言語の「他者」性

日本に住んでいるほとんどの人は、日本語をネイティブにしてきた、そもそも、この日本列島で産まれ落ちた、そうすると、そもそも、この「日本語」というものへの

  • 反省

が生まれない。つまり、これはデカルトの言う「懐疑」が生まれない、ということなのだ。日本語で話すことは、まるで、

  • 自分が産まれる前から、その「意味」が<存在>していた

かのような「自明性」の中で、この「日本語」で語られるという「行為」が解釈される。
しかし、ここで立ち止まって考えてみてほしい。
もし私が、韓国で産まれて、子どもの頃からハングルで毎日を過ごしていた人間だったとして、高校生のとき、第二言語で選択した日本語からのつきあいて、成人になって、日本で過ごし始めた人間だったとしよう。
そうしたとき、ここで言っている「日本語」というものの

  • 実体

というのは、一体「どこ」にあるのか、なのである。ある日本語で書かれた文章があったとして、一体、この文章の

  • 本当の意味

というのはなんなのか、を考えたとしよう。なぜそんなことを考えるのか。言うまでもない、日本で生活していく上で、この日本のさまざまな手続きは、基本的に日本語によって、一意に実行されている。この手続きを遂行できることが、日本で生きていけることであり、生きていく最低限の「可能性」を担保するのだから。
しかし、他方において、私たちこの日本で産まれてネイティブに日本語を話してきたものにとって、そういった、なんといったらいいか「決意」のようなものは、非常な違和感を覚える。私たちが普段生活をしていて、少なくとも

  • 意味が分からない

日本語というのを、あまり意識することはほとんどない。ときどき、「地方」の方言のようなものとして、分からない言葉に出会うことはないことはないが、そもそもそういった場合というのは、それが

  • 田舎といった「指示性」

によって印付けられているわけで、そういったカテゴリーのものとして処理される感覚がある。
つまり、私たちの感覚としては「日本語で話されている」といった場合に、その<意味>が、

  • 自分の中では一対一に対応する<存在>

として解釈されるわけである。こういった感性は、まさにハイデガーを思わせる。ハイデガー保守主義と彼の「存在論」は非常に結びついている。存在という感覚は、ネイティブ言語の「自明」性と深く結びついている。つまり、このネイティブ言語の自分にとっての自明さであり、

  • 自然さ

が、世界の「存在」の、そのままさを「一対一」で関係づけられていく感覚だ、ということになる。
もちろん、こういった感覚が「間違っている」ということは簡単である。それは、日本語をネイティブにしていない人たちが日本語で生活し始めると感じる、さまざまなトラブルが証明していると言えるが、しかし、大事なことはなぜネイティブたちは、そういった違和感に悩むことなく、日常を過ごせてしまっているのか、ということになる。
言わば、こういった「自明性」とは、<その人>の「権力」が、それを許すような種類の暴力だと言うこともできるであろう。つまり、その人はなんらかの「整合性」の上で、そういった慣習を身につけてきたのであろうが、それにふりまわされる回りの人たちが、さまざまなトラブルを回避するために、その人の作法を学習して、「適応」している、と言うこともできるわけである。
もちろん、そういった場合に、その差異を区別することは難しい。それが一般的なのか特殊的なのかは事実において、実証的にどう言えるかの違いしかなく、論理的な問題ではない、とも考えられるからだ。
このことを考えさせられた例として、私はこの前の、サッカーW杯予選における、日本代表とマレーシア代表の試合を思い出す。ここにおいて、日本は圧倒的な攻撃力でボールを支配し続けながら、最終的に点は取れなかったため、引き分けとなったわけであるが、多くのサッカーファンがこのとき思ったことは、別に、今回だけが特別じゃないじゃないか、ということであった。つまり、なぜ同じようなことが、こうやって繰り返されるのであろうか、ということであった。
本来、サッカーと言ったとき、お互いが攻守を繰り返し、前に行っては後ろに戻る、

  • そういうもの

だと思われている。そうだから、ピンチがあってチャンスがあって、ハラハラして面白い、というわけである。そして、もっと重要なことは、「毎日の部活動での練習」が、

  • そのように

行われている、ということなのだ。つまり「それ」を前提にした練習をしている、ということである。
私が非常に分かりやすい、これと同じような事例として、日本柔道がオリンピックで勝てなくなっていった「いきさつ」を思い出す。柔道がオリンピック種目になった直後は、日本チームは圧倒的な強さで、金メダルを独占していた。ところが、ある時期から、なかなか金メダルがとれなくなってきた。それどころか、予選敗退も当たり前になってきた。彼ら日本代表の選手は、ところが、国内の日本人だけの大会では、むしろ圧倒的な「天童」とでも呼んでいいような、破竹の快進撃で無敵を誇っていた場合でさえ、そうなのである。
そこには、相手の外国人選手の

  • 奇形的な戦術・スタイル

が大きく影響していた。そもそも、日本国内の大会で両選手がまともに組み合わないなどということは、あまりない。それは、そもそも、毎日の部活での練習それ「自体」において、「組み合わない」なんていうことをやるものでもないことは、言うまでもない前提だからだ。
では、なぜ海外の選手はそうしないのか。その一つは、彼らの「バックグラウンド」がまったく異質なものから派生してきていた、といった側面があったから、と言うこともできる。例えば、レスリングの経験のある人は、レスリング技に熟練していて、その「応用」として、柔道の技に近いものを使おうとして、柔道ルールの片隅にあった技を、

  • 発見

するのかもしれない。そういった人にとって、逆に「なぜ組み合うのか」はまったく自明なことではなくなるわけである。組み合うことは、自分が負けるリスクを高めることにもある。
つまり、ここにおいて何が問われているのか、なのである。
二つのスポーツがある。一つは、放課後の部活練習の「スポーツ」である。ここにおいては、大事なことは、この放課後の部活で

  • 反復

している「こと」が、このスポーツの「実体」だということである。だから、そもそもここでやっていないことについて考察することは無意味なのだ。この練習で、毎日、組み合って乱取りをやっているなら、「それ」が柔道なのであって、それ以外になにかについて考えることは無意味になる。まさに「存在」論なのであって、それは「ある」か「ない」かのどちらかしかない。
それに対して、もう一つのスポーツとは、ルールブックに「書かれている」スポーツである。よく考えてみよう。私たちは、柔道の「ルール」だとかサッカーの「ルール」だとかを、その

  • ルールブック

なるものの「記述」にもとづいて記憶しているだろうか。というか、そもそも、そういったものの「公式」の文書なるものの存在さえ意識していないのではないか。というか、この話はもっと深刻なのである。サッカーや柔道の

  • 英語のルールブック

に何が書かれているのか。言っている意味が分からないかもしれない。つまり、私たちは日本語で書かれているルールブックと英語で書かれているルールブックは

  • 意味が同じ

だと思っている。しかし、本当だろうか? よく考えてみてほしい。ちょっとした「翻訳」の違いによって、そのルールブックを「解釈」する、各国の審判が、自国の大会において、どうしてそのニュアンスの違いによって、違った判定が起きないと言えるであろうか。
ある言葉がルールブックに書かれていたとする。そうした場合に、その使われている「言葉」の意味が、どうしてその「判定」に影響しない、と言えるであろうか。ペナルティーエリア内で、ドリブルで攻めこんでいるフォワードに対して、一体、ディフェンダーは、どのようにボールを奪いに行き、どのような角度で、どのような体の割り込み方で、奪おうとすれば、それはファールになり、ファールにならないのか。
どうして、そのことが「ルールブックに使われている言葉」によって、影響しない、と言えるのか。
日本のビジネスの弱点もここにある、と言えるのかもしれない。日本人の書く文章は、どこか「自明性」を前提にしているところがある。つまり、もっと言えば、

  • その言葉

の「外部」性、「他者」性についての畏れのようなものが弱い、ということである。日頃から、「権威」的な言語コミュニケーションに慣れてしまって、自分が高学歴だから、とか、自分が社会的なステータスが高いから、とかいった自明性によって、他者の批判を

とか

  • 僕を嫌いな人

とかレッテルをはって(敵味方にして)、言論プロレスに収斂させて、絶対に自己批判を受け入れない、まさに「東大話法」を繰り広げる言論人。その醜さは、日本人の醜さとしてあるだけでなく、上記にあるような「自明性」に関係して進められているとも言えるわけで、こういった部分が上記の日本サッカーの「弱さ」と結びついている、ということなのである...。