マックス・ウェーバー『知識社会学のカテゴリー』

私たちは、毎日、朝起きて、夜寝る。すると、ある「決まった」行動をするようになり、それに伴う、ある「決まった」結果の感覚をもつようになる。このワンセットの「同じ」さを「指示」するのが言葉、ということになる。
この場合、そのことば の「リテラル(=文字通り)」な意味が必ずしも、その言葉の「指示」するものを意味しているとは限らない。つまり、「ジャーゴン」なのだが、それは、まずは「プライベート」な使用から始まる。つまり、自分自身で、個人的にそれを使う、というところから始まる。つまり、自分でそう言っているだけ、という段階であって、まあ、日記に自分にだけ分かるように、そう記しているだけ、みたいな段階だと言える。
しかし、言葉というのはそれで終わらない。つまり、言葉は「流通」していくわけで、当たり前であるが、それを口に出した段階で、また、それを文字にした段階で、だれからそれを聞いたときや、だれからその書かれている文字を見たときには、今度はそれは

  • 相手

の文脈において、その解釈が始まる。
ある「決まった」行動が「想定」されるということは、ある種の「合理」性をそこに見出している、ということが言える。つまり、その蓋然性を想定できるとき、私たちはそこに、なんらかの「客観」性を担保し始めている、ということになる。マックス・ウェーバーはこの本の最初で、自らが行っている「知識社会学」という学問と、いわゆる「心理学」との差異に言及する。つまり、ウェーバーは明確に、「知識社会学」は「心理学」の扱う対象とは、以下の意味で違っている、と言うわけである。

ところでしかしながら、「明証性」をもって捉えられ、そうした意味で「理解しうる」(「感情移入的に追体験しうる」)究極的な「目標」は、理解心理学にとっては(たとえば「性衝動」のように)主たる考察対象になるのだが、理解社会学にとっては、あらゆる他の事実の布置連関、それも意味をもたない布置連関と全く同様に、原理的に言ってそのまま受け入れられるべき与件でしかない。そして、完全に(主観的に)目的合理的に方向づけられた行為と完全に理解不可能な心的所与の間には、実際には漸移的な移行関係で結ばれた、一般に「心理学的」に理解しうると言われているような(目的非合理的な)関連があるのであるが、それについてカズイスティクを立てることは極めて困難であるから、ここでは暗示的に立ち入ることさえできない。

ここは少し、おもしろい個所である。ウェーバーは「心理学」は、彼の考える「理解社会学」と違っている、と言っている。心理学イコール理解社会学が成立していない、と言っている。その要点は、心理学は

  • 目的非合理的

な何かを考察の対象にするわけであるが、「知識社会学」があくまで考察しているのは、その「目的合理」的な範囲での「人間の成果」のようなものの、その及んでいる広がりを研究する、というふうに言えるであろう。
上記の引用にあるように、ウェーバーは「共感」は、知識社会学的ではない、と言う。つまり、「共感」行為には、すでに、「目的非合理」性が混ざっている。そういう意味において、「論理的」ではないわけだから、ということになる。
ここで、「目的合理」性とは、ウェーバー的にどういった意味において考えられているのか、が重要になる。
たとえば、「自尊心」「誇り」「ねたみ」「やきもち」といったような心理学的要素は、非常に刹那的に私たちの内面かわ湧き上がってくる感情であるわけだが、こういったものは

  • ある時は訳もなく強くなったり、ある時は訳もなく弱くなったり

を繰り返すもので、定常的な様相を示さない。それに対して、「お金」を重要に思い集めようとする人々の慣習は、実際にそういった心理学的な感情を、

  • 超えて

一般的に常に「お金を多く持つ」ことの実際的な価値が客観的に示されうる、といったような意味において、そういった「心理学的」なもろもろと、切り離して考えることができる、といった意味で、理解社会学的に扱える、という意味にある、ということなのである。
ウェーバー知識社会学とは、この本の後半がそうであるが、基本的には、

の範囲において、その濃淡を考察していく、という整理になる。

人間の行為が当人の主観において他の人間の行動へと意味の上で関係づけられている場合、われわれはそれを「ゲマインシャフト行為(Gemeinshaftshandeln)」と呼ぶことにする。たとえば、自転車に乗った二人の人が思わず衝突してしまったような場合、われわれは、それはゲマインシャフト行為と呼ばない。しかしながら、彼らが前もって互いに衝突を避けようと試みていたり、あるいは衝突の後になってから「なぐり合い」をしたり、また「示談」を成立させようと「交渉」をしたりするような場合は、ゲマインシャフト行為と言ってよい。

われわれは、あるゲマインシャフト行為が以下のような要件を備えている場合、そしてそのときに限って、そのゲマインシャフト行為をゲゼルシャフト関係的な行為(vergesellschaftetes Handeln)(「ゲゼルシャフト行為(Gesellschaftshadeln)」)と名づけることにしよう。
その要件とは、

  • 1. そのゲマインシャフト行為が、秩序(Ordnung)にもとづいて立てられた予想に意味上準拠しつつ方向づけられており、しかも、
  • 2. その秩序の「制定(Satzung)」が、ゲゼルシャフト関係にある人々のいかなる行為が結果として予想されるかを考慮しつつ、純粋に目的合理的に行なわれ、さらに、
  • 3. かの意味上の準拠・方向づけが、行為者の主観において目的合理的に行なわれる、

ということである。----
ここで考えられているような純粋に経験的な意味における制定された秩序(gesatte Ordnung)とは----ここでは全く暫定的に規定しておくことにするが----

  • 1. ある人間による他の人間に対する一方的な要請、それも、合理的な極限事例では明示的な要請としてあるか、または、
  • 2. 人々相互の双方的な意思表示、そえも、極限事例では明示的な意思表示として成立するものであり、

そして、その内容として行為者たちが念頭においているのは、ある特定の種類の行為がなさるべきものお見込まれ、あるいは、期待されれいるのだということである。

ゲゼルシャフト関係の合理的な理念型は、われわれにとってはさしあたり、「目的結社(Zweckverein)」に他ならない。

ゲマインシャフトとは、一般に「共同体」と呼ばれているもので、ゲゼルシャフトとはゲマインシャフトに包含される概念だが、つまりは、より狭い「社会」とか「組織」とかいった、より「合理的」なものと考えられるであろう。簡単に言えば、村社会は、なんだかよくわからない間に勝手に成立していたようなもので、ゲマインシャフトであるが、企業は、より目的のはっきりしたものとして、契約などの手続的に成立した組織であり、ゲゼルシャフトということになる。
いずれにしろ、ここで「ある」と呼ばれている、なんらかの「行為」の特徴は、まずその前に「予期」といった私たちの側の合理的行為が仮定されれいるところにある。そういった「予期」があるから、それに逆らったり、従ったりといった弁証法が生まれうる。そういったものを、私たちがもつようになる契機はなんなのか。また、そういったものの正確性(=信頼性)を担保する条件はなんなのか。
あらゆる暴力紛争も、こういったゲマインシャフトからゲゼルシャフトの中での、そこから逆らう行為として生まれる。人間社会が一つの秩序だどするなら、その破壊も、新たな秩序の形成の一つの「過程」と考えることもできる。いずれにしろ、その「目的合理性」がどういった構造になっているのかに注目するのが、理解社会学だ、というわけである...。

理解社会学のカテゴリー

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