井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』

そもそもの話、国家の本質とはなんなのだろう、といったようなことを考えることがある。

佐々木毅]先生が言うには、政治学の基本概念はすべて古典・古代のギリシャ、ローマにある、と。ただ、二つだけが近代に出てきた。それが主権と人権だだから主権と人権は、近代になってカップリングして生まれたんです。

だから、主権国家を何のためにつくったかというと、個人の基本的な人権を擁護するためには中間的な社会的諸権力よりも強力な権力が必要だからだ、と。これはホッブズだけじゃなくて、近代社会契約説のロジックは、みなそうなっているんですよ。だから主権国家の存在理由は、実は人権の実効的保障、それ以外にないんだ、と。そうでなければ、こんなあぶなっかしいものをつくれない。
となると、主権と人権が対立するというよりは、人権が主権の正統化根拠だから、人権による主権の制約というのは、外在的な制約じゃなくて、主権そのものに内在する制約だ、と。この発想が非常に重要なんです。

社会契約論において、国家を「主権」として考えることが一般になる。そうだから、「一般意志」のような考えがでてくる。その場合、この国家はひとまず、この「社会契約」を結んだ一人一人の国民という根拠しかない。国家は、この「自然状態」における暴力への「恐怖」を、その「動機」として集まった国民にしか、その成立根拠をもたない。
このことは、例えば、なぜ日本の憲法には、日本列島に続いてきた大和民族の歴史や「文化」に言及がないのかを理由づける。例えば、近年ではアメリカの選挙権をもつ国民のかなりの割合が、スパニッシュになっているという。それは日本のおいても同じで、日本国民の大半がもし、韓国人や中国人になった場合を想定したとき、たとえそれでも、この国家の

が続くような形式を維持しない限り、この国家の継続性において「弱点」になる、と考えられるであろう。
このように考えていくと、そもそも国家とはなんであるか、というより、「なんでなければならないのか」といった問いを含んでいることが分かってくる。
例えば、最近なにかと話題の「集団的自衛権」であるが、よく考えてみると、「集団」でありながら、「自衛」とは何を言っているのかよく分からない印象がある。というのは、そもそも、この概念は国連憲章に、歴史的経緯から導入された概念で、それ以前には存在しなかった、といういわく付きの概念だった、というわけである。
そもそも、戦後作られた国連は、侵略戦争を「禁止」している。つまり、戦後、宣戦布告を伴う戦争は一切起きていない。その代わりに行われてる戦争は、基本的には形式的に「集団的自衛権」の名目で行われている(アメリカによる、イラク戦争もそう)。しかし、言うまでもないが、そもそも集団的自衛権という概念が国連憲章に書かれるようになったのは、中南米の小国同士が、地域防衛構想を考えたから、ということなのであって、アメリカが、はるか遠くの中東に侵略をしに行くときに使うような概念ではない。それだけではなく、最近の傾向としては、集団自衛の「相手国」から、要請があった場合のみ、という制限も一般的になってきている、ということらしい。
たとえば、この前の伊勢崎さんの本に書いてあったが、湾岸戦争のとき、ショーザフラッグという言葉が日本中で人口に膾炙したが、この意味は、「旗色を鮮明にしろ(=立場をはっきりしろ)という意味であって、「日本国旗を見せろ」という意味ではなかった、という(つまり、だれかが誤訳していた、というわけである)。クエートが感謝広告を出した中に日本がなかった問題で、実際に日本の130億円のお金のうち、その支援のほとんどがアメリカに渡っていて、たったの3億円しかクエートには渡っていなかったから(クエートは石油がとれるお金持ちの国ですから)、という話らしい。「湾岸戦争のトラウマ」とか「金だけでなく人もだせ」とかいうのは、世界中だれも言っていない。日本の自衛隊をより拡大していきたい、という日本国内にさまざまな「動機」をもった人たちが、それを「これ幸い」と利用した、というのが真相のようだ、というわけであろう。
アメリカが今、日本に集団的自衛権を求めてきているのは、アメリカがイラク戦争のときのように、集団的自衛権の名目で、世界侵略を始めるときに、有志連合の中に、一国でも多くいてほしい、というくらいで、実際に日本に人を出してほしいと思っているのかは、かなり怪しいと考えるべきであろう。というのも、これも伊勢崎さんが言っているが、そもそも、戦争で人が必要というとき、そういった「軍人」としての需要ということでは、貧しい国の人々の方に圧倒的な需要があるわけで(実際に、多額のお金を得ることができることが、貧しい国の軍人にとっては、意味が大きいというわけで)、なんとしてでも人を出せ、という要求は意味不明なところをどうしても感じるわけである(たんに物量として人や物があればあるほどいい、というのは当たり前の話だが、じゃあ、それらの人や物を使うだけの「お金」に見合うのか、単純に物価の高い国の人件費が高いんじゃないのか、という全然別の話だ、ということである)。

もともとは、一九四六年の帝国議会憲法改正委員会で、野坂参三が、自衛のための戦力まで放棄するのはおかしいじゃないか、と言ったのに対して、吉田茂が、これは自衛のための戦力も放棄したという趣旨でございます、とはっきり答弁したわけですよね。
しかし、間もなく占領政策の右旋回を受けて、警察予備隊とか保安隊とかをつくって、最終的に自衛隊になる。それに関して吉田は、自衛隊は軍隊ではありません、と言う。これは詭弁ですよね。専守防衛の枠内ならば、自衛隊のような、あれだけの大きな武装装置が戦力ではない、と言うのは。
もう一つの日米安保にいたっては、アメリカの軍事力が戦力でないとはとても言えない。かりに自衛隊が戦力未満だとしても、世界最強のアメリカの戦力を使って自衛のための戦争をおこなうことが、交戦権に当たらないなんて、これは憲法解釈として、どうあがいても無理です。
専守防衛の範囲なら」伝々の内閣法制局見解は、すでに解釈改憲ですよ。だから、護憲派が一時期、安倍政権による解釈改憲から内閣法制局憲法を守ったなんて言ってたけど、これウソで、新しい解釈改憲から古い解釈改憲を守ったにすぎない。

私は、安全保障の問題は、通常の政策として、民主的プロセスのなかで討議されるべきだと考える。ある特定の安全保障観を憲法に固定すべきでない、と。だから「削除」と言っている。

憲法の役割というのは、政権交代が起こり得るような民主的体制、フェアな政治的競争のルールと、いくら民主政があっても自分を自分で守れないような被差別少数者の人権保障、これらを守らせるためのルールを定めることだと私は考えます。
一方、何が正しい政策か、というのは、民主的な討議の場で争われるべき問題です。自分の考える政策を、憲法にまぎれ込ませて、民主的討議で容易に変えられないようにするのは、アンフェアだ。

それは、もし戦力を保有するという決定をしたら、徴兵制でなければいけない、と。かつ、その徴兵制で良心的兵役拒否を認めなければならない、と。これを、条件づけ制約として憲法に入れるべきだ、という意見です。

ただし、良心的拒否権を行使する人には、よほど厳しい代替的役務を課さなければなりません。

少し整理していくと、掲題の著者は、九条削除論なるものを、近年、急に言い始めた。それは、もちろん一方において、近年の安倍政権の九条改憲論を意識しているのは確かなのだろうが(どこかしら御用学者的な動機もあるのかもしれない)、少なくとも言っている本人にとっては、これは「リベラリズム」の徹底の過程で、今の憲法の「ひずみ」を見出し、その解決として、なにか

  • 整合的

な考えを呈示した、という形になっているところが特徴だ、というわけである。
まず、その出発点として、上記にあるように、今の自衛隊が九条と整合性があるという「詭弁」は、「憲法解釈として、どうあがいても無理です」というところから始まっている。
この「矛盾」がなぜ発生するのかというところから考え、彼は「そもそも憲法に、国防といったような民主主義的な民意による決定がふさわしい内容を書くべきではない」という発想をもちだす。つまり、そもそも憲法とは、どういったことが書かれ、どういったことが書かれるべきでないか、という彼なりの思想から、国防の方法の記述はふさわしくない、というところに行きつく。
ところが、他方において、「徴兵制&強力な懲罰を伴う良心的兵役拒否」を憲法に書かなければならない、と言う。
この辺りから、多くの人は混乱してくるのではないか、と思われるが、ようするに、掲題の著者が何を考えているのかというと、

  • もしもリベラルな国家があるとするなら、どういった「条件」を満たしていなければならないか

という「リベラル国家のメタ的な条件」を主張している、ということなのである。彼は、どんな国家であれ、

  • リベラル国家でなければならない

というのが昔からの「世界正義」論の延長での主張なのだ(カースト制度ムスリムが自分たちの伝統からもたらせられる、独自の「非人権」的な部分を一部に包含している国家は認められない、というわけである)。つまり、結果として「メタの形式」において、どこの国家も、ある金太郎飴のような同じ形式による「リベラル国家」と呼ばれるプロトコルがあって、それと「同じ」でなければならない、という主張なのである。大事なポイントは、それによって行われる実際の政策が、それぞれの国で違っていることは一向にかまわないのだが、

  • メタの構造

が各国で違っているというのは、ありえない、というわけである。大事なことは、これは「世界正義」なのだから、それが各国で違うというのは受けいれらない、というわけである。
上記のような徴兵制についての記述が、憲法に必要だと言っているのだから、著者は基本的にリベラル国家に軍隊が必要だ、ということを前提にしている。それは彼なりに世界の国家を見たとき、どの国にも存在するのだから、必要なことは確からしい、という考えからでありまた、徴兵制であれば、「フリーライド」を良心的兵役拒否に対する厳罰化によって避けられる、という考えがある。
つまり、彼にとって大事なのはそれが「フェア」であるのか、にある。また、全員に兵役を課すことで、自分が死ぬリスクが常にあることから、戦争をあえて行うことへの「自制」をもたらす効果を狙っている、となる。
国民が徴兵され軍隊に入ることは、掲題の著者にとって「正義」を意味している、ということなのであろう。しかし、他方において良心的兵役拒否を重い懲罰を伴ってであり認めることで、なんらかのバランスをとっているつもり、ということになるであろうか。
しかし、言うまでもなく、ここで著者が展開している議論は、そもそも、今国会で行われている議論とまったく

  • 関係がない

形になっている。つまり、著者はなんらかの「説得」のつもりでこのようなことを書いたのだろうが、そういう意味ではあまり説得的に回りからは読まれない、ということになる。

では、個別的自衛権合憲説は、どのようなロジックによるのか。憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。
つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条の例外として許容される。これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。
(「なぜ、憲法学は集団的自衛権違憲説で一致するのか?木村草太・憲法学者」)
なぜ憲法学者は「集団的自衛権」違憲説で一致するか? 木村草太・憲法学者(THE PAGE) - Yahoo!ニュース

長谷部 憲法解釈が変わったことがあるというお話ですが、たしかにあります。ただ私の知る限り、真っ黒だというものを白に変えたという例は、ないと思います。靖国神社公式参拝についての解釈の変更の例(注4)がよく挙げられますが、あれは、できるのかできないのかよくわからないという問題について、ここまでならできるという形で憲法の解釈を変えたということです。今回の例と類比可能なものでは、ないだろうと考えています。
礒崎 憲法制定議会では、吉田茂総理は、自衛権は当然有するのだが、戦力を持たないので、行使できないと答弁していたのです。ところが昭和29年に自衛隊が発足する。こういうこともあったのでして、憲法制定当時からは大分話が変わってきています。
長谷部 その点も、戦争はできない、戦力は持てないというのは、今の政府でも立場は変わっていないはずだと考えています。
礒崎 それは変わっていないです。
松本 長谷部さんは昨年7月6日付の朝日新聞朝刊で、解釈改憲が「終わりのないプロジェクト」だともご指摘になっています。従来の政府の解釈を変えてもかまわないのだということが今回明らかになったことで、今度は後の、別の政府が「集団的自衛権は行使できない」とひっくり返す可能性も生まれた。その意味で「閣議決定による解釈改憲は大問題だが、これで日本が新たな局面に入ったかというと、入っていない。今回政府は極めてあやふやで不安定なものしか得ていない」と述べておられます。
長谷部 これは2通りの考え方ができるのだろうと思います。おっしゃるとおり、去年7月1日の閣議決定による解釈の変更は、あれは間違っていたのだ、そもそもこんな変更ができるはずがないのだという立場を、後の政府がとるということは考えられる。その場合には多分、元に戻すことになるだろうと思います。
しかし、去年の7月1日のような閣議決定もありで、今まではできないと繰り返し明言してきたこともできるようになると、政府による有権解釈というもの自体のステータスが根本的に不安定化したのだということになる。これからは政府が「憲法でこれができる」「これができない」と言っても、「今の政府は今のところはそう言っているね」という、ただそれだけの話になってしまう。そういうことになってしまっているのではないかと思います。
(「切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上)」)
切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上) - 礒崎陽輔 柳澤協二 長谷部恭男 小村田義之|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト

今、国会で行われている、いわゆる「憲法問題」において、自衛隊は「解釈改憲」をやったから合憲というロジックになっていない。一つの「仮説」として、「9条によって原則は戦力はもてないが、13条は例外として解釈できる」というところをポイントにしている。よって自衛隊は、一見すると普通の軍隊であるが、その自衛隊自体の法律を見ていくと、むしろ

  • 警察

に近く、その「戦力」をどう使うのかという側面において、さまざまな警察的な使い方しかできない、という制約を自衛隊員に課している作りになっている。
だから、むしろ整合性がとれなくなってきているのは、そういった自衛隊でありながら、海外にさまざまな理由で派遣されるようになった、近年の自衛隊の「使い方」が法の意図に合わなくなってきて、適合的ではない、と読み取れる。
早い話が、今の国会の議論は、今までは個別的自衛権だけが認められているという解釈だったものを、集団的自衛権の「一部」を認められるようにしようとしているのが政府側なのだが、その「一部」がなんなのかを政府が今だに言えていない。だとすると、結果として「なにもかも」の集団的自衛権を認めると言っているのと「変わらない」のだから、だとすると9条違反は明らか(なにもかもOKなら、そもそも9条は何も言っていないのと変わらなかった、ということになるのだから、なぜこの法がここにあるのかが説明できなくなる、という意味で)ということにすぎない。
それに対して、上記の長谷部さんの言っていることは非常にクリアであろう。憲法改正手続を行って、可決できれば、それが正統性になるし、できなければ、民意がそれを望まなかったのだから、今まで通りでいいし、いずれにしろ、

  • 民意

がなんなのかが重要なんだから、そういった「手続き」的な正統性によって分かりやすくすべきだ、と言っているにすぎない。むしろ、今問われているのは、安倍政権の「動機」が不純なのではないか、というところにポイントがあり、むしろ、こちらの方がずっと重要だ、というところにある。
井上さんの議論はバランスが悪い印象がどうしてもぬぐえない。そもそも、なぜ集団的自衛権などという概念が必要とされたのかといえば、国連の常任理事国による拒否権があったからであろう。井上さんはまず拒否権は廃止すべしというところから話し始めるべきだ。
なぜなら、なぜ日本の憲法に、戦力の不保持が書いてあるのかといえば、間違いなく、第二次世界大戦の敵国の扱いを世界がどうすべきなのかから歴史は始まっているのだから。ようするに、世界は日本は「危険」だ、という認識があったわけであろう。なにを考えている人たちなのか分からない。そのまま、世界秩序の中に受け入れるほど信頼するに足りない。そういった中での「手打ち」として、憲法九条が必要とされた。
つまり、井上さんの世界正義論には、国連論が足りない。つまり「歴史」論がない(だから、世界中の国家はメタ国家として「金太郎飴」のような、どこを切っても同じのフラット革命になる)。国連をどうするのかを決めない限り、そもそも、国家論など意味がないのだ。

一方、正義とは何かをまったく理解せずに、法とは何であるか理解できるという「法実証主義」も間違っている。その場合は、結局、人々の規則的な行動のパターンだとか、あるいは現実におこなわれる権力闘争とか、それを記述することで終わってしまう。

掲題の著者の論理の根底には「正義論」がある。つまり、悪法に従わなければいけない、というのは「間違っている」という信念がある。よって、著者にとって「正義とは何か」が重要だ、ということになる。
そのように考えたとき、井上さんは「徴兵制による軍隊」は正義と関係している、と解釈していることがわかる。どこかの地域で紛争が起きたとき、その紛争を鎮圧できるのは、具体的な武力である。だとするなら、どこかしらから、それを調達してこなければならない。それを拒否している日本は

  • 不正義

だと言いたいのであろう。よって、井上さんは憲法に「反して」、日本は軍隊をもつべき、という結論になる。憲法に不正義が書いてあってはならない、というわけだから。つまり、井上さんの立場は、そもそも憲法違反をしていい(正義にかなうなら)、というところにあるのであって、もっと言えば、リベラリズム憲法違反を認める、ということになる。しかし、いまさら言うまでもないことだが、こういうフレームなら、それはむしろ「戦前」と変わらない、ということを言っているにすぎなくなるわけで、戦前はなにが問題だったのか(または、問題などなかったのか)の総括から、やり直さなければならない、ということになる。
戦前はなにが間違っていたのか。または、なにも間違っていなかったと考えているのか。その「結果」として、戦後の今の日本の体制があるのだから、ここをはっきりさせることなく、リベラリズムなる「世界正義」を私たちに押し付けられても困る、といったところだろうか...。