明治憲法に比べゴミ屑同然の自民党憲法草案

明治維新によって、明治政府が始まったとき、日本には二種類の日本人がいた。今なにが起きているのかを分かっていた人と、まだ分かっていなかった人が。
こういった表現は奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、ここで私が言いたいのは、そのときでさえすでに、分かっている人には分かっていたんじゃないのか、ということなのである。
今の自民党政権は、一言で言えば、リフレ政策(金融緩和政策)で存続している、と言える。つまり、株価と新卒雇用でなんとか存命している。しかし、今週の videonews.com での村上議員の話からも分かるように、自民党小選挙区制の導入と共に、中央集権が進み、明らかに劣化している。非常に極端な、昔の「諸君」や「正論」といった雑誌が主張してきたような、右寄りの発言を日常的に行っているような人たちの集団に純化してしまった、それはさながら、

  • 宗教集団

に近い様相を示している。その自民党において、最もその「異様」な様相を示しているのが、「自民党憲法草案」なるものである。
私たちが非常に困っているのは、なぜ自民党はこんな「恥ずかしい」ものを、いつまでも、自党の「主張」であると掲げ続けているのか、ということなのである。
自民党の中の、ある一部の「憲法とはそもそもなんぞや」を分かっていない、昔から過激な発言をして、注目を集めて、そのポピュリズムで当選してきたような人たちが、キャッカウフフで書き上げた、

  • 作文

レベルのものを、いつまでも大事に自党の看板として掲げ続けていることが、一体、何を意味しているのか。つまり、なぜ彼らには「恥」という言葉が通用しないのか、なのである。

樋口陽一 明治憲法大日本帝国憲法というのはですね、本文の前に置かれている告文、憲法発布勅語については、文章のスタイルも含めて、これはまあ、ざっくり言えば、神がかり、です。皇室の祖先に憲法を作りましたよと、報告する文章ですからね。しかし、第一条以下の本文で、当時のフランス語であれ英語であれ、翻訳して、違和感のある言葉は一個もない。例えば、みなさん意外に思われるかもしれませんけれども、帝国憲法の第三条に、天皇神聖にして侵すべからず。この条文が昭和の末期に、それこそ、猛威をふるっちゃったわけですけれど、法律家の言葉としては、これは単純に、王様の民事、刑事の、免責。民事裁判所、刑事裁判所に引き出されない、という意味なのです。というのは、フランス革命、1789年、人権宣言ですね。すぐあとに、二年後に第一憲法をつくります。それは国民主権、しかし、王様は置いているんです。国民主権を前提にした、君主制です。その憲法で、王様の位置付けを神聖不可侵というふうに規定しているんです。国民主権を前提にしてそう言っているんです。この表現は、当時のベルギーからドイツの幾つかの国に引き継がれる。日本はドイツの憲法をひいていて、ことほど左様に、帝国憲法は意外に、当時の国際標準なのです。
小沢一郎×小林節×樋口陽一 憲法を語る 2015 04 20 - YouTube

よく考えてみよう。明治政府は近代国家だったのだろうか。この問いは、そもそも、

  • 明治政府にとって、どのようであれば自らを「近代国家」だと、国際社会は認めてくれるのか

と深く関係している。有名な、福澤諭吉の、一等国、二等国、三等国の分類にあるように、彼らにとっては、まずは、日本が「一等国」として扱われなければ始まらない、という強い信念があった。つまり、彼らには

  • 多くのことは、よく分かっていないが

「どうやれば一等国として扱われるのか」をやる、ことは、あらゆることの前提だったわけである。よって、とにかく、彼らにとって大事だったことは、彼らが作っている、憲法や法律が、国際社会から見て、十分に相手に「理解」されるようなものであることが、なによりも、優先された。そこから、必然的に、帝国憲法

  • 欧米憲法の「直訳」のパッチワーク

となることになる。
ではなぜ、今の自民党憲法草案は、こんなに「恥ずかしい」内容になってしまったのだろうか orz。
一つには、これを作った自民党の議員が、「憲法の素人」だった、ということに尽きるであろう。つまり、「馬鹿」だった、ということである。馬鹿なのに、憲法を自分なら作れる、と思っちゃった、というわけである。
もう少し、この事情を整理してみよう。まず、江戸から明治に移るとき、これは早い話が、江戸幕府徳川家康が天下を統一したように、長州藩が天下を統一したわけである。しかし、彼らにとっての喫緊の課題は、欧米諸国の「国際社会」に日本を受け入れてもらうことであった。そのため、憲法や法律は、徹底して、彼らの

  • スタイル

をコピペした。つまり、国会を中心とした、議会制民主主義の制度を恥ずかしくないように整備した。つまり、その「緊張」関係が当時の人たちを一定レベル以上の仕事をさせたわけである。
しかし、彼らはそこに、ある「逃げ道」を用意した。それが、「枢密院」である。これこそ、藩閥政治の最後の牙城として、当時の有識者には認識されていた。日本の政治は、実際は、「二つの意志決定機関」によって、表向きというか、どうでもいいことというかは、国会の議会で議員さんたちが決めていたが、実際の重要な意志決定は、明治天皇の回りを固めていた、枢密院の長老たち、つまり

  • 長州人脈

がほとんどの日本の全てを決定していた。この事情が変わったのが、満州事変である。この頃から、政治の

  • 最前線

が「軍隊」になった。実際、日本の軍隊のエリートこそ、藩閥政治の延長で残り続けた日本の最高の権力機関であったわけで、そういう意味では、枢密院的なものが、日本の軍事エリートの意志決定の方に

  • 吸収

されていった、というほうが正確だった、ということになるのかもしれない。
このように見たとき、日本の戦後の今の自民党的な体たらくは、明治における

の「後者」だけを、司馬遼太郎の小説あたりを読んで、それをまるで「顕教」だと思い込んじゃって、脳天を痺れさせちゃった人たちで、こういった日本の政治の「裏の部分」を、まるで、表向きの「タテマエ」の国際社会に一等国だと認めてもらうための、形式的な国家の体裁の部分と「まるで区別できなく」理解しちゃった、脳味噌の弱い困ったちゃんだった、ということになるわけであろう。
上記の樋口さんの説明にもあるように、言葉は常に「歴史的」な覆いを纏ってでしか存在しえない。「神聖にして侵すべからず」と言ったら、日本の文脈では、土下座して決して、仰ぎ見てはいけない、おそれおおい存在といったような、

  • 身分

的な違いを示唆しているように受け取ったわけであるが、むしろこの言葉は、「国際社会」の共通認識として、「裁判に訴えられない」ということと、ほぼ「同値」の意味として解釈されていた、というわけである。
なにか、この前の「ショーザフラッグ」の誤解と似ているように思われて、ちょっと怖くなるわけですけど、おそらく、こういったことは当時も今も、知っている人は知っていたはずなんですよね。それが、なぜか、専門家も大衆に説明しない、啓蒙しない。そうこうするうちに、言葉の「誤解」が独り歩きしていく。今でも、「金だけじゃなく人を出せ」とか、「湾岸戦争のトラウマ」とか、そういった

  • あるのかないのかも、さっぱり分からない

ような都市伝説のようなものによって、まるで、ハメルーンの笛吹きのように、日本は軍国主義に向かおうとしている。言葉の怖さを感じさせられるわけである...。