伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう』

私たち、この日本に住んでいる普通の人たちは、自らのさまざまな「紛争の解決」に暴力を使おうとは、普通は思わない。それは、つまりは、日本国家の法律がそれを禁止しているからで、暴力を使えば普通は逮捕されるからだ。
このことは、もっと別の言葉で言うなら、日本人ははるか昔から

されている、ということを意味していると言ってもいい。豊臣秀吉が刀狩りをしたときから、日本人は基本的に武器をもって暮らしていない。武士は刀をもっていたというが、武士は一種の警察のようなものであったのだから、一般の庶民と考えることはできなかったわけで。
このように言うと、「武装解除」というのは、社会の「平和」にとって重要なんだな、ということが分かってくる。
よく考えてみよう。
もし、あなたがなんらかの「正当」な手続きを経て、拳銃を机の引き出しに入れてもっていたとしよう。そうした場合、非常に重要な問題が、あなたを悩ますことになる。もしも自分のこの拳銃所持という状態が「正当」だとするなら、それは

  • 他の人たち

にも言える、ということになる。つまり、私が日常的に関係する人たちのだれかが拳銃を懐に隠し持っていても、隠し持つことを「正当」に国家から認められている人がいても「不思議ではない」ということになる。このことは大変なことである。つまり、相手が拳銃を所持することが「正当」だということは、それを撃つことが「正当」だということである。少なくとも正当化されうる場合がある、ということである。ということは、相手は、

  • なんらかの条件さえ成立すれば

自分を撃ってくる、ということを意味する。私はまだ死にたくない。だったら、

  • 相手より早く、相手を撃たなければ、自分は死ぬ

ということを意味する。つまり、日常を生きることは「不安」や「恐怖」と同居することと変わらなくなってしまう。こういった状況においては、武器を使用すること自体が非常に「敷居の低い」行為となるわけである。
今、自分が「正当」な権利として武器の所有を認められているなら、今度は「なぜ」自分はその拳銃を撃たないのか、が問題系として現れてしまう。つまり、自分が撃たないとするなら、それには常に「なんらかの理由がある」ことが求められる、と感じるようになる。なぜ、この人を撃たないのか。あの人を撃たないのか。それは正当なのか。
しかし、逆に考えることもできる。つまり、武装解除というのは「幻想」なんじゃないのか、ということである。
それは、端的に言えば、日本のヤクザを考えれば分かる。なぜヤクザは、いつまでたっても撲滅されないのか。確かに近年、その勢力は衰えて、縮小傾向にあることは言われている。しかし、たとえそうであったとしても、警察が自ら介入し、手をつっこんで、ヤクザを

しようと試みる、といったような話は聞かない。むしろ、明治以降、時の政権は、ことあるごとに、政府が手をつけるには、あまりに「汚い」仕事を、こういったヤクザのような、アンダーグラウンドな勢力に頼ってきた傾向があるわけで、こういったことからも、時の政権がヤクザ撲滅に血眼になるといった情景はあまり想像できない。
たしかにヤクザは、彼ら自身が自嘲的に自分たちを、オモテ社会からあぶれた存在として、控え目に生きていることは確かであって、そういった意味では、一般の人たちにとってはそれほどの恐怖を感じる日常ではない、といったところがホンネなのかもしれないが、それどころか、むしろ、こういったヤクザ勢力の隠微な影響力がある

  • から

こそ、例えば中学、高校の不良グループがその地域の「天下を取る」といったところまでの、影響力をもつようなところまで、そのワルがエスカレートできない原因になっているとも考えられるわけで、実際的に、そういった上限的な機能を果たしてしまっているんじゃないのか、とさえ考えられるわけである(また、このことは、韓国中国台湾なのでの「裏社会」、欧米の「マフィア」などの、、アンダーグラウンドにも言えるのだろう)。

冷戦時代の1979年、ソビエトアフガニスタンに軍事侵攻したとき、共産主義イスラム世界を支配することを恐れたサウジ王家は、アメリカと手を結んで、アフガンのイスラム戦士たちを支援するんですね。結果、イスラム戦士たちは勝利し、ソビエトは撤退、ソ連邦崩壊へとつながるのだけど、9・11は、このアメリカとサウジアラビアのつながりの延長にあるんだ。

1989年、アフガニスタンからソ連が撤退し、共通の敵を失ったところで、ジハード(聖戦)の戦士であるムジャヒディンたちのグループ間による覇権争いが内戦になっていったと話したね。そういうグループを「軍閥」と呼びますが、軍閥同士が結託して暫定敵に連立政府をつくったり、またそれが喧嘩して壊れたり、混乱に混乱を重ねるんだ。
アメリカやイスラム世界の支援でソ連をやっつけたばかりだから、血の気が立ったままで、武器、弾薬は売るほどある。政治的対立は即、武力衝突になっちゃいます。軍閥たちは、ソ連から勝ち取った自分たちの国なのに、何のためらいもなく砲撃し合った。住民はその砲火のなかで右往左往、多くの人が犠牲になった。その軍閥の何人かは、現在のアフガン政府のなかで、何食わぬ顔で閣僚になっているけどね。こういう日本の戦国時代の「武将」のような大物軍閥たちは10人ぐらいいる。
アフガニスタンでは歴史上、しっかりした中央政府ができて、国家が国民の安全をくまなく保障するなんてときはなかったから、個々のコミュニティーが自警団みたいなものをつくって自分たちを守るような状況がずっと続いてきた。それらは大小、国中に数えられないくらいあり、統制は誰もできない。彼らも食わなきゃならないから、住民に、「守ってやるからみかじめ料よこせ」みたいなのが出てくる。
シマを広げるために隣村の民兵グループの親分を殺して乗っ取っちゃうとか、抗争が絶えないのが地方の状況です。こういうローカルな武装グループをいくつ抱えているかが大物軍閥の力になる。このへん、日本のやくざも同じでしょう。想像力、はたらくかな。
武装グループを束ねる力となるものは、基本的にお金です。そういう財力は、地方の武装グループをつかって農民を奴隷化し、アヘンの原料になるケシを栽培させ、それを密輸する麻薬ビジネスで得ます。民族的にもつながりのある周辺国からの政治資金、そして苦しむ国民を見かねて国際社会が託す援助の着服もある。軍閥は、子飼いの武装グループを維持拡大できないと、金が切れ目の裏切りで、自分らは終わりってわかっているから、金策のことしか頭にない。国民は飢え、そして戦闘に巻き込まれて死ぬのです。

たとえば、タリバンにしてもISにしても、なんで彼らは武器をもっているのか、と言うなら、それを彼らにあげた人たち、または、売った人たちがいるわけであろう。武器なんて安いものじゃない。そう簡単に、そろえられるわけがない。だとするなら、相当な「大金持ち」が、なんらかの

  • 正義

なり同族意識なり信仰意識にかられて、彼らを支援していると考えることが普通なわけであろう。
その最初に、冷戦時代の、アメリカはソ連との「対抗」を実現するための、多くのお金と武器のばら撒きがあったことは間違いないわけであろう。ここで彼らは、武器の使い方を含めて、アメリカに習ったし、アメリカとの蜜月関係を過した。その後、彼らのパトロンが、ビン・ラディンのような、サウジのお金持ちになっていったのかは知らないけど、少なくともこういった「勢力」を

  • 育ててきた

のはアメリカだったというのは間違いないわけであろう。
そのように考えると、いかに「武装解除」を行うのかは非常に重要だ、ということになる。
武装解除ができないということは、こういった勢力はずっと「軍人」のまま、ということになる。しかし、軍隊というのは、なにかの価値を生む集団ではないから、ずっとお金の支出だけが続いていくわけで、いつまでたっても自活できない。つまり、軍隊は「お金がかかる」し、それだけでなく、その図体を維持していくとなると、ずっと固定した支出になり、いつまでも終わらない、ということになるわけである。
そのように考えるなら、できるだけ軍隊はもつべきじゃない。なければないほど、復興は早いというわけである。まずなによりも、国民が働いて、お金を稼いで、食べていけるようにならなければならない。そのためには、実際に経済活動によって、生産物を生み出し、資本をつくっていかなけれが、その国家はジリ貧なわけである。
日本が戦後復興できたのも、「武装解除」を行い、軍隊を廃止して、その分の余力を全部、経済活動に集中したから、と言えないこともないわけである。
ここのところ、宮台真司さんは元民主党で元総理の鳩山さんを例にして、アメリカからの武力依存からの脱却と同時に、日本の重武装化を主張しているが、例えば、インドネシア内にある東ティモールという非常に小さな国の例からも分かるように、重武装は、多くの面で限界があり、問題含みだと言わざるをえないように思われてしょうがない。そもそも、小国が重武装などやれるわけがない。というか、やったら経済が衰退する。この二つはリンクしているのであって、重武装を選択する限り、国家の経済的な貧困は避けられない。

でも、アメリカが9条をなくしたがっているかというと、Yes and No という感じかな。9条には "狂犬" 日本を二度と歯向かわせないという側面があります。アメリカにとって「保険」になっているでしょうね。一方で、経済成長した日本にアメリカ制の高価な武器を買わせたいという意図もあるあろうから、「自分の足で立てよ」なんて言ってみたりする。あんなデカい国、ひとつに括れるわけがないけど、アメリカの本音はそのあいだをウロウロしているんじゃないかな。

この前、「うりずんの雨」という沖縄のドキュメンタリー映画を見たが、とにかく、米軍基地があまりに沖縄住民の生活拠点に近すぎて、危ないのと、ただでさえ、沖縄の米軍基地は多すぎるわけで、長期的な段階的な米軍の削減プランは必須のように思われる。
米軍をいつまでも日本国内に巨大な広さの基地を置き、居続けさせるというのは、あまりにも悪手であろう。この最小化は非常に重要な今の問題に思われる。
そうした場合に、多くの人は中国や北朝鮮やロシアとのパワーバランスを言う人がいる。しかし、それを言うなら、そもそも日本の今の地政学的な位置関係を考えるなら、日本が中国や北朝鮮やロシアの領土となった場合、アメリカは、これらの国々と太平洋をはさんで、直接、ガチンコで対面することになるわけで、そもそもアメリカ自身が「脅威」となることを意味しているわけで、日米安全保障があろうがなかろうが、そういった事態をアメリカは嫌がることには変わりないわけであろう。
WW2の時代においては、兵站の問題もあり、沖縄という位置がアメリカにとって、決定的な意味があった。ここからなら、この東アジア地域のどこにでもスクランブルをできたからだが、近年の戦闘機などの性能の向上は、普通にハワイあたりから余裕でどこでも行けるくらいになっているわけだから、そもそも、なぜ今、日本にいるのかよくわかんなくなっているわけであろう。
そう考えると、日本に置いておく意味なんて、なんらかの「シンボル」的な意味しかなくなっているわけで、なんなのかな、という感じなわけである。
日本がなぜ戦後、すみやかに武装解除できたのかを考えると、そこには明らかに、日本の正統性が関係している。なぜ、長州藩による日本統一が成功したのかと言えば、ようするに長州藩が、当時は

  • 錦の御旗

をもっていたと考えられたからであろう。それは戦後も同じで、皇室はかなり戦略的に、GHQと交渉を行ってきたわけで、どこか突然のクーデター的に、アメリカと「手打ち」をしたと見なされた。日本は上記の経緯もあって、そもそも日本の暴力組織の正統性が天皇によってもたらされるというふうに組織されてていたから、GHQが今度は「錦の御旗」をもっていると受けとられたわけで、そうなると、そもそもの上流階級的な色彩をもつ日本の武力集団は、その正統性において、自分たちを維持できなくなっていく、という感じなのではないだろうか(賊軍になることを嫌がる、ということなのだろう)。
逆になぜ、世界中の人たちが日本に比較的に好意をもってくれるのかということでは(中国、韓国、北朝鮮を除いて)、日本がキリスト教徒でもユダヤ教徒でもない、というところにあると言うしかないであろう。ではなぜ、日本ではキリスト教徒もイスラム教徒も少ないのだろうか。日本では葬式仏教なと言われるが、実際のところは、そういった「信仰」に生きている人は少なく、どちらかといえば、心情的には

の人が多いように思われる。しかし、彼らが本当の意味で無宗教なのかは難しいところがある。なぜなら、行事としては、神社やお寺に行くことは行くわけであるから。
日本が過去の歴史において、キリスト教徒であった時期がないわけではない。それが江戸時代の最初くらいの頃であるわけだが、そのときは長い時間をかけて、幕府がキリスト教徒を弾圧した歴史がある。そういう意味では、日本人がキリスト教徒になる「素質」がないわけではないことが分かる。
つまり、明治以降に日本のキリスト教徒は少ないながらも、それなりにい続けてきたわけで、数は少ないが、各地に教会はあるわけで、つまりは、明治以降の日本におけるキリスト教は、

  • インテリ=知識人

にとっての何かだった、というところにポイントがあるように思われる。それは、マルクス主義者が日本にいて政治活動を行ってきたのと同じように、その行動はどこか「高学歴者」たちによって担われてきた、

  • 大衆とは一線を画すもの

という形での存在形態を選んできた、というのが本音のように思われる。つまりそれはそれで、「成功」している、と言えなくもない、と考えられるからである。
例えば、もしもキリスト教イスラム教が、日本の天皇と「神仏習合」が考えられるだろうか、と問うてみるといいのかもしれない。
(例えば、もしも本当に日本にキリスト教が根付かなければならないと考えるなら、上記の文脈で言えば「ヤクザ」がまず、キリスト教徒にならなければならないであろう。逆に言えば、なぜキリスト教は「ヤクザ」をキリスト教徒にしようとしないのか、という問いにもなっていく。そこから、日本のキリスト教がどこか富裕階級の「贅沢品」のような扱いになっていることを意味していく。もっと言えば、もしも日本の「治安」が応仁の乱のような時代になれば、貧困層は自分から進んでキリスト教への入信を求めてくるようになるであろう。なぜなら、グローバル資本の関係から、キリスト教会にはお金があるから。これは、イスラム教にも言える。)

これをひっくり返すため、僕はある戦術に出ました。「平和国日本は、憲法上の理念と制約から、日本国民の血税は、戦闘員を利することに使えない」、だから「日本の血税は、すべての兵員が除隊し、"市民" に戻った後にしか使えない」と。さらに、もし血税が戦闘員に使われたとメディアにスクープされたら、日本の政権は簡単に崩壊する、とも訴えた(もちろん、日本人がこだわるのは日本の平和だけで、他人の平和のためにどう使われるかなんて、どうでもいいでしょうが)。

世界の平和にとって、なによりも重要なのが市民の「武装解除」ということになる。この達成なしに、経済的な発展はない。とにかく、最初に言ったように、私たちは日常を「回りが武器を隠していない」というふうに思える

  • 安心

なしに、まともな日常生活を送れないのであって、どうやってアメリカ軍が自分たちの敵を倒すために、市民にばらまいた「武器」をその市民から奪い返すのかを考えなければならない。
いつまでも市民が武器をもっている限り、その地域の平和はない。ホッブズの社会契約論がそうであるように、基本的に市民は自らの安全をリバイアサンに譲渡しなければならない。そうしなければ、経済の発展ができないのだ。
しかし、「譲渡」すればなんでもうまくいくわけでもない。そもそも、国家権力が信用ならないのは、どこの地域でも同じなわけで、特に、お金のない国家の場合は、公務員の給料が払えない場合でさえ発生する。そうしたときに、こういった「リバイアサン」に倫理を期待するのもどうかしているわけである。彼らはワイロを要求するようになる。
軍隊であれなんであれ、一定の割合で法を破ろうとする人たちが現れる。戦後の沖縄は米軍にとって楽園だったそうだが、上記の映画にもあるように多くの米軍兵におるレイプが起き続けていた、という。どんな組織でも、一定の割合で犯罪を犯す人はあらわれる。しかしその場合に、そのことを裁くことへの「正統性」が今度は、担保されていることが重要になってくる。ここで、なぜこの問題がフレームアップされるかといえば、米軍が日本人ではない、というところにある。米軍を日本人が裁けるのであろうか。米軍は、その軍人に多くの「投資」をしている。その米軍人が犯罪を犯したからといって、その軍人が戦場において「優秀」であることには変わらない。だとするなら、「心情」として、米軍がその米軍人の罪を問いたくない、という動機が分かるであろう。

たとえばある農村に、始末に負えない乱暴者がいるとしましょう。村人は近くの警察に訴えるが、警察官はまったくやる気なし。それどころか出勤と引き換えにワイロまで要求してくる。困り果てた村人は、タリバンと話ができるとされる人物に相談する。すると、ある朝、その乱暴者はボコボコにされ、木から吊るされていた......。
前も話したように、社会生活を営む人間は、本能的に日常の問題に決着をつけてくれる「沙汰(さた)」を必要とするんだね。こうして、現在のアフガニスタンで迅速に、誰もが胸のすく「沙汰」を提供できるタリバンに、帰依と信頼感が集まってしまう。その帰依は、タリバンの敵である、アメリカとその同盟国への憎悪に変わってゆく。戦闘に巻き込まれ民衆に犠牲が出ると、さらに憎悪が高まる。こうなると、武力を投入すればするほど逆効果です。

私たちが考えているのは、「世界の市民の武装解除」だと言えるであろう。しかし、そうした場合に本当にそんなことが可能なのか、という問題に直面する。自らの武器を手放した時点で、自分は弱くなる。だとするなら、あらゆる武装解除は、

  • 全員で一斉に

行わなければ効果が見込めない。また、そうして作られたリバイアサンに、フェアネスや嘘をつかないといった倫理がなければ、市民からのリバイアサンへの信頼も生まれない。つまり、そうである限り、武装解除も進まない。これらは全て

  • ワンセット

の話なのであって、どこかだけ手を抜いて、どこかの旨みだけとりたいといっても無理なわけである。むしろ、私たちに問われているのは、「単純な正義」の有効性への懐疑、だということになるであろう...。

本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る

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