別れと再会の倫理

アニメ「終わりのセラフ」において、主人公の優ちゃんと幼少時代を同じ孤児院で過ごしたミカは、他の孤児院の子どもたちと一緒に同じ「家族」として過していたが、ある日、そんな生活を終わりにするために、吸血鬼たちの世界から逃げ出し、外の人間の世界へ脱走を試みる。それは、失敗に終わり、他の同じ孤児院の子どもたちが吸血鬼に殺されて死んでいく中、優ちゃんはミカの

  • 自己犠牲

によって、一人、この脱出に成功する。優ちゃんはその後、日本軍の軍人たちに育てられるわけであるが、始めての軍人としての出陣の場面で、吸血鬼の仲間となっていたミカに出会う。
この場合、優ちゃんがなぜ今生きているのかが、彼の実存に関係している。彼が今生き延びているのは、ミカが自らを犠牲にして、彼の脱出の手助けをしたからである。このことを逆に言えば、優ちゃんは「ミカの死」によって、自分は生き延びたと受け取った、というわけである。この場合、彼の命はミカの命の「犠牲」の上に「生かされている」ということになる。彼はその事実を

  • 自分にはそんな価値があるのか

と問うことになる。彼はその後、吸血鬼たちへの「復讐」だけを生きる目的として、日々を過ごすようになる。
ここで重要なポイントは、優ちゃんのミカへの「債務感情」だということになるであろう。彼はミカに返そうとしても返せないくらいの大きな負債の感情をもつようになる、ということである。
これと同様の構造が、アニメ「グリザイアの楽園」の天音(あまね)と一姫(かずき)にある。修学旅行の途中に、バスが崖下に落ち、彼女たちは、飲まず食わずの日々を崖下で過ごすことになる。食料がなくなり、女子高生たちが次々と餓死し、お互いの肉を食料として食べ始めて、それでも、天音(あまね)は一姫(かずき)の助けによって、なんとか命を繋いでいたが、最後、一姫の

  • 自己犠牲

によって天音は一人、この地獄から生還する。そんな天音が、長い時が流れ、今、もう一度、タナトスと呼ばれるコンピュータの体をもつことになった一姫と再会することは、天音の実存に関わるような倫理的な意味があった、というわけである。
天音は一姫の命を捨てる行動によって助けられたことを、どうしても受け入れられなかった。それは多くの人にとって、自分が誰かの命と引き換えに生き延びる価値があるように思えないからである。なぜ、相手は命を投げ捨ててまで、自分を助けてくれたのか。そういう意味で、天音の生は「ニヒリズム」となる。本来なら、自分が死んで、一姫が生き延びるべきだったんじゃないのか。もしも自分が生き延びるのだとするなら、自分の生は

  • 一姫がやるべきだった

ことをやるために生きなければならないんじゃないのだろうか。
優ちゃんも天音も、ミカや一姫がもう絶対に死んだと考えていた。どう考えても、あの状況で生き延びられるわけがないのだから。それを自明の前提にしていた彼らの前に、もう一度、ミカや一姫はあらわれる。私がここでこだわっているのは、そのとき、優ちゃんと天音は、ミカや一姫に、なにを与えたい、と思うのか、という

  • 倫理的

な問いなわけである。
例えば、アニメ「ラブライブ」の映画版を見ていて、このアニメのどこか「ドライ」な、もっと言えば、アメリカのハイスクールのドラマのような、子どもたちの人間関係に、ちょっと意外な印象を受けたわけである。
彼女たちは、スクールアイドルとして、学校の存続を目的として行ってきたアイドル活動が、いつのまにか、全国的な人気を博してしまい、多くの続けてほしいという声を全国の多くの人たちから望まれる存在になっていたことに気づく。
しかし、彼らはこの3年生たちの卒業を区切りに、アイドル活動を止めることを決意する。
そもそも、このアニメは、一人一人の女の子たちが、「なぜ自分がアイドルをやるのか」を問うことから始まっていた。なぜ自分はアイドルをやるのか。それは決して自明なことではない。このアイドル活動に、なぜ自分はコミットメントするのか。それに「答える」ことなしに、この活動は始まらなかったし、行われることはなかった。
それは、例えば、中国の三国志において、劉備玄徳の下に、関羽張飛諸葛孔明が集まったことの「意味」が問われることと似ているわけである。
このような比較として、アニメ「けいおん」における軽音部の部員たちの、どこまでも「ウェット」な関係を考えることができるかもしれない。「けいおん」の子どもたちは、全員、そもそも軽音部に入ることに、なんらかの「手続き」的な、問題意識を読み取れない。彼らはなんとなく「行きがかり上」、軽音部に入ることになり、毎日を「まったり」部室で過ごすことになるし、そして、なにかを「目的」に部室に集まっているわけでもない。それは、いわば

  • 日本的な空間

だと言えるかもしれない。事実彼らは、この「関係」に対して、ほとんど「自覚」することもなく日々を過ごし、そして、なんと進学する大学まで「同じ」にしてしまう、最終回となるわけである(というか、そもそも、彼ら自身のその関係を「振り返った」ことがないのだから、そもそも、彼らは「離れて」存在する状況を想定すらできないわけであるw)。
私は別にここで、「けいおん」の批判がしたかったわけではない。そうではなく、上記にある「ラブライブ」のスクールアイドルたちが、自らでアイドルを卒業することを「選び」、「終わりのセラフ」の優ちゃんがミカとの別れと再会を果たし、「グリザイアの楽園」の天音が一姫との別れと再会を果たすことのこの、コミットメントとデタッチメントの

  • 倫理

について考えてみたかっただけなのである...。