アメリカ本社日本支部のサラリーマン政権

日本がアメリカの属国であるという場合に、問題はそれがどういう意味なのかにある。例えば今回の、安保法制にしても、集団的自衛権と言っているように、これは間違いなく、アメリカの戦争に対して、日本が

  • 協力

するための法律であるのと同時に、日本が「侵略戦争」を集団的自衛権という名目で行うことを正当化させるものであることを示している。安倍さんの考える「抱き付き」戦法においては、それは「双務的」であることが目標であると言っているわけであるから、アメリカが9・11以降、中東に侵略を行ったことが

という名目で行われたわけで、つまりは、今度アメリカが9・11のときと同じように、中東に侵略をするなら、日本はそのアメリカと「双務的」だと言えるまでに、お互いの国力に応じた

  • 応分の負担

を自ら担いたい、と言っている、これが安倍さんの言う「双務的」ということになるであろう。つまり、安倍さんは

  • こういう国になりたい

と言っているのだから、今の憲法にどう書いてあろうが、そうするわけである。まさに、憲法なにするものぞ、というわけで。たとえば、日本がアメリカの国力の半分だとするならば、アメリカ人が中東の人を100人殺したら、日本は中東の人を50人殺さなければ「気がすまない」し、アメリカ人がISに100人殺されたら、日本人がISに50人殺されなければ「気がすまない」と。
大事なポイントは、これが安倍さんなりの「抱き付き」戦略だということであって、もの言う日本人になるためには、ここまでしなければならない、と考えているわけである。つまり、「やる」んだから、アメリカは中国の埋め立てに抗議のアナウンスメントをしてくれ、と、こうなるわけであるし、もしも中国が日本に攻めてきたなら、アメリカは日本と一緒に中国と戦うんでしょ、とアメリカに絶えずプレッシャーをかけ続ける「戦略」を示しているわけである(アメリカは今以上に、さまざまな機会において、そういう場合に、日本と一緒に中国と戦うということを実際に行うかはともかく、約束を「させられる」というわけである)。
しかし、言うまでもなく、話はここで終わるわけもなく、安倍さんの言う「双務」性とは、果てしないわけであって、ひとたび、集団的自衛権という「侵略戦争」をするためのメソッドが認められたのなら、日本は

  • 機会

があれば、侵略戦争を「する」ということを意味するわけである。それは、アメリカが実際に9・11において行ったように、戦争は常に、「集団的自衛権」という名目で、行われるのだから、アメリカが「それ」を行っているのだから

  • なぜ日本がそれを行ってはいけないのか

ということになり(双務性)、当然、日本も機会があれば「侵略をしてもいい」と考える、というわけである。
これは、たんなる論理的な必然の推論にすぎない。
アメリカが中東の石油利権のうまい汁をすいたいから、中東を侵略し、それに日本が「双務」性を理由に、彼らと「同等」の人殺しと人殺されの因果を背負わされるというなら、今度は日本が、世界のどこかを「侵略」することは

の名目として「許されなければならない」し、そのときになったら、アメリカは今度は日本にとって、そうであったように「同等」の人殺しと人殺されの因果を背負うことになるんだ、と言っているわけである。
しかし、安倍さんにとって、実際にそのときになって、アメリカがそうしてくれるかどうかには興味がない。彼が興味があるのは、日本が「侵略戦争ができる国になる」ことであって、それはつまりは、戦前の日本と同じになることだ、というわけである。
どういう形であれ、安倍さんにとっては、日本は核兵器をもてる国になるべきだし、国連の常任理事国になるべきだし、アメリカと同じく世界の警察として、日本の自衛隊を世界中に派遣したいし、つまり、なにかに自分たちの行動を縛られるのは嫌だ、と言いたいわけであろう。
それは「やりたいからやる」のであって、そのことが良いのか悪いのかなど、どうにでも理屈は後でつけられる、と考えている。そのことは実際に、明治以降の日本が世界中を「侵略」したことを、

  • なんとでも理屈ならつけられる

と考えているのと同じなわけで、そういう意味では、彼は今でも、吉田松蔭の教えを守り、東アジアの周辺国への「侵略」を

  • しなければならない

と思っているわけだろうが、しかし、この場合にそれは、たんなる「侵略」という形態だけではなく、例えば、中国の東南アジアへの内政干渉に一緒になって「戦いたい」というような態度と、そう簡単に区別がつけられるものではない。いわば、

  • ある種の正義

がそこにないとは言えない。しかし、だからといってその正義が常に「純粋」かというのも、それは違う(それは戦前の日本の植民地主義がそうであるのと同じわけで)。基本はそこに、日本の「国益」があるわけで、つまり、彼ら日本の今の経済力を使って

  • 世界の国々に大きな影響力をもちたい

ということなわけであろう。
しかし、ここで大事なポイントは、安倍さんはたんに日本がそういう国になる、と言っているわけではなくて、

  • アメリカに「それだけ」の協力をするから、アメリカは「日本」への恩義を裏切ることができなくなり、結果として、アメリカは日本の<暴走>を止められなくさせる

という、何度も言っている「抱き付き」戦法を目指している、というわけである。
安倍さんの「ターゲット」はアメリカである。世界一の戦力をもつ、アメリカに安倍さんは今は、さまざまな「恩」を売って、アメリカが日本を無体に扱えないな、と思わせるところまで、アメリカを「手籠」にして、

  • そこまでしてしまえば、こっちのもん

と、安倍さんは日本の「やりたい」外交をやろう、というわけである。
ということは、どういうことか?
安倍さんがまずやることは、日本をアメリカに「売る」ことである。日本をアメリカにくれてやればくれてやるほど、アメリカは日本に「恩義」を感じることになって、日本の暴走を止めさせることができなくなる。つまり、これをどこまで「徹底」してやるのか、が安倍さんの「腹の座り方」が問われていることになる。たとえば、日本人に対して行なう、消費税5%の値上げがあったとして、そのうちの、3%をアメリカに譲渡すれば、言うまでもなく、アメリカは

  • 喜ぶ

わけであろう。安倍さんの「抱き付き」戦法が成功するためには、どこまで日本をアメリカにくれてやるのかの「覚悟」が問われているわけである。
こういった一連の「売国奴」政権の政策の一環において、近年の自民党政権が行っている一連の「ファシズム法」の成立があることを考える必要がある。
売国奴」政権はそもそも、日本人のために法律を作っていない。彼らが褒められたいと思っているのはアメリカなのだから、日本人に怒られるとか、恨まれるとか、どうでもいいことなのだ。
安倍さんが作りたい政治は、次のような構造になっている。

  • アメリカの日本への依頼:日本の政府による日本への命令 --> 日本の統治

この構造はつまりは、日本政府は実質的に、アメリカの「命令」を行うだけの「サラリーマン」国家になる、と言っているのと変わらないわけである。日本はそもそもアメリカなしでは国家を存続できない。だとするなら、日本のさまざまな

  • 決定

は実際は、アメリカが行っていて、日本の政府は基本的にアメリカ政府がお願いしてきたことを日本人に向けて行う「アメリカ本社日本支部」のような関係になっている、というわけである。その場合、日本の

  • 法律

がどういうものになっていなければならないか、を考えてみよう。どんな無体なアメリカからの「お願い」に対しても、日本政府は応答できなければならない。そこから、必然的に、日本の法律には

  • 具体的なことを書いてはならない

ということになる。これは、日本人の「ため」の日本の法律なのに、どういった場合にこの法律が自分たち日本人に適用されるべきなのかを日本人は、自分たちの法律に書き込めない。つまり、書き込んでしまった途端に、アメリカが「やって」と依頼してきたことを行えるのか行えないのかの判断を、この法律に基いて行わなければならなくなるからだ。
このことは、つまりは今週の videonews.com で宮台さんが言っているように、日本の法律には今後「最小化条項」を絶対に書き込めない、ということと変わらなくなる。
つまり、日本人には一切の法律において、

  • 何が罪になるのか

がさっぱり分からなくなるのだ。破防法しかり、特定秘密保護法しかり、東京都未成年者保護条例しかり、今回の、安保改正しかり。一切の「罪」は、内閣が

  • 総合的

に判断して「あなたは罪人ね」「あなたは無罪ね」と言うしかない。そして、その根拠をだれも言うことができなくなる。
こういった法律制定方法は、戦前を非常に思わせるところがある。戦前においては、基本的に、日本は天皇独裁であり、主権者は唯一、天皇だけであった。だとするなら、あらゆる善悪、真偽を判断できるのは、そもそも、天皇だけであったのだ。天皇が白と言えば白だし、黒と言えば黒だった。むしろ、そのことを天皇が出来なくすることが、

なのであって、戦争をする、人を殺す、こういった「一切」は主権者である天皇が日本人に「命令」をしたから、そうした、という構造になっていた。この場合、戦前の天皇の位置に、今のアメリカが首をすげかえたにすぎないとも言えるわけである。
日本の伝統的な官僚の支配術は、基本的にこの構造を利用する形になっている。天皇が言っているから、アメリカが言っているから、という体裁をとることによって、官僚は国民から、

  • 全権委任

を獲得する。一度そうなってしまえば、あとは官僚のやりたい放題である。どんな命令も国民は逆らうことができない。官僚は、一見、天皇アメリカの命令に従っているように見えながら、満州における関東軍がそうであったように、不規則的に彼らは「暴走」する。それは、彼らが天皇アメリカの命令に従うのが、一種の

  • 贈与関係

に根差していると思っているからであって、彼らにしてみれば、「自分はこうやっていつも言うことを聞いてやっているんだから、今回は好きにさせてもらう」といった形によって、そういった暴走には、「正当性」が与えられていると思うから、というわけである。
日本の政府は、国民の財産をアメリカに「贈与」することによって、たしかに、日本国民から恨まれるわけであるが、アメリカからは感謝される、と思っている。これが彼らの、日本国民「操作」法だ、というわけである。
つまりは、日本の政府は、こういった形において、かなり日本国民とは

  • 分離

した主権意識や主体意識をもっているということになる。彼らは半分「アメリカ人」だと自分を思っている。日本をアメリカに売れば売るほと、彼らは「出世」できるのだから、なぜ日本人の言うことを聞かなけば分からないわけである。日本人に逆らって、アメリカ人の言うことに従えば従うほど、彼らは出世するし、お金持ちになれるし、いい暮らしができる。日本がアメリカの属国というのはそういう意味で、それは、日本国民がアメリカのために生きているというとを意味しているのではなく、

  • 日本政府という「アメリカの会社」

の社員である、日本の政府の政治家や国家官僚は、自分たちの業績評価や部長、課長への出世の「権限」をもっているのが

なんだから、日本国民がたとえ重税に苦しもうと関係なく、アメリカ本社に気に入られるためだったら、国民の苦しむことをなんだってやる、という構造になっていると。
少し関係ない話をさせてもらうと、少し前に、テレビアニメで「TARI TARI」というのがあって、その後半で主人公の坂井和奏(さかいわかな)が通う私立の高校が廃校になる、という展開になるのだが、その一つのシーンで、その学校の所有者である理事長が、校長に

  • 君の役割は、教職員や保護者が反発やトラブルにならないように説得することだ

と言う場面があるわけである。
そこで私は思ったわけである。校長は、この私立の学校においては、この学校の所有者である理事長に対して

  • サラリーマン

なんだ、と描かれていると。つまり、校長は自分の「月々のサラリー」を払ってくれる理事長の「命令」に従って行動しているにすぎず、理事長に対しては

なんだと。日本の政治家も、日本の官僚も、そうなのである。日本で出世をしたかったら、アメリカの言う通りにやらなければ、いつか、パージされる。だから、徹底して自ら進んで、アメリカの言うことに従おうとするし、そうやって、アメリカに恩を売った政治家が日本では偉そうに振る舞うようになる。
この構造は、どこか「新宗教」に似ていなくもない。信者たちは教祖に気に入られたい。そこで、すべての信者は教祖に気に入られるための「競争」を始める。その場合の一番の条件は、

  • 絶対に教祖の言うことに逆らわない

ということである。絶対に、教祖の手足を縛らない、将来、教祖の手足を縛ることになるような条件を、法律に書かない。そのため、一切の法律は「全権委任法」にならざるえをえなくなるわけである。
つまり、政治家は「奴隷」になり「ロボット」になる。一切の司令塔である、天皇アメリカが日本の政治家を手元の操縦桿で操作しているにすぎず、しかし、そうすることによって、天皇アメリカに

  • 気に入られる

から、パージされることなく、いつまでも「手元」に置かれて、いずれ出世することになる。まさに「サラリーマン根性」というわけである。
しかし、上記のアニメを見ていて思ったわけである。私立の高校の校舎を、二学期の途中には、壊し始めて、生徒はプレハブ小屋で卒業まで過ごすことになる。この私立を「所有」している理事長にとってみれば、「自分のもの」なのだから、どのようにも扱っていい。経営判断で、少しでも早く校舎を壊して、マンションやショッピングモールを作れば儲かるのだから、それを妨げる一切の

  • 抵抗

は、ビジネスの「敵」であり「悪」だということになる。そこから、今年の文化祭の「中止」が、まるで「当然」であるかのように作品は描かれる。
しかし、そうだろうか?
そもそも、この高校への入学を決めた生徒や保護者は、当然、この三年間をこの校舎で「学べる」と思ったから、入学してきたわけであろう。その中には、当然、文化祭を三年間、行うことができる「から」、大切な学生生活の思い出を作れると考えたから、この学校への入学を決めたのであろう。だとするなら、経営判断と称して、勝手に学校を取り壊すとか、文化祭を中止するとか、許されるのだろうか?
そもそも、高校の設置を「許可」する条件に、こういった当然生徒たちが入学する前に想定する「サービス」を提供しなければならないという「条件」がないと思う方がおかしいのではないだろうか。つまり、それができないのなら、生徒たち全員が卒業するまでは、学校は取り壊してはならないし、その「サービス」を提供する「義務」が学校経営側にはあるんじゃないだろうか。
儲からなくなったから、嫌になったから、今の生徒たちが嫌いだからと、学校を取り壊したり、文化祭を中止にさせたりといったことを、もしも学校が可能だということが分かっていたなら、生徒たちはこの学校に入学しなかったのではないか。少なくとも、そういった条件を守ってくれる学校を探して、そちらに行きたいと思ったのではないか。
これが「ルール」である。
今の憲法集団的自衛権を禁止していることは「国民との約束」である。それは歴代の政治家が言ってきたことであるだけでなく、今の政権を構成する政治家自身がそう言ってきたことであるわけで、つまりは彼らは「嘘をついて」今の権力を握った途端、掌を返してきた、という国民を裏切ったことになる。それでも自分たちはやりたいと言うなら、衆参同時解散で国民の真を問うしかないであろうし、筋を通すなら、憲法改正を目指して、集団的自衛権が許される憲法に変えるしかない。つまり、約束を守れないなら、腹を切るしかないわけある。
国民は、別に今の政権の政治家に、どうしても政治をしてもらいたいわけではないわけである。だれでもいいわけである。約束を守ってもらえるなら。そんな最低限の筋も通せない人たちに、いつまでも日本の中枢にい座られることは迷惑なのである。頼むから、さっさと止めてもらえないだろうか...。