義務」を、その

  • 正当性

において、意義申立てをしてくるのが、こういった「憲法」の存在だからである。

これらすべての事例における構図はいつも同じである。すなわち議員に憲法の尊守を求め、場合によっては、議員の憲法違反を制裁する裁判官に対抗して、議員の方は、選挙や議会多数派や世論で応じるのである。実際、人民が望んだことを人民自身が実行するのをいかなる名目で禁止することができるだろうか。
慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA) - XooNIps

(この状況は、今の日本の国会を見ていても、まったく同様であることが分かるであろう。政治家は常に、憲法をボロクソに言い、バカにする。彼らは憲法と「戦う」ことによって、国民を守っているんだ、ということを演出しようとする。近代政治はこの繰り返しである。)
こういったフランス的な伝統において、上記の佐藤さんの本でも言及されているが、ドミニク・ルソーは「憲法」に対するネガティブな評価を真っ向から否定する。つまり、憲法には、決して無視することのできない、重要な

  • 役割

がある、というのである。

人権保障型憲法は、代表に関する統治者 / 被統治者関係のラディカルな切断を原理としている。つまり、権力分立型の憲法が代表者団と被代表者団との融合をもたらすのに対して、人権保障型の憲法は、両者の分離ないし差異を生み出す。こうした違いは、合憲性のコントロールの論理的帰結である。実際、憲法院の各判決においては、まさに次のような場面が演出される。つまり、代表者団によって採択された法律が、被代表者団の諸権利である憲法に照らして裁かれるのである。そのことは必然的に、異なる2つの空間、すなわち、潜在的に相矛盾する2つの規範意思の伝達者である代表者と被代表者の空間を理解することを意味する。具体的に言うと、次第に憲法は、法律を検閲することにより、代表者に対する被代表者の自律が象徴的かつ実際上保障される空間を定めるものとなっている。しかも、こうした空間は、人間の尊厳の原則、適切な居住の権利、婚姻の自由、通常の家族生活を営む権利などの新たな憲法上の権利を憲法院が「発見する」にしたがって、拡大・強化されている。
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したがって、法によって捕捉される諸個人のあらゆる活動は憲法に結びつけることができるため、憲法はもはや国家の憲法ではなく、社会の憲法となっている。これは、法的言語に翻訳すれば、民法、労働法、社会法、商法、行政法、刑法等の「憲法化」という表現、すなわち、政治の法だけでなくあらゆうる分野の法が憲法の中に自身の原理を見出すことができるとする理念によって言い表されるものである。
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諸個人が流動的であったとしても、憲法は諸個人のすべての活動を有機的に連結しうる定点となることによって、個人が漂流するのを防ぐ文書となる。そこでは、諸個人のすべての活動が、熟慮、議論、批判、判断の対象となりうる。なぜなら、憲法が各自に投げ返す像には、客観性よりもむしろ希望や約束が与えられるからである。つまり、男女平等、個人の自由、友愛は、排除や不平等や不正や支配によって毎日のように否定される法的主題のリストの中でも、人々が最も願い、望み、夢見るものである。そして、平等や自由や連帯という憲法の約束と世界の窮乏との間のこのような差異からこそ、まさに、この現実への批判やそれを変えるための政治行動の可能性が生まれるのである。それゆえに、憲法アイデンティティは、各人に対する「来るべき未来」、あるいは、民主主義的要請の展望であり続けるのである。
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多くの国家論が根本的に間違っているのは、上記のプラトンの誤謬にとらわれていることにあることが分かる。つまり、人類社会が「神が国家の主権者になる」といったような「理想」を実現しようとすることで、

  • 最悪

の政治形態を選んでしまっている、ということである。このことは、カントの言う理性の限界を画定する作業に似ているかもしれない。ジャン・ジャック・ルソーにしろ、そのルソーの影響を受けたシィーエスにしても、その後の多くの政治家にしろ、上記の文脈で言うなら

  • 統治者と被統治者の<非分断>性

という「ありえない」蜜月関係を仮構してしまう。そして、それが実現されていない今のリアルを非統治者側の「怠慢」に見出すことで「不満」をつのらせ、そこに

  • 政策決定の迅速化

という<要請>を挿入することで、「ファシズム」の不可避性を主張するようになる(エリート主義)。
しかし、上記にあるプラトンのリアリズムを考えるなら、そもそも、代表者と被代表者を別のカテゴリーで考えようとしないことに無理があるわけであろう。この二つの分断の「不可避」性についての認識を深めるにつれ、なぜ憲法が重要であったのか、の理由が分かってくる。
代表者は「利益相反」的に<無意識>に、自分たちにとって有利になる「欲望」を実現しようとしてくる。これは、彼らの「本能」なのだから避けることはできない(もちろん、彼ら自身はそれを「国のため」とか「みんなのため」とか、いろいろな理屈をつけてくるが、大事なことは、そういった一つ一つに区別をつけることに意味はない、ということである。代表者たちは、多くのことを実際にやるのであって、その中には、彼らに有利なものもなるし、不利なものも含まれている、という当たり前のことを意味しているにすぎなイ)。
この関係において、代表者側は被代表者側に比べて、圧倒的な権力をもっている。いわば、彼らは「権力者」である。このように考えたとき、憲法は言うまでもなく、被代表者側のものであることが分かるであろう。憲法は、こういた

であることが分かるであろう。なぜ、憲法改正手続きが、一般の法改正とは比べものにならないくらいに困難なのは、そこまでしなければ「民意」とは言えないから、であるわけである。
ケルゼンの言う純粋法学は、こういった憲法を中心とした法体系の「全体」としての「統一」性を非常に重要視する。つまり、この全体において、隅々まではりめぐらされている「整合性」が、崩れないことが、つまりは

  • 一切の法律の「憲法」化

を意味することになり、上記の「代表者」たちを憲法によって、被代表者たちは「コントロール」していることを意味する。このことは、憲法に唱われている、「自由」や「平等」といった、今だ夢みられ、希望とされている

  • 理念

が少しずつ漸進し、きっといつかの未来においては、その理想が実現してくれると、一人一人の被代表者に希望を抱かせる、といった「積極的」な役割をもっている、と考えることもできる、というわけである...。